Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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  • 柿に纏わるよもやま話
    昨日の朝日新聞「天声人語」の書き出しに柿が登場していました。「晩秋に思うのは、柿である。山の緑に映える橙色の実はどこか郷愁を誘い、駆け足で過ぎるこの季節を切なく感じさせる。渋柿は熟さないと渋いというのも、味わい深い。」実家があった頃に、私が思い出すのは庭に大きな柿の木が複数本あり、柿の実が赤く色づくと、竹の先を割った道具で実を採り、家族でよく食べていました。熟しすぎて柔らかくなった実を両親や祖父母が「甘い」と言ってよく食べていましたが、私はまだ固くてほんのり甘くなった実を齧るのが好きでした。当時はどこの農家にも柿の木が植えてあって、3時のお茶請けの代理として柿が出ました。蒸したサツマイモの時もありました。きっと第二次世界大戦が終わった直後は食料もなく、庭先に生った柿は栄養補給には格好の食料だったのかもしれません。その柿の木もどんどん姿を消していって、気がつけば周囲は住宅ばかりになってしまいました。実家にあった立派な柿の木もなくなりました。思えばそれを切り倒す時に工房に木材として運んでほしかったと、今でも私は残念に思っています。自分が子どもの頃は、柿はそこいらじゅうにあって自然に実をつけるもので、買うものではないという観念がありましたが、現在ではスーパーマーケットで柿を買っています。子どもの頃から好きだったものに未練があるのか、好きなものは結局否定できず、買い物に行くと必ず柿を買って帰るのです。「天声人語」に次のような文章もありました。「ふと、素朴な問いが口に出た。柿は何故、渋いのでしょう。~略~『鳥に食われないためでしょうね』。なるほど、でも、それだけだろうか。」渋柿の渋を抜く工夫にも記述が及んでいましたが、美味しいものを手に入れるために人間は、頭を使い、技能を高めていくもので、人を貶めたり、ましてや殺傷するために頭を使うものではないと私は強く考えます。柿もサツマイモも自然の恵み、土を焼くのも自然の恵みを工夫したものなので、私は現代にあっても生活の基本に出来るだけ逆らわずに生きていきたいと願っているのです。
    週末 完結しない網状のカタチ
    日曜日になりました。日曜日は創作活動についてNOTE(ブログ)を書いています。今回取り上げる内容は、完結しない網状のカタチというもので、昨日NOTE(ブログ)に書いた新作の目玉になる部分です。「厚板材を刳り貫いて、砂マチエールを全体に貼り、油絵の具を染み込ませる方法は、私が今までにもよくやっている常套手段」とNOTE(ブログ)に書きましたが、そうした方法で私は何を表現しようとしているのか、新作は床から立ち上がる陶彫部品が2段重ねで6点あり、それらが橋桁となって厚板材による網状のカタチを支えます。その網状のカタチが6点ないしは6方向から繋ぎ合わされると平面性の強い有機的なものになります。ところが橋桁から空中に伸びているカタチはそれぞれ繋ぎ合わされることがありません。網状のカタチは欠損しているのです。その欠損部分を鑑賞者の想像力で補いながら鑑賞してほしいと願っているのです。不足した部分があることによって、形態に空気が通り易くなると私は感覚的に思っています。完結したカタチに私は退屈を覚えることがあります。それは左右対称であったり、全て合点がいくような結論に想像力の入り込む余地がないと判断されることが多いからです。私が発掘シリーズを作り始める契機となったのは、ギリシャやローマ時代の遺跡にあった欠損された建造物でした。そこに広がる空気感は何とも心地よいものでした。この円柱にはどんな屋根があったのか、この広場の階段の先には何があったのか、それは住みやすい都市構造とは別次元の美術作品としての表現世界です。廃墟のピクチャレスクという都合の良いコトバを先日知り得ました。新作は私を新しい世界に導くもので、敢えて欠損した箇所を表現に盛り込むことをしようとしています。完結しない網状のカタチ…。作品のタイトルは新たに考えますが、新作は完結しない完成になるだろうと思っています。
    週末 新作は次の段階へ…
    週末になりました。定番として土曜日は今週の振り返りを行ないます。今週も毎日工房に通っていました。気候が良くなったので、今週も通常の朝9時から夕方3時までを作業時間として、新作の完成に向けて制作に励んでいました。陶彫制作の焼成は全部終わっていないにしろ、成形と彫り込み加飾は既に終わっていて、乾燥を待っている状態です。次から次へと窯入れをしたいところですが、一旦窯に入れてしまうと窯以外の電気を使えない状態にするので、窯内の温度が高温に達するまで他の作業が出来ません。そんなこともあって、窯入れは1週間に1回程度にしようかと思っています。今週は美術館等へ鑑賞に出かける予定がなかったので、月曜日の夕方に窯入れをして、火曜日は工房が使えない日にしました。火曜日は近隣のスポーツ施設に水泳をやりに行く日で、運動の後は自宅でゆっくり休息をとることにしました。現在、制作の方は陶彫作品に組み合わせる厚板材の加工をやっています。実はこの造形が新作の主張の方向を表していて、ひとつの見どころになっています。厚板材を刳り貫いて、砂マチエールを全体に貼り、油絵の具を染み込ませる方法は、私が今までにもよくやっている常套手段で、単純な技法ですが、陶彫の素材とよく合うと私は考えています。では厚板材をどのように刳り貫くか、これが日々思索を重ねているところで、欠損して語れない何かをイメージしていこうとしています。廃墟のピクチャレスクを敢えて作ろうとしているのは、以前読んでいた書籍からの受け売りですが、いつまでも完結しない形を作っているのは、私がさらに上方に存在する何かを求めようとしている思考がどこかにあるためかもしれません。新作の制作は愈々佳境を迎えようとしていますが、実は今年の夏にギャラリーで発表した延長として、壁に掛ける作品をもイメージしていて、それにも同時に取りかかる必要を感じているのです。
    「復活、 諸宗教、宗祖」について
    「宗教図像学入門」(中村圭志著 中公新書)の2つ目のパート「開祖と聖人の生と死」は5つの章から成り立っています。今回はそのうち後半の3つ「第6章 死と復活」と「第7章 諸宗教の開祖と預言者」と「第8章 聖人と宗祖」の気に留めた箇所を拾います。「仏教の物語は対立を生み出す煩悩が消失するところに焦点を置いており、開祖の死をめぐっても社会的対立などは描かれない(釈迦はみなに惜しまれて死ぬ)のに対して、キリスト教の物語は収拾のつかない対立の悲劇に焦点を置いており、神自身が、不条理の中で死ななければならない人間の死を引き受ける形になっている。」諸宗教について触れた箇所がありました。「東アジア生まれの儒教と道教は相互補完的な宗教セットである。儒教は祖先祭祀の儀礼に重きを置き、孔子や孟子の倫理的教えに従って社会の秩序や儀礼を守る。道教は儒教に対するカウンターカルチャーであり、老子と荘子の無為自然を奉じたり、不老長寿を理想とする仙界のファンタジーに遊んだりする。孔孟思想や儒教が人生のパブリックな側面を仕切るとすれば、老荘思想や道教はプライベートな本音に沿う形となっている。」ユダヤ教についても言及しています。「キリスト教とイスラム教を生み出す母胎となった紀元前からの宗教、ユダヤ教には開祖はいない。ユダヤ教の教典であるタナハ(旧約聖書)の冒頭に置かれる『創世記』は天地創造と人類の始祖アダムとエバの物語から始まっているが、アダムとエバを開祖と呼ぶわけにはいかないだろう。」仏教の宗祖を論じた文章に、私の興味がある像が登場してきたので、そこを取り上げました。「仏弟子の姿から発展したものが羅漢像であるが、仏弟子たちの歴史的後継者である学問上の創始者や宗派の宗祖たちもまた、基本的にはリアルな姿で造形されている。その典型が奈良の興福寺にある有名な運慶作の無著像だろう(兄弟の世親の像もやはり名作である)。無著(アサンガ)と世親(ヴァスバンドゥ)は4世紀のインド大乗仏教の哲学者(方相宗の教学家)である。」本書は図像学入門としているので、性質上図版を多く載せています。そこはNOTE(ブログ)で表せないところです。今回はここまでにします。
    「 降誕、 開祖の生涯」について
    「宗教図像学入門」(中村圭志著 中公新書)の2つ目のパート「開祖と聖人の生と死」は5つの章から成り立っています。今回はそのうち2つ「第4章 降誕」と「第5章 開祖の生涯」を扱います。まず降誕についてです。「インドでは宗教のいかんを問わず、あらゆる生物が延々と生まれ変わりを繰り返すという世界観、すなわち輪廻転生を当たり前としていたので、釈迦の伝記にも前世の神話が付け加えられた。だから釈迦は前世までの無数の過去世において自己犠牲的な善行を重ねてきたので、このたび世界の救済者として誕生することができたことになっている。~略~仏教には輪廻転生があるので、釈迦の過去世を神話化することで釈迦を特別な存在として描くことができたが、輪廻信仰をもたないキリスト伝の場合は『神の子』の誕生という形で神話化している。聖母マリアは処女でイエスを生んだ。マリアの夫ヨセフはイエスにとっては養父であり、実の父は天にまします父である。」次に開祖の生涯について記します。「仏教は修行の宗教である。釈迦の伝記は、修行を決意して完成させた大先輩の物語となっている。キリスト教は神を信仰する宗教である。イエスの伝記は神の子が地上に『神の国』の秘義を開陳していく物語となっている。~略~釈迦の教えの核心は瞑想による自己観察にあり、《快楽》と《苦行》の両極端を避ける《中道》を重んじる。この図式はそのまま伝記を枠づけるものとなっている。つまり、何不自由ない王宮暮らしが快楽を、出家してからが苦行を表し、その後にくる菩提樹の下での瞑想と悟りが中道というわけである。~略~イエスはユダヤ教徒であり、伝道の対象はパレスチナのユダヤ人たちだ。ローマ皇帝の権力が強まっていく中、ユダヤ人たちは救世主が現れて世界の構造を一新するのを待ち望んでいた。地上の権力は倒され、病気は消えてなくなり、死人までが甦る。そんな終末ユートピアの待望だ。」ここでは仏教とキリスト教を扱いましたが、そこには強烈な人格を有する開祖がいたからです。ヒンドゥー教や神道には開祖がいないので、ここでは取り上げませんでした。今回はここまでにします。