Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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  • 新聞記事より「得体のしれない感情」
    今日の朝日新聞「折々のことば」に掲載された記事より、その内容を取り上げます。「手を下した本人が気づかないところで画面上に物質的な痕が『起きて』しまっている絵…  大竹伸朗」この言葉に著者の鷲田精一氏がコメントを寄せています。「絵といえば芸術という思考習慣は、絵の意味をむしろ隠蔽すると画家は言う。『美術的空間のみにて成立するアート』と、国道沿いの看板や子どもの落書き、ビジネスホテルの壁にかかる”無難な”絵などを互いに等価な『表面』として見る中ではじめて、人は己の内に潜む得体のしれない感情の生成にふれるのだと。随想集『ビ』から。」私はギャラリーという箱の中で作品を発表することに拘っているため、まさに「美術的空間のみにて成立するアート」をやっている者です。そんな私が美の概念をどんなに説こうとも、自分自身は旧態依然とした思考習慣の中で生きているため、日常空間の中で出会うさまざまな美を論じても説得力を持ちません。そうであっても私も街中で発見する何かに得体のしれない感情を抱くこともあるわけで、おそらくこれを絵として捉えれば、美の概念が明らかに広がっていると思えます。また、この得体の知れない感情は何だろうと思うこともあり、それを美術分野で括っていいのだろうかと現代美術の定義さえも疑いたくなることもあります。街中で気を留めたモノを何とかして自分の中に取り入れ、それを表現にまで持っていくには、そこに創作行為が生じます。等価な表面を多様性に富んだ表現にしていくためにどんなことをすればよいのか、その方法を提示していくような発表形態を、最近のアートフェスティバルやコンクールで見かけることが多くなっています。それが最近の傾向かもしれず、そのコンセプトがアートの現在地点と言ってよさそうです。私は何かアイディアがあっても、そのコンセプトを継続・深化させることが出来ず、結局「美術的空間のみにて成立するアート」をやっていることなのだろうと思っています。
    「語りだす柱頭」について
    「ロマネスク美術革命」(金沢百枝著 新潮選書)の「第3章 語りだす柱頭」の気に留まった箇所を取り上げます。11世紀のヨーロッパでは建築ブームに沸いたようです。その要因は三つありました。「第一に、封建制の確立による社会のあらたな安定化である。ヨーロッパの11世紀とは、古代末期から断続的に興った民族移動(ゲルマン人の北から南への移動、フン族の東から西への移動、海岸や川沿いの町々への『ヴァイキング』の襲撃と定住、南欧でのイスラーム勢力の北進など)による動乱がほぼ一段落し、社会が安定化して発展へと転じはじめた時代だった。~略~第二の要因は、いわゆる農業革命。~略~刃に鉄を用いた有輪犂は、粘土質で重いが養分をたっぷり含むアルプス以北の土を深く掘り返した。さらに軛の開発によって、牛よりも耕作速度の速い馬を農作業に用いることができるようになり、より広い耕作地の管理が可能になった。~略~第三に、聖地巡礼の流行である。この時期、都市住民や農民の経済力が向上し、身分的な束縛も緩んだことから、しだいに移動の自由が認められるようになった。」次に建築の革新についての考察です。「柱頭に物語場面を刻む。そのこと自体が、まさに11世紀ロマネスク期の美的革新のひとつだった。渦巻きや植物から動物や人間へ、そして物語へーヨーロッパで千年近くもの間、ほぼ変わることなく柱頭に刻まれ続けてきた渦巻きとアカンサスの葉叢がここにようやく姿を消し、いわばその空き地に聖人や動物たちがにわかに躍り出て、のびやかなかたちをとりながら、さまざまな物語を繰り広げはじめたのである。~略~古代ギリシャ・ローマではもっぱらアカンサスと渦巻きが刻まれていた場所に、聖書の物語や偉人伝が刻まれ、動物や怪物たちが生動しはじめた。それはもはや古代的な規範を墨守する場ではなく、じつに多彩な美的可能性を秘めた描写空間へと生まれ変わったのである。~略~柱頭彫刻はロマネスク美術のなかでもっとも魅惑的なジャンルのひとつだが、残念ながらそうながくは続かなかった。ゴシック期になると徐々に消えていった。~略~垂直性を強調するゴシック聖堂にとって、垂直性を阻む柱頭装飾は邪魔になったという一面もある。それにくらべると、ロマネスクの柱頭彫刻は間近で眺められる。葉叢からのぞくおじさんのギョロ目、葉の上で足をぶらんぶらんさせる小人、そんな意外な細部を見つけるのは素直に楽しい。」今回はここまでにします。
    週末 偶然の効果と許容範囲
    日曜日になりました。日曜日は創作活動についてNOTE(ブログ)を書いています。このところ壁に掛ける新作にコラージュする杉板の炙り作業をやっています。杉板は文様を刳り貫き、その装飾を生かしつつ、全体画面を作っていこうと考えています。私の陶彫を初めとする立体作品群は、地中海やエーゲ海に広がる遺跡を発想の原点にしています。つまり出土した建造物は既に欠損した箇所が多く、自作の根底に流れるコンセプトは廃墟をイメージしていると言えます。最近まで読んでいたピクチャレスクに関する論文に、その美しさを裏付けする視点があり、私は大変参考になりました。その中で「醜」もピクチャレスクになり得るものという箇所は、私にとって目から鱗が落ちました。その中でもカントが美に成り得ない「醜」もあると言っていた箇所も印象に残りました。今回話題にしたのは、杉板の炙り作業の中で、必要以上に炎が燃え広がって、文様部分に欠損部分が発生したことで、これをどうしようかと考えたことが契機になりました。創作の中で自分の意思で制御できない箇所を敢えて作り、それを創作に利用する方法があります。20世紀になってから表現方法が広がり、例えば絵画で絵筆を使わずに絵の具を滴らせ、またぶちまける表現が登場してきました。アンフォルメルやアクションペインティングのことです。彫刻でも石を割ったままにして、そこを造形の中に取り込む方法もあります。石彫家はワレハダと称しています。この偶然を効果として造形に取り入れるか、それとも失敗として廃棄するか、その許容範囲は作家個人の判断によるところで、自らの世界観をどう考えているかによります。私の場合は最初のイメージに頼ります。巧みに作り上げるより、訴える内容がより強く出ているのであれば、欠損は歓迎いたします。現在作っている壁に掛ける新作は炙り過ぎた箇所をそのまま使うことで、痕跡として存在する物質が強調されることに自信を持ちました。制作工程において、常に原点に立ち返ることが重要であるという認識を改めて確認しました。
    週末 刳り貫きから炙り作業へ
    週末になりました。土曜日はその週の振り返りを行ないます。今週も相変わらず毎日工房に通い、制作一辺倒の1週間でした。今週は鑑賞に出かけることもなく、しかも気候も良くなったので、制作はよく進みました。壁に掛ける4点の作品に貼り付ける杉板のレリーフがあり、そのレリーフのそれぞれに文様を刳り貫いていました。1カ月以上も電動糸鋸盤を使って刳り貫き作業をやっていましたが、その作業が今週終了し、次の段階として杉板をガスバーナーで炙り、炭化させる作業に入りました。以前NOTE(ブログ)に書いた素材の変容を今日から実践したのでした。炙りはまだ始まったばかりなので、これからしばらくは野外工房でバーナーを使います。杉板は炙ると美しい肌色になるので敢えて使っているのです。ただし、炙り過ぎると文様の一部分が焼き落ちてしまうことがあります。イメージの源泉が廃墟のような痕跡を表そうとしているので、これはこのままにしておくことにしました。杉板には年輪に密度があって、柔らかい部分は燃えて無くなってしまうこともあり、それも面白いかなぁと思っています。偶発的な欠損をどこまで容認できるのか、それも自分との葛藤になりますが、この課題をもう一度自分で考えてみたいので、別稿を起こそうと思っています。それは炙りに限ったことではなく、絵の具が流れたり、亀裂が入ったり、職人仕事なら失敗として扱うところを、創作活動は一律にそうとは言えず、何を表現したかったのかという主張に立ち戻り、失敗と考えがちなところを再考することもあるのです。読書はピクチャレスクをイギリス文化の中で捉える論文を読み終えて、ロマネスクについての論文に移りました。ロマネスクは好きな様式なので、この書籍も丁寧に読んでいきたいと思っています。
    「ロマネスク再発見」について
    「ロマネスク美術革命」(金沢百枝著 新潮選書)の「第2章 ロマネスク再発見」の気に留まった箇所を取り上げます。「一般にロマネスクは、おおよそ10世紀末から12世紀の西ヨーロッパの建築様式とされる。ルネサンス建築のように特定の地域に限定されて見られるものではなく、北はノルウェー、東はエルサレムまで広がったヨーロッパ初の共通様式であるため、『ロマネスク美術』や『ロマネスク期』といったぐあいに、美術や歴史の時代区分としても扱われる。空をつんざくように尖った先端をもつ、垂直性の強いゴシック建築とは対照的に、ロマネスク建築は大地に根ざしたような安定した形態をもち、古代ローマ建築を思わせる半円形のアーチが並ぶところが様式上の特徴である。~略~ロマネスクの起源は霧につつまれている。ゴシックなら12世紀後半のイル・ド・フランス(パリ周辺)、イタリア・ルネサンスなら14世紀はじめのフィレンツェと、誕生の時期も場所も特定できるのに対し、ロマネスクは、いつ、どこで生まれたのか定かではない。一方、その終焉時期は、ゴシックの誕生期と重なるため、特定は比較的容易である。」ロマネスク美術は20世紀になって再発見されたことが、私には驚きでした。「《バイユーのタピスリー》は18世紀のうちに見出されたが、これはむしろ例外で、壁画や刺繍などロマネスクの美術品の多くは19世紀末から20世紀初頭にかけてようやく、ヨーロッパ各地の聖堂で『再発見』された。~略~当時、ジョアン・ミロとともに毎夏バルセロナで過ごしていたパブロ・ピカソは、カタルーニャ美術館でロマネスク壁画に強い印象を受け、知人のサバルテスに『ロマネスクの画家たちの表現力、力強さ、思い描いたものを明確に描く力』を賞賛したという。~略~カタルーニャのロマネスク美術は、《ゲルニカ》とともに、いわば反フランコ政権派を象徴する美術作品となったのだ。こうしてピカソの炯眼とスペインの政治・社会状況、モダン・アートと反体制運動との結びつきを背景にしながら、ロマネスク美術は当時のアヴァンギャルドなアーティストや知識人たちの関心を集めていった。」今回はここまでにします。