2025.10.11 Saturday
少し前までは酷暑が続き、秋風が立つのはいつ頃なのか待ちわびていましたが、漸く今週の朝晩は涼しくなってきました。工房へ行く時は上着を着ていますが、作業中は上着を脱ぎます。作業時間も従来の時間に戻し、朝は9時から夕方は3時まで作業をすることにしました。大型扇風機も稼働することが少なくなりました。やっと創作活動に適した季節が到来したことを喜んでいます。今週はどこにも行かず、毎日工房に通って陶彫制作に明け暮れていました。気候のおかげかもしれませんが、ふとしたはずみで陶彫を成形したり、彫り込み加飾を施す自分の手元しか見えない時間帯があり、過ぎていく時間も周囲の空間もまったく目に入らない集中した状態になったこともありました。心理学で言うフロー状態なのかもしれず、これがやってくると私は忽ち満足を覚え、また嬉しくもなります。創作活動はイライラしたり、気持ちが不安定になる時がありますが、逆に心地よく作業が進んでいく時もあり、それら全てが創作活動なのだと思っています。今週は小さな陶彫作品を4点作っていました。現在作っている新作は大きめで、陶彫部品と厚板材を組み合わせたものになります。その実験として小さな作品を作っていましたが、これは雛型ではありません。私は雛型をどのように考えているか、それはいずれ別稿を起こそうと思います。私は最近の小品には「陶紋」という題名をつけて、個展には通し番号をつけて展示していましたが、今回作っている作品は陶彫だけではなく、板材を組み合わせようとしているので、題名を別に考えるつもりです。小品と言えどもサイスが違うだけで、手間がかかるのは同じです。制作工程も同じで、焼成をしないうちは完成品とは呼べないのです。ただし、ひと窯に4点全部入れられるのが利点だろうと思います。
2025.10.10 Friday
現在読んでいる「廃墟論」(クリストファー・ウッドワード著 森夏樹訳 青土社)は、廃墟に関して建築史や土木史を振り返って考古学的な論考を行なうものではなく、現在残存している廃墟に関する状況を見て、それを文学的、あるいは絵画的な情緒で綴っていて、時に著者の感覚的な捉えを理解しなければならないと私は思っています。まだ本書を半分しか読んでいないのですが、これは所謂学術書の類ではないと私は判断しています。昨日、NOTE(ブログ)にアップした「傘も差さずにエフェソスで」という章では、私も20代最後に行ったことがあるトルコのエフェソスでの散策を思い出しましたが、著者はそのエフェソスの考古学的価値を確かめることはなく、眼に映る風景の一場面として扱っていました。そこから派生したさまざまな廃墟に関する著者なりの考察が続いていましたが、古代ローマを廃墟論の中心に据えることが多く、暴君が建造した強固な浴場も、そのうち石と石の間に植物が入り込んで、次第に石造のカタチを保てなくなるというものでした。人間が作るものには限界があり、時間が経てば自然の中に取り込まれてしまうのを、やはり自然が勝利する一歩手前で、人工物と自然物が鬩ぎ合う境界が廃墟なのだろうと、私は著者の文章から感じ取りました。廃墟が齎すものは、詩的内面を求めるとすれば、それは文学であり、芸術なのですが、最近では外見として恰好な観光資源にもなっています。廃墟が美しいと感じる心はどこからくるものでしょうか。完璧なカタチであったものが、幾星霜を経て所々欠損してしまい、それをそのまま愛でる心が人間のどこかにあるのでしょうか。私は日本人で亡父が造園をやっていたので、ヨーロッパで見た整備された幾何学的な庭園に、自然を支配する権威的な力を感じても、美しいと感じることはできませんでした。自然を再現する日本庭園の方が私には合っていたのでした。それは人工物と自然物が鬩ぎ合うものではなく、自然に包まれていくことを見通した美の在処でした。そんなことも考えつつ「廃墟論」を読んでいますが、著者がいかにもイギリス人だなぁと思うところもあります。
2025.10.09 Thursday
「廃墟論」(クリストファー・ウッドワード著 森夏樹訳 青土社)の4つ目の章は「傘も差さずにエフェソスで」という題がついています。著者がトルコのエフェソスを訪ねた折に、頭に去来する廃墟のあり様を綴ったものと解釈しました。まず英ロマン派の詩人パーシィ・ビシュ・シェリーが登場する箇所。「シェリーが未来に希望を見つけ出すことができたのは、古代ローマの遺跡の中だけだった。とりわけそれは、カラカラ浴場の中で咲き乱れる花や木々の中だった。浴場の壁はいわば暴政の力を象徴していた。それはカラカラ帝の権力であり、ブルボン家の権力であり、そして『旧態然として、蒙昧で、軽蔑すべき、死に瀕した』イギリス国王ジョージ三世の権力でもあった。しかし、皇帝の中でも際立って残忍な者(カラカラ帝)によって建てられた、権力の象徴である建物も、イチジクやギンバイカや月桂樹などの根が、徐々にその石組みに入りこみ、それをゆるめていくにしたがって、崩れ、崩壊しつつあった。草木の活力に満ちあふれた、猛々しい多産な能力は、自然の避けがたい勝利を約束していた。」次にファン・ゴッホを取り上げます。「ゴッホの『ヌエネンの教会の塔』(1885。一般には『農夫たちの教会の中庭』という題名で知られている)という絵の中で描かれているのは、廃墟となった石塔である。それは木で作られたいくつかの十字架で取り囲まれている。そして十字架は、村人たちの墓のありかを示していた。この絵が描かれたのはゴッホの初期の時代だった。当時、彼は田舎の貧しい人々を描いていた(この時期の描かれた作品で、もっとも有名なものは『ジャガイモを食べる人々』)。そして彼は、貧しい人々の生と死を自然のリズムの一部として認識した。その自然は農作物を植えたり、収穫する季節として、農夫たちには欠かすことのできないものだった。みすぼらしいが飾り気のない十字架は、びちゃびちゃの大地にあたかも根づいているかのようにして立っている。教会の庭にある大地は、畑の大地とまったく同じものだった。この十字架と対照的な姿で描かれているのが廃墟と化した教会の石塔である。それは何かむりやり押しつけられたもののように不自然に描かれている。ここで暗に示されているのは、自然の深いサイクルに比べて、つかの間のはかない存在にしかすぎない宗教という異質なしきたりだった。」今回はここまでにします。
2025.10.08 Wednesday
今日の朝日新聞「天声人語」の内容に眼が留まりました。全文を掲載します。「芥川龍之介が、小学2年生か3年生のときだった。かわいいと思うもの、美しいと思うものを書きなさい、という課題が出た。自伝的短編『追憶』によれば、芥川少年の答えは『象』と『雲』。先生は『雲などはどこが美しい?』と言い、✕印をつけたという。ずいぶん乱暴な先生もいたものだ。雲は美しい。特に、この季節、秋の雲は格別だ。春のかすんだ雲とも違い、夏の巨大な入道雲とも異なる。高い空に刷毛でさっとはいたような切れ切れの白い雲は、何とも爽やかである。秋の天気はうつろいやすく、雨や曇りも多いが、それもまたいい。秋陰との言葉もある。陰った空から降る雨は静かで、しっとりとしている。〈蘆も鳴らぬ潟一面の秋ぐもり〉室生犀星。暦を見れば、きょうはもう二十四節気の寒露である。辞書には、露が冷気にあたり、凍りそうな秋の深まりとある。ついこの間までは酷暑の夏だったのに、曼殊沙華も慌ただしく咲き散り、駆け足の秋に気づく。辞書の同じページには、寒露と同音の甘露もあった。甘い味の液体で、中国古来の伝説では、為政者が善政をしくとき、天から降ると言われる。はて、次の雨の日には空を見上げ、舌でも出してみようか。『人生を幸福にするためには、日常の瑣事を愛さなければならぬ』とも芥川は書く。『雲の光、竹のそよぎ、群雀の声、行人の顔、ーあらゆるの日常の瑣事のうちに無上の甘露味を感じなければならぬ』。とるにたらない些細にこそ、美しいものはある。」秋の風情を描いた美麗な文章の中で、私が気になったのは教師がつけた✕印です。芥川の自伝的短編にたまたま掲載されたから、これが発覚したけれど、多くの児童は雲の美しさに否定的な見解を持つこともあるだろうと察します。何と感受性の希薄な教師がいたことかと嘆きつつ、止まれ、現在でもこんな感覚をもつ指導者がいるのだろうか、と疑いたくなる昨今の教育事情もあります。自分が教壇に居た時、己の感覚を生徒に押しつけていいものかどうか、とりわけ美術科授業の中では迷うことが多々ありました。生徒の美しいと感じる心に共感できるかどうか、眼の前に評価がちらつく焦燥感も同時にありました。
2025.10.07 Tuesday
先日見に行った「円山応挙」展の中心に据えた話題作は「竹鶏図・梅鯉図屏風」で、大勢の鑑賞者が作品の前に集まっていました。私も嬉しさを噛み締めながら、じっくり作品を見つめていました。どんな作品なのか、2024年10月8日に私が綴ったNOTE(ブログ)から引用します。「『ともに江戸時代中期の京都画壇を代表する絵師、伊藤若冲(1716~1800)と円山応挙(1733~1795)が合作した屏風が新たに見つかった。2人の合作は類例がない。』(朝日新聞記載)若冲と応挙の展覧会となれば、私は必ず出かけていき、それぞれ画風の異なる超絶技巧の作品を別の場面で堪能してきました。発見された屏風は専門家の鑑定により真作と判断されたようです。~略~この屏風は是非とも見たいものですが、近々大阪中之島美術館で公開されるそうです。これは将来、関東にも巡回してやってくるのでしょうか。」この時の私の気持ちが天に伝わったのか、東京日本橋の三井記念美術館で2大巨匠の競作を見ることができました。今回の図録より引用いたします。「いくぶん控えめな鯉と梅を描いた応挙の絵を見て、若冲は鶏の尾羽に思い切り筆を揮った。応挙は、17歳年上の若冲に敬意を払ってこの絵を描いた。そして若冲は、そんな応挙の敬意と実力をよくわかっていて、だからこそ、おそらく応挙から提案されたこの合作の依頼を受けたのだと思う。そして、私はいまこの合作屏風に眼を凝らしながら、あらためてこの二人の絵師のありように思いを馳せている。若冲の作品は、そのほとんどが花鳥画である。人物画、仏画も手がけてはいるが、きわめて少ない。そして、いわゆる山水画は皆無である。それに対して、応挙は山水、人物、花鳥など、あらゆる画題を手がけて、非の打ちどころのない完璧な様式をつくりだした。」(山下裕二著)京都画壇にあって、しかも自宅も近かった2大巨匠は、きっと競争意識もあったはずで、それ故、合作屏風に籠められた画魂にただならぬ気配を感じたのは私だけではないでしょう。一緒に見ていた家内もその気迫に押されていました。本作は一見に値する作品だと思います。