2025.10.26 Sunday
日曜日になりました。日曜日には創作活動に纏わる内容をNOTE(ブログ)に書いていて、通常は土曜日にその週の振り返りを行なうのですが、昨日は女子美祭に出かけてその感想を書いてしまった関係で、今日は土曜日に代わって先週の振り返りを行ないます。先週は火曜日に地域にある市立中学校が主催する学校運営協議会があり、この日は陶彫制作を休みました。土曜日は女子美術大学に出かけたので、この日も陶彫制作を休みました。火曜日と土曜日の2日間、工房での作業を休むということは、この2日間に窯を稼働すれば都合が良いと考え、先週は2回の窯入れを行ないました。この2回の窯入れで、大きめの土台を成す新作の陶彫部品は全て焼成が終わることになります。焼成日以外の日は窯入れの準備を行なっていて、先週1週間は乾燥した陶彫部品にブロックサンダーで仕上げを行ない、化粧掛けを施す作業を中心にやっていました。陶彫制作は土練機で土を練ったり、成形やら彫り込み加飾をするのを前半とすると、後半は仕上げや化粧掛け、さらに焼成を行なうという制作工程があります。このところ、後半に当たる作業ばかりをしていますが、何と言っても陶彫は焼成によって全てが決まるため、この人の手が及ばない窯入れが最重要な工程なのです。この焼成のために土練りの段階から工夫を重ねていると言っても過言ではありません。今週は前述した学校運営協議会があり、中学校の授業参観を兼ねながら会議に参加してきました。私の住む地域の中学校は全体的に生徒が落ち着いていて、いい具合に授業が進行していました。美術科の授業では透視図法のことを教員が熱心に説明していました。自分が教員であったことを忘れないために、こうした機会は大切だなぁと思っています。私が教員だった故に私を慕ってくれる教え子たちがいて、その子たちが美術専門の道に進み、美大の学園祭に付き合ってくれるのも、その関係性に私は有難さを感じています。美術専門の道はなかなか厳しいものがありますが、教え子たちはそれぞれの夢をかなえるために邁進して欲しいと私は願っています。
2025.10.25 Saturday
週末になりました。今日は工房によく出入りしている学生で、私の教え子でもある美大生に案内されて、女子美術大学の学園祭「女子美祭」に行ってきました。彼女は工芸学科で染織を学ぶ学生で、現在卒業制作に取りかかっています。女子美祭では注染という技法で作った作品を展示していました。卒業制作にも注染を使って大きな染物を仕上げようとしていて、大学が休みの週末には相原工房に来ています。そんな生真面目な彼女の姿勢を見ていると、その頑張りに期待したいと思っています。私は若い世代の作品を見るのが好きで、その可能性に未来を託しています。女子美術大学の特徴としては、日本画と染織に水準の高さが見られるかなぁと感じていますが、どうでしょうか。最近の美大生の傾向として、アニメーションに出てくるキャラクターの影響が見て取れます。影響を受けるのは決して悪いことではありませんが、キャラクター風になることで、創作行為が限られてしまうと考えるのは私の偏見でしょうか。昔から誰かの作品に似ているというのは、私にしてみれば避けたい対象でした。どこかで見たような作風と言われると、私は残念な思いがして、自分の個性とは何かを突き詰めてきました。勿論、自分の創作にも誰かの影響があり、どこかで見た情景が甦ることは多々ありました。その積み重ねが現在の私自身を作っているのは紛れのない事実です。そんな中でも自分なりの素材を選び、自分なりの理論を組み立てて、表現の取捨選択をしてきました。そんなことまで考えが及ばなかった学生時代は、兎にも角にも人体塑造に明け暮れていました。古来からの彫刻の基本をやっていることで、芸術思考が足りない自分を保つようにしていました。基本に忠実なのは創作意欲が湧くものではありませんが、あの頃はこれでいいのだと自分に言い聞かせてきました。美大の展示を見る度に、自分の学生時代と比較するのは、世相的にも意味のないことと思いますが、自己表現を追求するのは並大抵のことではないと改めて思い返してしまうのです。
2025.10.24 Friday
「廃墟論」(クリストファー・ウッドワード著 森夏樹訳 青土社)の8つ目の章は「廃墟となった自画像」という題がついています。本章では建築家ジョン・ソウンについての論考です。「ソウンは1753年、レンガ職人の末男として生まれた。やがて彼は、摂政時代(ジョージ三世の治世中、皇太子ジョージ[のちのジョージ四世]の摂政期間。1811-20)のロンドンでもっとも成功した建築家として、ジョン・ナッシュ(1752-1835。イギリスの建築家・都市計画家)と競い合うようになる。ソウンは当時のイギリスで、もっとも美しいインテリアのデザインを手がけた天才的な建築家だった。こと建築という仕事に関するかぎり、彼は非常に几帳面で、有能であり、世知にたけていた。しかしプライベートな生活となると、内省的で、メランコリックな一面をもち、ひどく気短なところも見せた。ソウンはレンガやモルタルや土地造成といった、味も素っ気もない建築の世界に、はじめてロマン主義運動の『疾風怒涛』をもち込んだ建築家である。~略~彼が建築事務所で最初にやらされた仕事が、イーリングの古い館に新しい家屋をつけ足す作業の助手役だった。のちにこの館を買い取ったソウンは、館を壊したのだが、唯一壊すことをしなかった所が、若年、彼が自分の家屋の拡張を手伝ったところだった。館を入手して2年後の1802年、彼は報道関係者に次のような原稿を送った。『最近、イーリングのピッツハンガー館で、非常に古い神殿の遺跡が発見されました、古代をこよなく愛する人々にとっては喜ばしいことなので、ここに情況を報告します』。~略~もちろん、廃墟は人をいっぱい食わせるための悪ふざけである。そして原稿もまた、『ジェントルマン・マガジン』誌に定期的に寄稿している古物研究家が書く論文の体裁をまねた模倣作だった。~略~ソウンは自分の家のファサードを『1枚の絵、つまり一種の自画像』としてデザインしていた。それは成功のまっただ中にいた建築家の自画像、そして建築の権威としての自画像だった。してみると、こうした一連の解釈は、30年後に彼が、改めて自画像を廃墟にしたという事実を説明するものなのかもしれない。」今回はここまでにします。
2025.10.23 Thursday
今日の朝日新聞「天声人語」の内容に眼が留まりました。全文を掲載します。「東京ではきのう気温がぐっと下がった。筆者と同様に、慌てて冬物を出した方もいるかもしれない。詩画で知られる星野富弘さんが衣替えの思い出を書いている。樟脳のにおいには『ほのかなやさしさ』が伴っていて、それは『運動会を見に来てくれた母のきものの裾のにおい』だからだ、と。星野さんは24歳のときに、事故で首から下が動かなくなり、口にくわえた絵筆で草花を描いた。季節の移ろいや、それを伝えてくれるにおいには、それゆえに敏感だったのだろう。刈り取られた後の稲穂、路上に散らばるギンナン…。秋本番のにおいと言って、わが脳裏に浮かぶものはいくつかある。けれども都会暮らしの身としては、キンモクセイを忘れるわけにはいかない。自宅の近くでは、数日前から芳香が漂い始めた。毎年のことでありながら、こんなにも甘くうっとりさせるものだったのかと、自然の力に驚かさせる。ふだんは目立たぬ植え込みに過ぎず、ほかの木々が輝く新緑の季節もぱっとしない。なのに、ある日突然『ここにいるよ』と鼻をくすぐる。あんなに小さなオレンジ色の花のどこに秘密が隠されているのか。自らが置かれた境遇も重ね合わせたのだろう。星野さんはキンモクセイの絵に、こんな言葉を添えている。『花が咲くのは年に一度/後は静かに時を待っている/あくせくするのは止めよう/一度でいい ひとつでいい』。花に顔を近づける。時の積み重ねの中で培われた命の力強さを、深く吸い込んだ。」星野さんは不遇の事故に遭うまで群馬県の中学校で体育科教諭として仕事をしていました。そのためか私たち教員経験者には、極めて印象的な作家なのです。謙虚な植物にも一年1度の存在感を示す時があり、香しい匂いを発する時期を静かに待っているというのが今日の内容でした。私は政治色のない「天声人語」に目が留まる習性があるらしく、たまにはこんな季節等の情緒が醸す記事があってもいいのではないかと思っています。
2025.10.22 Wednesday
「廃墟論」(クリストファー・ウッドワード著 森夏樹訳 青土社)の7つ目の章は「大まじめに作られた模造廃墟」という題がついています。「偽古典的な模造廃墟を建てたいとする情熱がもっとも強かったのはフランスやドイツ、それにイギリスだったが、それを最初に実行したのはイタリアだった。おそらくそれは驚くほど、ふんだんに本物の材料を利用したものだったろう。記録に残っているもので、もっとも早い時期に作られたのは、1530年、建築家ジローラモ・ジェンガによってデザインされたウルビーノ公の公園の二階家だ。公園はペーザロ(イタリア中部マルケ州の都市)にあったが、建物はすでにない。現存しているものでもっとも初期の人工廃墟といえば、ジャン・ロレンツォ・ベルリーニによって作られたバルベリーニ宮殿の橋ということになる。橋はローマにある。宮殿の控えの間と庭との間に堀があり、その堀にふたつのアーチが架かっている。これが人工の廃墟。」次に私が着目したのはルーヴル美術館をテーマにした絵画です。「ここに一枚の絵がある。『廃墟と化したルーヴルのグランド・ギャラリー想像図』。この有名な絵がわずかに彼の心の中の混乱した様子を伝えてくれる。1796年のサロンにロベールは、セーヌの岸に平行して走っているルーヴルのグランド・ギャラリー改造を示す絵(『グランド・ギャラリーの改造案』)を出品した。そして同時に対をなす形で、彼はもう一枚『廃墟のルーヴル』を出した。それはあきらかに、どこまでもはてしなく続く画廊で、屋根はなく空が見えている。円天井から垂れ下がっていた装飾(ペンダント)を見ると、この絵が廃墟を描いたものであることがはっきりとわかる。画家はアポロン像を描いているが、その足元では、農夫たちが薪代わりに絵の額縁を燃やしている。ここで注目すべきは、この絵を構成するすべてのディテイㇽー断片と化した円天井、植物、農夫と廃墟を共有する画家といった要素がローマの風景から移し替えられていることだ。それは何のためかといえば、未来のパリの風景を表わすためだった。散らかった断片の中には傑作と目される美術作品が三つ見える。それもまったく無傷のままである。ベルベデーレのアポロン像(ヴァチカン宮殿にある石像。19世紀に古典美の典型とされた)。その足元にあるのがラファエロの胸像。それにミケランジェロの『奴隷』像である。ロベールにとっては、混乱をきわめた時代の中で、ただひとつ芸術品の永遠性だけが確実なものに思えたのだろう。」今回はここまでにします。