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  • 2020年最後の週末に…
    2020年最後の週末になりました。2日間の週末の後、すぐに休庁期間に入ります。この長期の休暇をどう過ごすのか、制作目標をきちんと決めようと思いますが、新作の全体像を見ながら長期休暇でどこまで進めるかを、改めて考えていきたいと思います。とりあえず今日は陶彫成形された部品に、それぞれ彫り込み加飾を施すところから始めることにしました。同時に先日から開始した土台となる厚板材の加工も行ないました。陶彫制作と木材加工の作業割合も一応決めておこうと思います。今日のところは午前中は彫り込み加飾、午後は木材加工と作業を二つに分けました。私の作る集合彫刻は幾つも制作工程があるため、手を替え、品を替えて、別々の作業に取り組まなければならず、飽きがこない分、身体には負担を強います。それを10日近く続けることが出来るのかどうか、ちょっとした挑戦になります。毎年この時期はそんなことをやっているのも事実です。新型コロナウイルス感染症の影響があろうがなかろうが、私は街中に出ていくことはありません。工房が私の棲家になって、寒さの中で素材と闘うのが例年の習慣です。ただし、今年は長期の休暇を利用して鑑賞のために美術館や映画館に行くことは控えようと思っています。コロナ渦が大変な状況になっていて、首都圏はダウンしてしまうのではないかと思うほどです。昨日は職場でリモートによるランチミーティングを行ないました。会議室に集まれない状況になれば、ICTを使った打合せも今後必要になるのかなぁと思います。制作は明日も継続です。今年の冬季休業は例年以上に頑張りたいと思っています。
    「意味論としての命題論と真理の論理学」第49節~第52節について
    形式論理学と超越論的論理学」(エトムント・フッサール著 立松弘孝訳 みすず書房)の小節のまとめを行います。本書の本論は初めに第一篇「客観的な形式論理学の諸構造と範囲」があって、その第5章「意味論としての命題論と真理の論理学」の中の第49節から第52節までのまとめを行います。まず、「判断作用の中で判断された事柄は判断された対象性、すなわち判断して推定された範疇的な対象性である。」という箇所にラインを引きました。次にコギトやドグサという聞き慣れない言葉が出てきたので調べてみました。コギトとは自己意識のことで、ドグサとは臆見や思い込みという意味があるそうです。「コギトが意味しうるのは《私は知覚する》《私は思い出す》《私は期待する》などである(これらのことは、たとえ叙述的に規定する思惟の領域には入らなくても、もちろんドグサの領域には含まれる)。しかしコギトはさらに私の好き・嫌いや希望か忌避かのような《評価する》心情の働きや、あるいは意志の働きなども表しうる。」という論考にコギトやドグサが使われています。次に多様体論が登場してきます。「多様体論は強制する理由をまったくもたず、多様体論自身の理論の諸形式にとって可能な真理についての諸疑問と、これと相関的に、何らかの個々の各多様体(多様体についてのそれら自身の形式的な諸理念のもとにある)についての可能な現実性(可能な真の存在)についての諸疑問を、一般に多様体論自身のテーマに引き込むための強制的な理由は何もない。」最後に純粋学についての論考です。「(1)論理学がまず認識するのは、純粋に意味と見なされる諸判断(これらには純粋に対象的な意味としてのすべての対象性も含まれる)は、それ自身完結した形式の法則性をもち、そして《判明性》の段階では、整合性、非整合性、無矛盾性の法則性をもっているが、しかしこれらの法則性だけでは、例えば諸判断に対応する各対象性の可能な存在についても、これらの判断自身の可能な真理についても、まだ何も言えない。(2)もし論理学が上記のことと結びついて次のことを認識すれば、すなわち明証的に無矛盾性のいろいろな合法則性が間接的に、論理学的な各種の合法則性の価値を、可能な真理の最初の最も一般的な諸法則の価値をもつとすれば、特に論理学的な意図に合わせて、可能な存在と可能な真理をこれら双方の可能性の本質的な諸法則が問われるべきであり、そして次に諸意味(純粋な諸判断)がそのような諸可能性と関係づけて考察されねばならず、したがってこれらは一緒に前提して考えられねばならない」今回はここまでにします。
    「意味論としての命題論と真理の論理学」第47節~第48節について
    形式論理学と超越論的論理学」(エトムント・フッサール著 立松弘孝訳 みすず書房)の小節のまとめを行います。本書の本論は初めに第一篇「客観的な形式論理学の諸構造と範囲」があって、今日から第5章「意味論としての命題論と真理の論理学」に入ります。今日はその第47節から第48節までのまとめを行います。まず、命題論的見方の派生についての論考で気になった箇所を引用いたします。「論理学にとって判断の領野は純粋にそれだけが分離して、何よりもまず独自の主題的分野にならねばならなかった。~略~諸学における述定判断の優位についてわれわれがあらかじめ行なった考察によって、おそらくよく理解されたのは、形式論理学は命題論的論理学として構成されていたこと、したがって述定判断がこの論理学の主題的な主要概念であったことであろう。」次に各意味についての見方について論考された箇所を引用いたします。「意味の解明は明証的でありうるが、しかしそうである必要はなく、間違うこともありうる。そこで意味と呼ばれている諸対象が、実は単純な諸対象とは別のものだとすれば、このことは次のことを述べていることになる。すなわち〈互いに関連し合い、そしてそのような作用として同定しながら、すでに措定されていた諸対象への回帰する判断作用と、次いで特に、認識する判断作用は同一の形式的領域と他の形式的領域にとっては異なる道を進み、そして異なる同定を行い、それぞれが異なる区別と、取り消しによる異なる排除とを行うこと〉を述べている。」今回はここまでにしますが、哲学的な論考を読み解く難しさを痛感しながら、私は自分の拙い知識の中で主訴となる部分を探しつつ、とつおいつ本書を読み進めています。哲学的な論考は最初から最後まで、どの文章をとっても多くの意味が込められていて、私では小節のまとめなど到底及ばぬところで、気になった文章の引用だけで精一杯な状態になっています。こんなことで果たしてどのくらいことが印象に残るのか、甚だ疑問に思いながら、自分の理解可能範疇にある書籍ばかりでは、頭脳を揺さぶることができないのではないかと思って困難に挑んでいるところです。
    建築家等からの意見・感想①
    「建築とは何か 藤森照信の言葉」(藤森照信他著者多数 エクスナレッジ)の第2部には、著者藤森照信氏の著作や建築を巡って、他の建築家や風俗史家による意見や感想が掲載されていました。今回は5氏を取り上げます。まず建築家安藤忠雄氏の質問で「ご自身の建築は歴史の〈外〉にあると思われますか、それとも〈内〉にあると思われますか?」という問いかけに、「当然、現代建築史の〈内〉に自分はいて、少し向きのちがった設計をしている、との自覚をずっと持ってきた。でも、それはそう思いこんでるだけのことかもしれないと、《高過庵》(2004)を作ってから疑いはじめている。」と藤森氏は答えています。次に建築家石山修武氏の感想です。「安藤忠雄と双璧の、彼は眼玉の思索家である。双方共に日本独特な知識人の欠点、病理から自由であった。完全にではないけれど、少なく共自由であるかの如く振る舞ってみせた。共に自分の眼で視たものだけを頼りに思考した。それが最大の歴史的価値だろう。」3人目は建築家伊藤豊雄氏の感想です。「藤森さんの建築は近代主義建築の最も根源的な問題を衝いています。それは氏の建築がいかにも趣味的に見えながら、近代主義建築の芸術論と社会主義的改革を一致させようと試みた矛盾に対する批評たり得ているからです。」4人目は風俗史家井上章一氏の感想です。「歴史家としての藤森さんは、彼ら西洋建築の導入者を高く評価してこられました。在来の規範を解体する、その下地を作った建築家たちを、うたいあげてこられた。そして、今は、ばらばらにされた在来工法の断片を、建築家として、自由に組み立てておられます。」最後に国際日本学部で教壇に立つ森川嘉一郎氏が次のような問いかけをしています。「『和風』や『日本様式』の趣味は、今後どうような力学で決定され、どのようなスタイルになっていくのでしょうか。」それに対して「日光東照宮で作るか桂離宮で作るか、の問題は日本の建築界にはありました。でも、日光で売るか桂で売るかの問題は、建築家たちは考えてこなかった。建築家をのぞいた意味でのデザイナーのテーマだった。」と藤森氏は答えています。今回はここまでにします。
    「21世紀建築」について
    「建築とは何か 藤森照信の言葉」(藤森照信他著者多数 エクスナレッジ)の「魅惑の原始住居」と「21世紀建築」についてのまとめを行ないます。「原始的な住宅は大きく二つに分けられて、一つは縄文住居みたいな大屋根のワンルーム、ロングハウスといいます。もう一つは分棟する。なぜ分棟するかは分からないんですが、例えばアフリカの原住民や暑い乾燥地帯の人たち、それとノルウェーやフィンランドの古い家も一つの敷地の中に小さいのがいっぱいある。だから、気候がきついところは分棟とも言えるんです。」ひと頃前の幾何的な近代建築から現代に至る建築史の中で、最近は自然や風土を建築に取り入れている例が増えてきたことを私も感じます。「21世紀の建築の大きなテーマが、歴史と自然であることはまちがいないんですよ。20世紀建築は、その二つを否定したわけではないけれど、思考の外に置いた。だから、新しい問題として考えないといけない。自然というものを考えていくと、どこかの時点で人間の原始性や社会の原始性が出てくるはずなんです。~略~自然状態の人間、自然状態の社会は、20世紀建築が見落としてきた。建築の外部である自然と歴史の問題は、これからちゃんと考えていかないといけない。」現代という時代を考えると、建築は100年以上遅れていると著者は捉えているようです。それは現代も建築の重要な素材である鉄とガラスとコンクリートは18世紀後半の産業革命で出てきており、他の分野から見れば話にならないほど建築は遅れているということになるわけです。21世紀の建築は個人の時代とも著者は言っています。「最終的に建築家は客観的に論理的に理詰めで建築を作ることはできないし、建築の技術、表現は建築家に託すしかないわけです。」さらに個性が強調される現代の建築。私たちのアートの世界でも、縄文を初め古代世界に自然との関わりや人間の生命感を求めていったように、建築も自然や歴史を考えながら人間の住処を考えていく動きに私も興味が湧きます。そうした中で日本が古来からやってきた数奇屋を見直す動きもあるようです。「数奇屋というのは時代を超えてしまったんです。様式の盛衰にのらなかった。1920年代の初期モダニズムも日本の数奇屋と同じようになるかもしれない。」今日はここまでにします。