2025.10.21 Tuesday
「廃墟論」(クリストファー・ウッドワード著 森夏樹訳 青土社)の6つ目の章は「時の難破船」という題がついています。本章ではピクチャレスク(絵画のように美しいという意味)という語彙が登場します。「ピクチャレスクは、18世紀のイギリスに多大な影響を及ぼしたのだが、この運動はまた新しい『連想の哲学』を芸術的に表現したものでもあった。18世紀のはじめ、美は古典的な規準によって判断されていた。建築のデザインも、いくつかの数学的なプロポーションにも基づいて決められていた。完全な美とは客観的な性質をもつ幾何学的な配列の中にあり、それは審美眼をもつ人物によってのみ識別することができた。音楽のハーモニーが、特別の教育を受けた耳によってのみ聞き分けることができたのと同じである。そのような情況に登場したピクチャレスクは、美が主観的なものであることを示唆した最初の美学だった。」その後、本章は偽りの廃墟に関する論考へ移行していきます。その特徴的な一例を挙げます。「夫婦の不仲がもとで建てられたにせの廃墟ということでいえば、さらにもっと人目を引くものがある。アイルランドのエネル湖の岸辺のベルビディアハウス(眺望館)にある『嫉妬の壁』だ。1760年頃にロバート・ロッシュフォード(ベルフィールド卿)がこれを建てた。ぎざぎさした石の壁は長さが180フィート(約55メートル)にも及び、高さは三階建ての家ほどもある。それは胸壁の上の部分から次第に崩れ落ちていく様子が目に見えるようにデザインされていた。1736年にベルフィールドは、ダブリン出身の16歳の少女メアリー・モールズワースと結婚した。28歳のときだった。彼は毎日、ほとんどの時間をロンドンで過ごしていた。それはアイルランドの情況を宮廷で語ることに彼が長けていたからである。子供たちとアイルランドに取り残されたメアリーは、いつしか若い義理の弟アーサーの胸の中へと落ちていった。ベルフィールドは妻の不義に気づいたし、妻も告白した。そしてアーサーは逃亡した。~略~ベルフィールドは『嫉妬の壁』を築いて、外から家の中が見えないようにした。妻がふたたび誘惑されることのないように。」廃墟に纏わるエピソードはいろいろあって、伝説や噂も含めてイギリスに伝承されているようです。
2025.10.20 Monday
先日、東京汐留にあるパナソニック汐留美術館で開催されている「ウィーン・スタイル」展に行ってきました。私は1980年から85年までウィーンに住んでいて、同地の国立美術アカデミーに通っていました。アカデミーの裏にはセセッシオン(分離派会館)があり、O・ヴァーグナーによるマジョルカハウスもありました。そこにはナッシュマルクト(青果市場)もあって、生活には欠かせない場所でした。そんなふうに身近にウィーン様式に浸る毎日でしたが、その由来を紐解くために本展を訪れました。図録より引用いたします。「建築、デザインそして美術の分野において、ウィーンの芸術は1900年以降、フランス、ベルギー、ドイツを発祥とする植物的・有機的なアール・ヌーヴォーの国際的潮流から距離を取り、イギリスのアーツ・アンド・クラフツ運動や、チャールズ・レニー・マッキントッシュに代表されるスコットランドのモダン・デザインの影響の下、独自のウィーン・スタイルを確立していった。この独自のウィーン・スタイル発展の推進力となったのはオットー・ヴァーグナーの理論的著作と彼の建築学校(1895年)、ウィーン分離派の設立(1897年)、ヨーゼフ・ホフマンとコロマン・モーザーのウィーン応用美術学校への教授就任(1900年)、そしてウィーン工房の創業(1903年)だった。~略~ウィーン世紀末の前衛的なデザイナーたちは、ビーダーマイヤーを近代的な住文化の出発点と見なしていた。住人の社会的地位を示すためではなく、実用性と快適さを重視するプライベートな住空間としてのインテリア。詩的な遊び心と、優れた職人技によって生み出された日用使いの調度品の数々。また自然への回帰と再発見もビーダーマイヤーの主要テーマであり、その代表例として、象徴的な意味での花が、絵画やウィーン磁器工房の磁器類、ガラス製品、テキスタイル、そして文学や音楽にまで用いられた。」(パウル・アセンバウム著)そんなウィーンの華やかな時代の産物は店舗などで見ることが出来て、街の散策には眼を楽しませてもらいました。旧市街にO・ヴァーグナーによる郵便貯金局があり、構造体がそのまま装飾にも通用する実践例として、私は頻繁にここに行っていました。その頃、私は自作の象徴化、抽象化を頭に描いていたので、こうした建造物が少なからず、自分に影響していたのではないかと今でも思っています。
2025.10.19 Sunday
日曜日になりました。日曜日は創作活動についてNOTE(ブログ)を書いています。今回取り上げる内容は表現に繋げる技法というもので、とりわけ彫刻を作っている私には関心の高い内容です。誰もやったことのない方法(技術)で作品を作りたいというのは、習作を経て自らのイメージを具現化する中で膨らんでくる欲求です。私が学生時代に師匠の池田宗弘先生は真鍮直付けという技法で、量感をギリギリまで削り取った彫刻を作っていました。量感がない細い人体と言えばジャコメッティですが、彼の場合はデッサンを究めていった結果として人体が細長くなったのでした。その空間にデッサンするのに、塑造(粘土)で試行していたため鋳造によって保存することしかなかったわけですが、池田先生は周囲の空間を際立たせて、風景を含めてその構造体を見せているため、いきなり真鍮で造形されていたのでした。自分が求める立体はどんなものをイメージしているのか、そこに表現に繋がる技法があり、その技術を磨いて作品に昇華するのがベストだと私は考えます。私の作品は地中に内蔵された地下都市をイメージしているため、古い石化した状態の構築物を作ろうと考えていました。そこにはさまざまな文様もあり、入り組んだ開口部や窓もあったので、陶土で成形した後、高温焼成をして、それらしく見えるように工夫しました。焼き締めによって古代の出土品のようになった彫刻は、その後の空間の展開には欠かせないものになりました。ともかく私の作品は、大地に根を張ったような重厚感を表現することに終始しています。大地に点在し、そこに場の空間を創出するのが私の世界観で、それは亡父がやっていた石庭にも通じるものがあります。亡父は自然物を相手にしていたのに対し、私は自らの加工物を空間に配置していると言ってもよいでしょう。表現に繋げる技法を作り出すことが独自な世界観を獲得する第一歩なのかもしれません。
2025.10.18 Saturday
週末になりました。定番として土曜日は今週の振り返りを行ないます。今週は毎日工房に行っていましたが、月曜日と木曜日は窯内の温度を確認するために、早朝工房に顔を出しただけでした。今週は新作の陶彫部品の窯入れを2回行いました。窯が実際に稼働しているのは1日だけですが、窯内の冷ましに2日間を要するので、日曜日の夕方に窯入れをし、水曜日に窯内の作品を入れ替えて、再び窯のスイッチを入れたのです。それで窯の稼働日は月曜日と木曜日になりました。ちょうどその日を展覧会巡りに当てれば、鑑賞の機会にもなるというわけです。今週の作業としては、乾燥した陶彫部品に鉄ベラで表面の凸凹を削り取り、ブロックサンダーをかけ、化粧掛けを施すことに明け暮れていました。つまり窯入れの準備作業です。因みに火曜日、水曜日と金曜日、土曜日は電気を復旧して、前述の窯入れの準備作業をやっていました。月曜日は師匠の池田宗弘先生に会いに国立新美術館に出かけました。自由美術展の会員である池田先生はこの日が搬出日で、長野県から東京へ出てきていました。今まで電話では何度も先生と話していましたが、久しぶりに先生にお会いして話をすることが出来ました。現在86歳の先生がお元気だったので、私は安心しました。木曜日は家内と六本木にあるサントリー美術館で開催している「絵金」展と、汐留にあるパナソニック汐留美術館で開催している「ウィーン・スタイル」展に出かけました。高知県の土俗的な絵画とオーストリアのウィーンで興った洒落たデザインの表現の幅が大きすぎるなぁと思いましたが、それも視覚芸術の豊かさが成せる世界観でもあるので、私の気持ちは満たされました。今週は展覧会に出かけた機会が多く、鑑賞に本腰が入っていましたが、10月は芸術の秋でもあるので、こうした1週間があってもいいのではないかと思います。
2025.10.17 Friday
昨日、東京六本木にあるサントリー美術館で開催している「絵金」展に行ってきました。本展は「幕末土佐の天才絵師」という題名もついていて、高知県に根ざした土着性の強い絵画文化を見ることが出来て、私は些か驚きました。図録より紹介文を拾います。「江戸や京、大坂を文化の中心とする視点で見るとき、いずれの画系の様式とも異なる独特の画風で、『血みどろ』が印象的な芝居絵屏風を高知のみに大量に残した絵金は、異端、奇才の絵師そのものであるが、代表作となる芝居絵屏風の数々や絵馬提灯ばかりではなく、美人画、年中行事図、五月節句の幟、絵馬などの多数な作品を本展でご覧いただければ、絵金が職業絵師として高知の大衆文化の王道を歩んだ時代の寵児であったことが理解されるだろう。」詳細な内容を一部抜粋します。「絵金が芝居絵屏風や絵馬提灯に描いたのは、現実に上演された舞台の場面ではなく、芝居の物語そのものとされている。複数の場面をひとつの画面に登場させた、いわゆる『異時同図法』で描かれた芝居絵屏風が少なくない。~略~絵金の芝居絵屏風は、氏子たちによって神社に奉納され、夏の祭礼で多くの見物人に披露されるものであるが、さて、これらの屏風の制作を絵金に注文した氏子たちや祭りの見物人たちに、屏風に描かれたストーリーを読み解くだけの芝居の知識がどれだけあったのだろうかという疑問が、本稿を執筆したきっかけである。」それは時代背景により、芝居が上演禁止になっていた時期があったようです。「寛政11年と天保12年の幕府のお触れによれば、歌舞伎等、一切の見世物はご法度であったが、土佐藩内での制限はゆるやかで、文政期には稀にではあるが地方で地芝居があり、天保期には高知城下の近郊で地芝居があった。嘉永期には、質素倹約令など諸法度による制限が撤廃され、各所で流行した。」(引用は全て藤村忠範著)そんな時代を乗り越えてきた絵金の芝居絵屏風等を、現代になって見応えのあるアートとして鑑賞できるのは奇跡と言えるのかもしれません。毒々しい情念が織りなす「血みどろ」な絵画に、人間が元来持っている摩訶不思議な究極の美を感じるのは私だけでしょうか。