2025.11.20 Thursday
「宗教図像学入門」(中村圭志著 中公新書)の5つ目のパート「聖なる空間をレイアウトする」は4つの章から成り立っています。今回はそのうち前半の2つ「第18章 神殿と聖地」と「第19章 祈りと修行の場」を取り上げます。「日本の神社建築がどのようにして誕生したのかはよく分からない。飛鳥時代や奈良時代に仏教が高度な仏教建築とともに輸入されたが、これに応じて神道の神々も大きな社をもつようになった。有名なのはアマテラスを祀る伊勢神宮とオホクニヌシを祀る出雲大社だ。」その後にエルサレムについての記述があります。「古代のイスラエル人ないしユダヤ人は紀元前一千年紀のあいだにこの地に建国し、異民族に追い払われ、また戻ってきた。紀元後の70年にローマ帝国が神殿を完全に破壊した。現在、かつての神殿の丘の外壁の一部が露出した場所がユダヤ教徒にとっての祈りの地となっている。いわゆる嘆きの壁だ。エルサレムはキリスト教徒にとっても聖地である。~略~さらにこの地はイスラム教徒にとっても聖地だ。~略~なぜ三つの宗教の聖地が重なっているのかというと、三宗教の歴史が重なっているからである。キリスト教はユダヤ教から派生したものであり(イエスはユダヤ人だ)、イスラム教はユダヤ教とキリスト教の影響のもとに成立した。というわけで、エルサレムが聖地であるのは歴史的経緯による。」次は祈りと修行の場について。「場所や空間の特別性(聖性)は、そこに神霊が宿っている、あるいはかつて神霊が出現したという神話によって固定されることもあるし、開祖や先祖たちについての歴史の記憶によって固定されることもある。さらに、そうした条件がなくても、建築物や聖なる小道具や儀礼の演出によってプロジェクト的に構築されることもある。常設の建物であれば朽ち果てるまでのあいだずっと、建物がなければそのたびごとの祭礼や祝祭の場として臨時的に、聖なる空間が現出するわけだ。」今回はここまでにします。
2025.11.19 Wednesday
「宗教図像学入門」(中村圭志著 中公新書)の4つ目のパート「儀礼と修行の可視化」は4つの章から成り立っています。今回はそのうち後半の2つ「第16章 戦いか和合か」と「第17章 聖なる文字」を取り上げます。「表象の世界では善は神仏に、悪は悪魔や鬼に振り分けられるが、この対立は伝統によってはそれほど峻厳なものではない。善人にも隠された悪があり、悪人にも人知れぬ善意があるように、神霊たちの善悪の状態もそう簡単には二分割できないと考える伝統は多い。~略~中国的な陰陽のロジックは、『古事記』における二柱の男女神、イザナキとイザナミのイメージにも影響を与えているかもしれない。~略~中国の影響がどこまであるかは分からないが、日本列島では女が巫女として霊界通信を担い、男が政治方面を担うというロジックが伝統的に根強い。~略~大ヒットのアニメでさえ、たとえばポニョと宗介(『崖の上のポニョ』)、三葉と瀧(『君の名は。』)、陽菜と帆高(『天気の子』)、禰豆子と炭治郎(『鬼滅の刃』)に、同様の設定が生きているようだ(いずれの場合も女性が原始の生命、巫女、竜神の生贄、鬼であり、男性が世俗の側に立っている)。」次は聖なる文字。「甲骨文字あるいは漢字というものの始原に呪術ないし宗教があると言うことができる。文字成立の問題を離れても、古代人が呪術的な世界観をもっていた以上、文字の形にそれが反映していないはずはない。~略~イスラエルの民の指導者であるモーセに、神ヤハウェが十戒を啓示した。『出エジプト記』によれば、神は二枚の板に自ら十戒を刻んでモーセに渡したらしい。映画ではそれを、古ヘブライ文字ーより古い文字体系であるフェニキア文字に近いーで再現している。~略~文字の伝播は宗教の伝播と連動しているからだ。インド系の文字の東方への広がりはヒンドゥー教や仏教の伝播と関連している。ヨーロッパのキリスト教はギリシャ系の正教かローマ系のカトリック(およびその派生形であるプロテスタント)かのどちらかだが、これが概ねキリル文字とローマ文字の分布に対応している。そして漢字文化圏の独自性は、この地域が儒教と道教と大乗仏教をミックスした独自の宗教文化をなしていることと無関係とは言えない。」今回はここまでにします。
2025.11.18 Tuesday
「宗教図像学入門」(中村圭志著 中公新書)の4つ目のパート「儀礼と修行の可視化」は4つの章から成り立っています。今回はそのうち前半の2つ「第14章 求道の階梯」と「第15章 大宇宙と小宇宙の照応」を扱います。「禅宗には、一人の求道者が悟りを求めてから悟りをものにするまでの流れを、若者が牛を捕まえるプロセスに擬して描いた十枚セットの図様がある。~略~十牛図は師匠のもとで坐禅を修行する者の精神トリップを象徴的に描いたものだ。~略~ここにある社会性は唯一、十枚目の絵で次世代に伝道していることだけである。こうした内向性は次で見る『天路歴程』の巡礼の外向的なビジョンとは大きく異なる。」そこでキリスト教を見ていきます。「『天路歴程』が前提とするプロテスタンティズムによれば、人生という試練の場の最終的な結論は天国行きではないとしたら地獄の滅びであるが、『神曲』が描くカトリックの世界観ではもう一つ可能性があり、それが煉獄だ。絵の背景にそびえたつのは南半球にあるという煉獄山である(七つの大罪ー傲慢、嫉妬、憤怒、怠惰、貪欲、暴食、淫乱ー応じて七つの段階がある)。」次に 大宇宙と小宇宙の照応について。「一神教の論理によれば、神が自らのイメージに従って人間を造った。他方、歴史的に見るならば、先史時代のいつかの時点で人間が神(神々)のイメージを生み出したことは間違いない。神が先か人間が先かはどうしても水掛け論になるが、いずれにせよ神々と人間は照応あるいは鏡像の関係にある。~略~インドで発展した仏教の最終的な形は密教であった。これは人間と神的対象(ここではブッダ、如来)との、イメージの中での照応関係が最大限に活用される。つまり修行者がイメージの中で大日如来などの尊像を構築し、ブッダと自らが一致することを目指すのである。この場合のブッダは宇宙全体の本質のような存在であり、小宇宙である人間と大宇宙であるブッダを一致させてしまうことを端的に即身成仏と呼ぶ。~略~キリスト教の神学では、人間でありかつ神であるキリストこそが、人間と神の媒介者である。ここから派生して、キリストが小宇宙(人間の体)と大宇宙(世界全体)との一致を体現しているという密教的な捉え方も出現した。」今回はここまでにします。
2025.11.17 Monday
「宗教図像学入門」(中村圭志著 中公新書)の3つ目のパート「神々のバリエーション」は5つの章から成り立っています。今回はそのうち後半の2つ「第12章 瞑想の中の救済者」と「第13章 絶対神の眷属」を取り上げます。「大乗仏教は事実上の多神教であり、如来(仏)、菩薩、明王、天といった存在(一種の神々)が信仰空間にひしめいている。ギリシャ神話の神々や神道、道教、ヒンドゥー教などの神々と少し様子が違っているのは、抽象的な教理の体現者としての性格が強いことである。~略~如来/仏陀は仏教的真理の体現者であるが、求道の最終段階にあるのが菩提薩埵、略して菩薩である。菩薩は如来に次ぐ地位であり、如来を本尊とする三尊像の両脇侍として造形されることも多い。他方、菩薩には自らが如来に昇格するよりも世俗の現場に立って民衆救済するというイメージがあり、そういう意味では有難い存在であるのみか、実力的には如来と互角だとも言える。~略~菩薩が慈悲深い姿をもっているのに対し、怖い顔をしているのが明王である。煩悩を打ち砕くために、忿怒相を表している。このようなやり方をとるのはインド仏教の末期に発展した密教の特徴である。」次に絶対神について。「大乗仏教において増殖した神霊的な救済者が菩薩だとすれば、一神教において増殖した神霊的な救済者は天使である。天使とは神の使い、伝令のことである。~略~いずれの一神教でも、神に反抗した天使、堕天使すなわち悪魔の存在が認められている。聖書ではサタンやルシファル、コーランではシャイターンやイブリースなどと呼ばれている。~略~天使が有翼になったことには、古代ローマ帝国における有翼の勝利の女神(ウィクトーリア)の影響もあると言われる。ウィクトーリアはギリシャ神話のニーケーに相当する。~略~インド発の仏教にも天界の楽人のようなものが存在し、西域から日本にかけて様々な『飛天』や『天人』『天女』の作例がある。しばしば楽器をもち、諸仏を賛美する。雲に乗っていたり翼があったり羽衣をまとっていたりする。」この文章を読んで私は平等院鳳凰堂にある52躯の雲中供養菩薩像を思い出しました。そこは私の大好きな空間なのです。今回はここまでにします。
2025.11.16 Sunday
日曜日になりました。日曜日は創作活動についてNOTE(ブログ)を書いています。今回取り上げる内容は、宗教における視覚創造というもので、現在読んでいる「宗教図像学入門」(中村圭志著 中公新書)に端を発します。世界にある幾多の宗教の形態を扱っている本書には、美術的に興味関心のある多くの要素が登場します。人間の創作行為はいつ頃、何を起源に始まっているのか、私が抱いている素朴な問いです。洞窟壁画を描いた太古の人々に創作的な痕跡が見られるので、人類が文字を持つ以前から図像による創作行為が始まっていると見ても差し支えないと私は考えます。宗教はどの学問よりも先んじて始まった思想と考えると、宗教に登場する図像にも早くから創作が入り込む余地があったと考えるのが自然です。前にNOTE(ブログ)で引用した文章を再度掲載いたします。「キマイラ(異なる種族の特徴を足し合わせた体をもつ空想的動物)的造形は、人間の想像力が最初から現実を逸脱したものであったことを教えてくれるからだ。人間の思考はリアリズムよりもファンタジー/神話向けにできているのかもしれない。」人間がリアリズムを視覚的に捉えることは、近代になるまでその捉え方を知らなかったと私は理解しています。ましてや写実的リアリズムは中世の西洋画法が確立されるまで、技巧的にも不可能だったので、そこはファンタジーとしてしか表現できなかったのではないでしょうか。宗教では畏怖を感じる得体のしれないものや、これを崇拝すれば何か安心が得られるものをキマイラ的造形として、世界各地で伝承されてきたと思います。日本にも古くから言い伝えられている精霊や鬼の伝説があります。それを畏れと共に崇め奉り、魔除けや五穀豊穣、子孫繁栄に繋げていったのではないかと推察しますが、その造形に大変面白いものがあるのも事実です。私にとって、その興味は尽きることがありません。勿論その背景を探ってみることも興味の対象ですが、単純に視覚創造として見ても楽しいものが多いと感じます。ユーモアが隣り合わせになっているものも多々あります。