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  • 「庭園と樹木」について
    「ピクチャレスクとイギリス近代」(今村隆男著 音羽書房鶴見書店)の「第3章  ピクチャレスクと庭園」の「3庭園と樹木」を取り上げます。本単元はマーシャルの「植林と装飾庭園」が中心になります。「この作品(植林と装飾庭園)が出版された1785年は、産業革命のみならず囲い込みと結びついた農業革命が進展した時期であり、農業の中でも特に木材に関わる林業はイギリスの森林が減少する中で国家的な課題になっていた。風景庭園が数多く造園されたのもこの時代で、80年代始めまで活躍したケイパビリティ・ブラウンが死去した2年後に、この『植林と装飾庭園』は出版されている。~略~造園の『人為』の基本は『自然』を模倣し、『有効性』を創出し、望ましい『趣味』を見せること、これら三者を尊重して庭園の『場所』と『目的』に適合させることであると説明する。~略~望ましいのは『自然』と『人為』とが『見事に融合した』場所であり、完全に『放っておかれた』自然よりむしろ、少しは『人間の手の入った』自然の方を彼は推奨する。~略~彼が所有者に対して要求することの核心は『自然から基本的な原理を学ぶ』ことで、そのためには個々の庭の土地をよく観察することによって各々の状況に応じて自らの造園方針を確立すべきとされる。ブラウンがイギリス中に造った数多くの風景庭園が、どこも同じ類型に基づいて造られた画一的なものであったことと比べると、マーシャルが地所ごとの特徴を把握して個別性を尊重するように説いていることは注目に値する。~略~ピクチャレスクとの関係で重要であると思われるのは、マーシャルが視覚以外の感覚も使って『自然と会話』することが肝要であると述べていることである。『自然と会話』するとは、園内を自由に歩き回って細かな観察によって自然の移ろいを感じ取り、自らの精神を共鳴させることであると彼は説く。このような行為が意義を持つのは、『万物創造の神』によって創られた自然を五感によって楽しむことが神の賞賛につながるからであり、森林の持つ意義は当然ながらキリスト教神学の思想に結びついている。しかし、ここには森林浴のような行為に意義を見出す現代的な自然との交わり方に発展してゆく自然礼賛の姿勢を見出すことも可能だろう。」今回はここまでにします。
    「庭園論の変遷」について
    「ピクチャレスクとイギリス近代」(今村隆男著 音羽書房鶴見書店)の「第3章  ピクチャレスクと庭園」の「2庭園論の変遷」を取り上げます。本単元はメイスンの「イギリス庭園」が中心になります。「この『簡素』が教えてくれる造園のルールは『自然から導きだされた』ものであると言う。『簡素』はこの詩の中でたびたび賞賛されているケイパビリティ・ブラウンの造園の真髄とされており、逆に『簡素』を欠くその正反対の例としてはフランス風の整形式庭園や、メイスンと対立していたチェインバーズの中国趣味の庭園が挙げられる。~略~造園理念の基本は、自然の『多様』で『豊かな』部分部分から『美しい全体』を生み出すことであり、これはライスダールの絵画の色彩が教えてくれる。この理念のもとに、実際の庭園風景は『前景』、『中景』、そして『遠景』の三つの部分に分けて捉えられ、その三部構成による風景の描出が『調和』を支えるとされる。~略~歩みを進めるにつれて隠れていた全景が次第に視野に入ってくるという漸次的変化の工夫も必要である。つまり、メイスンの造園アドバイスを要約すると、移動による庭園鑑賞者の視点の変化を十分に考慮しながら、奥行きも含めて風景全体の多様性を生み出し、かつ視野全体が調和するように工夫するということになるだろう。初期のピクチャレスクの美学では枠組みに入れられて静止した風景を絵画的に認識するというのが観照の基本であったが、メイスンは自分の意思で動き回って風景を変化させて楽しむという能動的なアプローチを推奨している。~略~フランス風の人工的なこの装飾とは反対に、園内の湖の曲線は林の中を巡る遊歩道以上に『ワイルドに』曲がりくねるように、余り手を入れすぎないでできるだけ元のままの状態を残すようにと彼は指示する。その意図がフランス的要素と同様に結局のところは本質的には人為的であると言えるにせよ、視覚的に景観が『自然』風に見えるかどうかということがイギリス風景庭園の基準とされ、この点が何よりもここでは優先されている。」今回はここまでにします。
    週末 造形空間の範囲
    日曜日になりました。日曜日は創作活動についてNOTE(ブログ)を書いています。今日の内容は、制作されたものを美術作品として認知するという現代では当たり前になっていることを改めて振り返ってみようと思います。古来、美術としての概念がなかった時代には、例えば原始時代は視覚的作用によって獲物を捕獲する記録を刻んだり、中世ではその時代の戦意を昂揚させる目的として、またその国の勇ましい歴史を鼓舞する手段として、壁や建物に造形物を浮彫りしたのが彫刻としての作為の始まりではないかと考えます。そうした装飾物を建築等から独立させて、観賞の対象としたのが現代に通用する美術作品の誕生だったのだろうと思いますが、そのために絵画には額装が必要になり、彫刻は土台を必要としました。場所も公共空間や教会から美術館や画廊へ移り、テーマも宗教以外のさまざまな内容が登場してきました。現代では、近代が得た美術の定番を翻らせることになり、額装や土台を必要としなくなり、周囲の空間そのものを造形化する方向に進んでいます。私の陶彫による集合彫刻も土台を必要としません。展示する場を考えながら作品を点在させて、その空間を演出していくのです。ただし、壁に掛ける作品は木枠を付けることで造形空間の範囲を決めていく予定です。実はその作品でも当初は範囲を限定することは止めようかとも思いました。そうしなかったのは、床置きする陶彫による集合彫刻と、壁に掛ける作品の主張する内容が真逆にあると考えたからです。床置きの作品は外へ広がる空間を考えていて、壁に掛ける作品は内なる空間に向っていくことを想定していたのでした。内に籠るという表現は、範囲を限定した方が効果的ではないかとも判断しました。床置きの立体作品より壁に掛ける作品の方が平面思考が強く、物質的な要素はあっても、色彩を塗っていく行為は内面性を表現するのに適しているのではないかと私の勝手な解釈に頼りました。それがどこまで効果があるのか分かりませんが、今夏の個展で発表する予定なので、観賞者も含めてさまざまな人の判断を仰ぎたいと思っています。
    週末 制作onlyの1週間
    週末になりました。土曜日はその週の振り返りを行ないます。来週になると如月会の親睦会やら車の定期点検、母の七回忌等があっていろいろ予定が詰まっていますが、今週はそうした用事がなく、1週間丸ごと制作だけで過ごせた日々で、まさに制作onlyでした。今週は壁に掛ける新作のレリーフとなる杉板の刳り貫き作業ばかりやっていたのですが、昨日と今日はそのレリーフを設置するパネルに木枠を取り付ける作業に入りました。画面とレリーフの間に僅かな空間を作るため、それらを保護する目的で、パネルの周囲に木枠を付けていくのです。壁に掛ける作品は造形空間に一定の範囲を与えることになりますが、それについては後日改めて自分の考え方を述べたいと思います。今週はそんなわけで制作の事ばかり考えていて、壁に掛ける作品の当初のイメージを掘り起こしてみたりしました。この作品の画面には油絵の具で色彩を施すことを計画していて、絵画性も充分存在している作品なのです。隣り合わせる色彩をどうするか、筆致をどうするか、それと組み合わさるレリーフの杉板材に、どのような効果を持たせるか、あれこれ考えたり試したりするのは楽しい時間です。陶彫作品にも砂マチエールに色彩を施した厚板材を合わせていくので、床置きの陶彫作品にも絵画性はあると思っています。絵画性における私の認識は、陰影のついた描写を可能な限りやらずに済ませようとするもので、絵の具の塗装は平塗を基本にします。杉板材のレリーフとの相性は平塗がいいと思っているからです。ただし、絵の具の掠れは大いに利用します。書をやっている元管理職の同僚と話している時に、書の掠れがその強弱により平面を超えた空間を演出できるのに着目しました。意図的に掠れを作るのもなかなか難しいかもしれませんが、私も壁に掛ける作品の中でやってみようと思っています。筆とそこに含ませる絵の具の量で加減していくのかなぁと考えていて、次の段階では平塗の処理をどうするか、試行してみたいと思います。
    新聞記事より「未完で…」
    今日の朝日新聞「折々のことば」に掲載された記事より、その内容を取り上げます。「未完で生まれて未完で生きて、未完で死ぬ。 横尾忠則」この言葉に著者の鷲田精一氏がコメントを寄せています。「作品の完成を前にしながら最後の一歩が踏み出せずに終わることはつねにあると、美術家は言う。ピカソの『ゲルニカ』も、画面は描き損じたり消し忘れたりしたままで、そこに彼の迷いが垣間見えるから見応えもあると。人間はいつもどこかへ向かう途上にある旅の人、止まればいのちが途絶える過客であって、それ故にこそ自由も可能となるのだろう。『飽きる美学』から。」美術家横尾忠則氏はグラフィックデザイナーから画家へ転身し、鮮烈な作品を数多く制作しています。高校の同級生で俳優の竹中直人君は、昨年の夏に横尾氏にインタビューを行なっていました。その足で竹中君は私の個展に来てくれたので、横尾氏の現在の状況が生々しく伝わり、私には巨匠とも言える横尾氏が身近に感じられました。作品は常に未完成で、それが東京の画室に雑多に立てかけてあったそうで、その映像を見て私も刺激をもらいました。確かに作品を完成させようとすると、それをよく見せようとする意識が生まれ、その分作品はつまらなくなっていきます。銀座のギャラリーに展示した私の作品は、こんなにも退屈だったっけと思う節もあり、未完成な状態の時の方が何故か生き生きとした詩魂があるように思えてきます。だからといって陶彫作品は窯入れしなければ作品の体を成さないので、集合彫刻をまとめる時に、バランスを敢えて欠く部分を作ってみたりしました。それでも完成をしないというのは落ち着かない心の状態のままでいるので、現行の作品につい決着させたいと思ってしまうのは生真面目な自分の性格によるものなのか、完成していないと次へ進めないと自分の中で手枷足枷を嵌めてしまうせいなのか、その内心を自分で推し量る事さえ分かりません。ただ、未完の方が作品は面白いままだということは充分理解しているつもりです。