Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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  • 週末 鑑賞の機会を設けた1週間
    週末になりました。土曜日はその週の振り返りを行ないます。今週も相変わらず毎日工房に通い、制作一辺倒の1週間でしたが、1週間のうち1回は鑑賞の機会を設けたいと思っていて、それが出来た時は理想の1週間だったと振り返っています。前に幾度なくNOTE(ブログ)に書いていますが、実技と鑑賞は車の両輪で、私は自分の感覚の中でバランスを取りたいと考えています。勿論、見に行った展覧会や映画が自らの表現に直接結びつかなかったとしても、心地よくなったり、心に刺激があったりすることで、人が何かを創り出す行為が素晴らしい行為であると自覚できるからです。私はそうした意欲に支えられて、毎日過ごしていると言えます。毎朝工房に行って陶彫や木工に挑むにしても、毎日が昨日の続きではありません。何か新鮮なものがそこにあって、今日のこの瞬間を味わえて良かったと思うのです。創作活動は技巧的に同じ方法でも、作ろうとしているものは毎日異なります。また自分の行為の跡を確認して満足を覚えるのも創作活動の魅力のひとつです。最近は寝起きに思いつくRECORDのアイディアもあって、日々の創作的刺激は自分で作り出すものだろうと思っています。鑑賞で言えば今週の木曜日に東京の上野にある東京都美術館に行って、スウェーデンの絵画展を見てきました。具象的傾向の絵画展でしたが、風景や人物に施された色彩に北欧らしさがあったと感じました。私は20代の頃に5年間ヨーロッパに暮らしていましたが、北欧には足を踏み入れたことがなく、この時に行っておくべきだったと残念な思いを持ちました。南欧には何度も行っていたくせに、若い私は北欧に魅力を感じなかったのでしょうか。北欧を巡って来た旅行者から、北欧は物価が高いと言われたことも影響しているのではないかと思っています。毎晩時間を決めている読書では、ピクチャレスク関連の書籍がもう少しで読み終えます。これも庭園や建築に絡んだ箇所に興味が尽きませんでした。
    上野の「スウェーデン絵画展」
    昨日は上野の東京都美術館で開催されている「スウェーデン絵画展」に行ってきました。展示された絵画を見始めてから、自分はスウェーデンの絵画史を知らなかったことに気づきました。在日大使のメッセージに「時代を超える普遍性と心に響く叙情性の両方をそなえた作品」とありましたが、どの作品も写実に立脚した深い情緒を感じさせてくれて、自然描写が好きな日本人体質に合った作品ばかりだなぁと思いました。展覧会タイトルに「北欧の光、日常のかがやき」とある通り、微妙な光の捉えが北欧ならではの色彩の妙を感じました。図録からその美術史を拾います。「『美術の物語』(※エルンスト・H・ゴンブリッチ著)は、過去75年にわたり世界中で親しまれてきた『美術の教科書』であるが、その19世紀、20世紀の章に出てくる北欧の画家はエドヴァルド・ムンクただ一人である。そのムンクも、ファン・ゴッホからドイツ表現主義への『様式』の変遷のなかで語られ、画家の母国ノルウェーの美術との結びつきには触れられない。このことは、伝統的な西洋近代美術史における北欧美術の『不遇』を端的に示す『証拠』として、近年の北欧の美術史家たちに、折に触れて批判的なニュアンスで言及される。~略~『モダニズムの勝利』に時代に、19世紀末から20世紀初頭の北欧美術はいくつかの例外を除いて、多かれ少なかれ不遇の時代を過ごしたが、今日では西洋近代美術の多様性を象徴するものとして受け取られている。個人コレクターの手によって国内に留まった多くの作品は、今日、スウェーデンを含む北欧各国の人々に、自国の優れた美術作品を身近に見られる喜びをもたらしているだろう。そしてそれらが映し出す独自の芸術の存在は、文化的な自尊心を育むよすがとなっている。」(萬屋健司著)今回「スウェーデン絵画展」で見た作品は、私の心に沁みていきました。20世紀初頭のパリで興った新しい芸術の潮流に巻き込まれずに、北欧の自然に根ざした冷静な作品群は、確かな存在感があるため見応えもありました。
    葉桜の上野公園にて
    満開の桜の時季になると大勢の観光客で賑わう上野公園ですが、桜がほとんど散って葉桜になった同公園では一時の賑わいはありませんでした。今日はそんな同公園の美術展に家内と訪れました。東京都美術館で開催されていた公募団体「モダンアート展」は、知り合いに出品者がいるため、招待状をいただいて私は毎年ここに来ているのです。ただし、平日と言えども上野が混んでいる状況は変わらず、外国人観光客も大勢見かけました。「モダンアート展」には元同僚の画家が会員になっている関係で、継続して見させていただいていて、彼の作風の変化も順を追って分かっているつもりです。彼も私と同様に教職を退職して時間ができたためか、作品の質は間違いなく上がっているように感じます。画風としてはアンフォルメル(非定形)を抑制して、精神性を追求しているように思われますが、塗装されていない余白の空間が雄弁に表現を物語っていると私は理解しています。沁みや色彩の流れをコントロールして日本の書のような世界観をもち、最終的には彼は幽玄を表したいのかもしれません。私は毎年出品された彼の作品を見るのが楽しみになっていて、これは作品がより高い精神性を備えてきている証拠だろうと思います。私は東京都美術館で、「モダンアート展」以外にも「スウェーデン絵画展」が気になっていて、家内とその企画展も見ることにしました。北欧の絵画と言えばムンクしか思い浮かばなかった私は、展覧会のタイトルにあった「北欧の光、日常のかがやき」の意味が本展で漸く分かりました。19世紀から20世紀にかけてスウェーデン絵画は、写実的な風景や人物、日常の描写に精魂を傾けていて、その淡い光の捉えが抒情を醸し出していました。これは日本人が好きそうな内容で、そのさりげなく丁寧な描写を熱心に見入っている鑑賞者が多かったように思いました。「スウェーデン絵画展」の詳しい感想は後日に回します。桜が舞い散り、新緑と言うにはまだ早い季節の上野公園を歩きながら、美術展によって充実した時間が過ごせたことで今日は幸せだったと振り返りました。
    新聞記事より「『知的廉直』を貫く」
    今日の朝日新聞「折々のことば」に掲載された記事より、その内容を取り上げます。「予言者や煽動家は教室の演檀に立つべき人ではない  マックス・ウェーバー」この言葉に著者の鷲田精一氏がコメントを寄せています。「教室は特定の政策的見解を述べる所ではない。教室では『事実をして語らしめる』こと、つまり事実の確定に徹すべきだとドイツの社会学者は説く。党派的主張は批判の可能な場でなされるべきで、教室では不都合な事実をも認める『知的廉直』を貫くこと。その言葉は論敵を斬る『剣』ではなく、思考の土地を耕す『鋤』なのだから。『職業としての学問』(尾高邦雄訳)から。」コメントの中に出てくる「知的廉直」とは「事実や論拠に対して誠実であり、都合の悪い事実もねじ曲げずに受け止める知的態度」というのがAIによる回答です。私がこの記事につい反応してしまうのは、嘗て教職に就いていて長い間演壇に立っていたからです。昔はほとんどの人が教職員組合に入っていて、支持する政党がありましたが、私はその頃から無党派で、学生時代に先輩たちが活動していた学生運動にも参加はしていませんでした。教員になってから学習指導要領に示された内容も吟味をしたこともありました。生徒たちに自らの信条を話すことは避けていましたが、幸い私は美術科だったので、中学校の社会科や高校の歴史綜合のような近現代史を扱うことはなく、寧ろ私が管理職になってから、社会科の授業では近現代史を先生方がどう扱っているか気になっていました。まさに時代が動いていて、今なお結論が出ていない事柄を、自分の主張を交えて生徒に伝えることは危険だと私は何人かの教員に伝えたことがありました。それこそ教育の現場では「知的廉直」を貫くことが賢明と私は考えています。思考の土地を耕す時期が過ぎれば、鋤を剣に持ち替える時がやってくるかもしれず、既成の概念に反旗を翻すこともあるでしょう。成長の過程には教室が不必要になると感じることもあるはずです。個人差はありますが…。
    「P・コテージの進展」について
    「ピクチャレスクとイギリス近代」(今村隆男著 音羽書房鶴見書店)の「第4章  ピクチャレスクと建築」の「6ピクチャレスク・コテージの進展」を取り上げます。「コテージは田舎の教会同様に『田舎の自然を飾る』のに『最もふさわしい装飾』であるとモルトンは説明しているが、提案されているデザインを概観すれば、彼の念頭にあった理想像の基盤は紳士用の装飾コテージではなく、労働者用の住居だったことは明らかである。ただし、コテージに不可欠の要素として彼が挙げるのは、『みすぼらしさ』とは正反対の、快適さ・豊かさ・清潔さ・満足感・微笑み、などの要素である。~略~『その土地の周囲の状況』に合わせて建てるということは、建設地で入手可能な建材を必要性や必然性に応じて組み換え、建設地の環境に合うように調整するということだと考えられる。また彼は、その建物内で暮らす住民の使い勝手を最優先することで建物外部の形が決まってくるようにすべきだとも言っていた。つまり、彼が強調したのは住民の生活スタイルと住環境との、そして建築物と周囲の自然環境との調和だった。~略~ガンディーはピクチャレスクに軸足を置きながらも、ちょっとした工夫で『規則的であるもの』は『ピクチャレスク』に変えうるし、その逆も可能であるとする。つまり、建物の古典的規則性とピクチャレスク的不規則性という、相反すると見なされて来た二つの価値を融合させたところに、ガンディーは建築の理想を見出そうとしたと言ってよいだろう。~略~ヴァナキュラー(※日本で言う民家のこと)なコテージをピクチャレスクの一つの基準にするという考え方がモルトンから始まり、そこにナショナリズムに後押しされた『オールド・イングリッシュ』が持ち込まれ、ピクチャレスクはさらに変化していったのではないかと考えられる。ヴァナキュラーも『オールド・イングリッシュ』も定義が曖昧で、両者の区分も明確ではない。P・F・ロビンソンの『農業建築のデザイン』で示される最初の二つの労働者の住居は『簡素』な形で『最小規模』のコテージである上に、『オールド・イングリッシュ』様式であると説明される。」今回はここまでにします。