2019.01.28 Monday
いよいよ「経験の構造 フッサール現象学の新しい全体像」(貫茂人著 勁草書房)も残り僅かになってきました。今回は第十一章「反省論と自我論的構図」について取り上げます。この章は3つの単元に分かれているので、ひとつずつ気に留まった箇所を引用していきます。まず「反省論の困難」。これは経験構造を反省によって分析することが現象学そのものを危うくするところから、存在者化と時間化に関する文章を取り上げます。「反省は、対象化であるため、反復的同一化であり、したがってそれによって繰り返し同一化可能な対象、すなわち存在者が成立する。それゆえ反省は存在者化だ。一方、時間意識は過去へと脱現在化する運動であるため、その都度遂行される作用や体験は、時間意識の流れによって失われてゆくだけだが、それが反省によって対象化され、繰り返し同一化可能な存在者となることによって、時間位置系列に位置づけられ、『時間化』される。」反省を現象学的に位置づける論理ですが、一度読んだだけでは咀嚼できない歯痒さがあります。次に「”わたし”という場所」。これは「”自我”や”わたし”は、経験のさまざまなシステムを外皮としてまとう核のようなもの、諸システムを外皮のように脱ぎ捨てても自存しうる実体的存在者ではなく、外皮に屈折した光が結ぶ虚焦点、システムの流れにおいて浮かび上がる形である。」という一文を選びましたが、前後の脈絡がないので、ここも理解困難ですが、簡単にまとめられないほど論理が込み入っていることをご容赦願います。最後に「純粋自我なき自我論としての現象学」で、この文章がまとめと言えるかどうか分かりませんが掲載しておきます。「自我の現象学的実質は、さまざまなダイナミズムの転轍機、諸力の交点、時間意識やパースペクティブの構造から成立する『今ここ』という時間的空間的被制約性の場所だ。さまざまな現象学的経験構造の結節点として、自我はまさに現象学的に構成される。『自我』は現象学的構造の前提ではなく、結果なのだ。」ここまで本書を読んできて、残すは最終章のみとなりました。
2019.01.27 Sunday
早いもので今日が1月最後の週末になりました。2つの塔が連結する新作では、今日の陶彫制作をもって、ちょうど40個の陶彫部品が出来ました。2つの塔を形成する33個の陶彫部品と2つを繋ぐ陶彫部品が7個出来ました。計画では残り8個になりますが、組み立てた時の調整があるので、多少部品が増えるかもしれません。今日の夕方は窯入れもしました。乾燥した陶彫部品に仕上げを施して化粧掛けをして、順次窯に入れていかないと、焼成も間に合わなくなることもあります。工程が多いのが陶彫制作の特徴ですが、これがあるためにモチベーションを下げずに制作が出来ているとも言えます。最近、保管する作品数が増えてきて、制作場所の確保が難しくなる懸念があります。そこで、ロフトの拡張と昇降機の設置を考えていて、今日の午後、業者が見積もりを持ってやってきました。自分の予想金額をはるかに上回る見積もりでしたが、これをどこから捻出するのか、家内と相談することになりました。自分が現職でいるうちに費用を何とかしたいと思っているのです。収入源のなくなる退職後には、大きな工事は出来ません。頭を抱えるところです。今日も作業は7時間に及び、夜になって自宅に戻ると身体が動かなくなりました。体感する寒さと作業に集中する精神力、これが昨日と今日の合計14時間が影響するところの身体に応えた疲労の原因です。明日からは職場に出勤して、もうひとつの仕事に従事しますが、この仕事は神経は使っても肉体そのものの酷使はありません。バランスが取れていると言ったらいいのか、背伸びをしている意識はないので、これが自分の身の丈に合っているのかもしれません。
2019.01.26 Saturday
やっと週末がやってきました。私はいつものように朝9時に工房に行って、夕方4時までの7時間を陶彫制作に費やします。作業が始まると忽ち時間が過ぎていく感覚を持ちますが、創作活動に邁進する7時間は本当に疲れます。毎週末は特別な用事がない限り、こんな風に過ごしていて既に習慣となっています。制作開始時間と終了時間を自分で決めているのです。これはウィークディの公務員としての勤務時間に影響を受けています。ウィークディは朝8時半には職場に出勤し、夕方は5時に勤務時間が終わりますが、朝夕多少の時間的余裕を持って仕事をやっています。私たちは8時間労働が基本です。管理職になる前からずっとこの勤務時間でやってきましたが、一般職員だった頃の方が残業が多かったと振り返っています。それに倣って制作時間も決めています。自由のはずの創作活動ですが、公務員のように時間を決めてやっているのは、そこに彫刻特有のアプローチがあるからです。気の向くままにやろうと思えば、誰にも咎められることのない制作ですが、敢えて時間の制約を自分に課して行うのには理由があります。私が自己表現に選んだ彫刻は、実材を扱う職人的な技巧が必要なため、素材に向き合う時間を要するのです。彫刻は一般的に一気呵成に出来ない表現で、私はそれを労働の蓄積と呼んでいます。とりわけ陶彫は、土練り、成形、加飾、化粧掛け、乾燥、焼成といった工程があって、順序を踏まなければ作品が出来上がっていかないのです。どうやら私はそうした時間の制約がある方が調子が上がるらしく、公務員的な日常を創作活動に持ち込んでいると言っても差し支えありません。今日は、先日成形を終わらせた陶彫部品に彫り込み加飾を施し、次の制作に備えて土練りやタタラを準備しました。夕方は乾燥した陶彫部品にヤスリで仕上げをし、化粧掛けをして窯に入れました。そこまででちょうど夕方4時になり、作業を切り上げました。窯にスイッチを入れるのは明日の夕方です。明日も7時間の制作を頑張りたいと思います。
2019.01.25 Friday
「経験の構造 フッサール現象学の新しい全体像」(貫茂人著 勁草書房)の第十章「歴史と文化的規範」を読み終えました。まとめをするのは至難の業ですが、現象学と「歴史と文化的規範」の関わりについて冒頭の文章を拾い上げてみます。「現象学的自我にかかわる独我論は、歴史と文化の問題を考慮に入れたとき解消すると述べた。だが、そもそも歴史や文化の現象学などというものは成立しうるのだろうか。現象学が分析対象としてきたのは主として単独の自我による経験や体験であり、相互主観性や世界が扱われるといっても極めて抽象的な形でしかなかった。」そこに第十章で登場する歴史やら文化やらの大きな捉え、これをフッサールがどう扱ったのかが本論になるのです。まず歴史記述の物語理論が登場してきます。次に対象化された歴史と対象化以前の歴史が述べられていました。単元だけ連ねても意味を伝えられないのが残念ですが、一文だけ印象に残った箇所を書き出します。「物語の外部を認めない物語論は、対象化されることなく現在を決定する伝統を、われわれの過去として認める余地を持たない。物語論のこうした限界は、近代哲学固有の誤謬、すなわちハイデガーの指摘する『世界統握』に根をもつと言えるだろう。」ここで登場する伝統という言葉から、伝統形成のメカニズム、自我の受動的能動性などが論理展開上で述べられています。ここも単元だけに終始して申し訳ありませんが、次に文化的規範の現象学に至り「現在の能動的活動を可能にし、制約する文化的規範性を解明するためには、まず『規範性』一般を現象学的に解明しなければならない。」という問題提起の文章がありました。また単元だけを追ってしまいますが、知覚における類型、行為の規範、自他の発生と文化の構築と続き、最後にこんな一文が目に留まりました。「文化の現象学的分析の観点からすれば、物語的歴史記述の新たな位置づけが可能となる。異邦との邂逅によって受動的に際立つ自他の区別が、今度は能動的に構築される際、歴史記述が本質的な役割を果たすとフッサールは述べていた。ある”文化”に属する個人や文脈ごとにさまざまな連関が過去には存し、それが現在を形成するのだが、こうした事情にもかかわらず、すべてを包括する”国民史”を構築することによって”全一性の地平” ”総体的人格性”としての国家、また”国民”として自己同一性が形成される。」まとめになりませんが、ひとまず第十章はここまでにします。
2019.01.24 Thursday
あっという間に読んでしまった「近代美術史テキスト」(中ザワヒデキ著 トムズボックス)は、私にとって極めて興味深かった内容があり、また手書きの文章から発する独特な感覚に、密かなメモ書きに似た雰囲気を感じさせる書籍でした。あぁ、これっていいなぁと思ったのは、第8章のフォンタナを扱った箇所で、イラストで描かれた画布に本当に切り込みが入っていたところでした。もうひとつは第13章「シュミレーション100%:ジェフ・クーンの『芸術?』」という箇所で、現在のアートが孕む課題をも含めた予見が、ここに示唆されているように思えます。そこを引用いたします。「クーンの『ピンク・パンサー』は芸術ではないと私は思います。クーンが今回”芸術として”提出したのは便器(デュシャンの作品)ではなく、ハイパーリアルな人形だったからです。精巧でカワイイ人形は世俗的なシアワセを演出するものです。クーンが明らかにしたのは、この今の時代にあっては芸術のシアワセより世俗のシアワセの方が説得力を持つということなのかもしれません。~略~『美術が不要になる日』がそのうちきっと来ると思います。あらゆる視覚表現はいずれ美術からイラストレーションにとってかわられることでしょう。クーンのピンク・パンサーが芸術であるとするならば、それは美術の”制度”を逆手にとった表現だったからです。私は美術という概念は、未視感の時代の産物である”美術の制度”によって支えられてきたものだと考えます。”美術の制度”とは未視感の視覚表現を追求するための場であります。そして既視感の時代にはこの制度はすでにナンセンスです。そこのところをうまくついたのが今回のクーンの『非芸術』だったのでしょう。」美術の存在を未視感と捉え、それを信じてずっと制作を続けていた私にとって、現在のアートの動きは気になるところです。いずれにしても面白い書籍でした。