Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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  • 2月最初の週末に…
    2月最初の週末がやってきました。今月も新作の陶彫制作に励もうと思っています。今日は大きな新作の根の陶彫部品を作るための土練りやタタラ作りを行いました。午後になって乾燥した陶彫部品に仕上げをし、化粧掛けを施しました。窯入れは明日の夕方に行います。土曜日は相変わらず身体が動かず、思うような作業が出来ません。休憩を取りつつ、今日の制作ノルマを坦々とやっていきました。大きな新作は8割くらい出来ているので、もう少し気分が乗ってきてもおかしくないのですが、二足の草鞋生活の厳しさなのでしょうか、今ひとつ集中できないもどかしさがあります。それでも何とか夕方までに制作ノルマは達成しました。今日は気分を変えるため、常連にしている横浜のミニシアターに出かけることにしました。ちょうど家内も時間が空いていたため、美術に関わる映画を観ることにしました。映画は「ペギー・グッゲンハイム アートに恋した大富豪」というアメリカ映画で、20世紀最大の現代美術コレクターだった女性のドキュメンタリーでした。デュシャン、ダリ、ピカソ、エルンスト、ジャコメッティ、モンドリアン、ポロック、カルダー、ブランクーシなど綺羅星の如く現代美術をリードした芸術家が現れ、大富豪の家系に生まれた彼女は、これら芸術家を援助し、一大コレクションを築き上げていくのでした。芸術家との恋愛遍歴もあって、何事にも囚われない自由な思想の持ち主であったことが伺えました。「収集作品より恋人の方が多かった」「女性の自由と権利の荒れた見本」と揶揄されても革新的な考えを変えようとしなかったペギー・グッゲンハイムがいたからこそ、現代美術のまとまった作品群をイタリア・ベネチアの「ペギー・グッゲンハイム・コレクション」やアメリカの「グッゲンハイム美術館」などで見ることができるんだなぁと思いました。私は20代の頃にベネチアに行っていますが、そこを訪ねなかったのが残念でなりません。アメリカやイタリアにはそのうち行って、コレクションを堪能したいと思っています。映画の詳しい感想は後日改めます。
    寒さ増す2月になって…
    寒さ増す2月になりました。春が待ち遠しい季節ですが、工房の窓から見える梅の木々の蕾が膨らんでいるようで、春がやってくる足音が聞こえています。今月の陶彫作品に関する制作目標を考えました。大きな新作の陶彫部品は残り8個を制作すれば、何とか完成に辿り着けます。やや小さめの陶彫作品はこれから制作に入ります。今月はこのやや小さめの陶彫作品に取り組み始めようと思っています。この作品はテーブル彫刻で、木製のテーブルの枠を作りかけていて、2点を同時に作っています。2点とも期限内に完成できればいいのですが、時間的に可能かどうか分かりません。ともかく今月はテーブル彫刻に手をつけていこうと思っています。RECORDは下書きだけの作品が食卓に山積みされています。徐々に解消されてきていますが、今月も頑張っていこうと思います。RECORDは夜の時間帯に自宅で制作することが習慣化していますが、その日の作品は下書きだけ済ませて、過去の作品に彩色し、仕上げを施すことが続いています。その日の作品はその日のうちに仕上げる原則に戻したいと思っているところです。鑑賞は折に触れて美術展や映画などに出かけたいと思います。外からの刺激は、時に心を活性化し、また癒されることもあって、楽しみのひとつになっています。読書は先日来続いてきた現象学の考察を少々休んで、自分の得意分野である現代彫刻の評論を読んでいこうと決めました。寒さ増す季節に負けないように過ごしたいと思っています。
    平成最後の1月を振り返って…
    今年の5月に新しい元号になることから、平成最後という冠があらゆるところで用いられそうですが、平成最後の1月が今日で終わります。光陰矢の如しと言うけれど、本当に今月は時間が経つのが早く感じられました。陶彫部品55個程度で形成する大きな新作は、現在40個が焼成済か、乾燥待ちの状態で何とか見通しが持てそうです。この大きな新作と共に個展に出品予定のやや小さめの陶彫作品はまだ手をつけていない状態で、来月には制作を始めないと間に合わなくなりそうです。今月掲げた制作目標である10個の根の陶彫部品は7個が出来上がり、3個は来月に回すことになりました。根の陶彫部品は大きなものから順次作っているので、3個を含めた残り8個の陶彫部品は、やや小さめになっていくため、負担は多少軽減するかなぁと思っています。毎年のことながら予断を許さない状況は続いています。一日1点ずつ作っているRECORDは、少しずつ下書きの山積みが解消されてきました。毎晩食卓でコツコツ作っていることが効果を生むのでしょう。読書は難解だった現象学の書籍を読み終えました。すぐにでもご本家フッサールの翻訳に手を出したいところですが、ちょっと気分を変えます。美術評論家が書いた現代彫刻に纏わる随筆を読もうかと思っています。今月の鑑賞は美術では「イサム・ノグチと長谷川三郎」展(横浜美術館)のみ、映画は「家に帰ろう」(シネマジャック&ベティ)に行ってきました。やや少なかった気もしますが、その分週末はほとんど陶彫制作に充てていました。風邪やインフルエンザが大流行していて、同僚の管理職が倒れていると聞き及んでいます。私も無理をしないように来月も元気にやっていきたいと思います。
    「経験の構造 フッサール現象学の新しい全体像」読後感
    「経験の構造 フッサール現象学の新しい全体像」(貫茂人著 勁草書房)がやっと読み終わりました。まだ完全に理解出来ていない箇所もありますが、こうした書籍に対する語彙力が身につけられれば、近い将来再読もあり得るかなぁと思っています。本書によって私は甚だ雑駁ですが現象学と言う学問の性質が分かったように思います。難解な書籍でしたが、現象学に対する興味関心は益々増してきています。いずれフッサールの著作にも挑もうと思っています。と言うのも本書は最初フッサールの平易な入門書か解説書くらいに思っていて、気楽な気持ちで読み始めたところ、論理の手強さに面食らってしまったのでした。まずは曲がりなりにもフッサールの著作を読んでから本書に進むのが筋道でした。本書では「おわりに 現象学の読解」に書いてあるようにフッサールの引用が恣意的に見えることがあると述べられています。フッサールの主張に正反対の立場を取っていることが見受けられるからです。これにはご本家を知らない私は戸惑いを隠せませんでした。「現象学とは、できあがった教説や体系ではないし、その主題も限定されていない。本書で素描したように、歴史や文化といったものについての現象学も可能だ。現象学に決定的な開始点はない、と以前に述べたが、それは言いかえれば、出発点はどこでもある、ということだ。どこを出発点にしようと、内属性の視点から、分析対象の存在を説明原理とすることなく経験を分析し、自然発生的に生成し自ら形を変えてゆく諸構造のーまるで小動物のようなー手触りを掬い取り、言語化し、それによって日常的思考枠組みや伝統的思考法を超えてゆくこと、それが現象学である。」と述べられています。あとがきでは「現象学は、経験から独立して存在するとされる実在などを前提することなく、経験に『内属』した視点から、知覚や時間、他我などについての経験構造を分析し、それによって実在その他の意味を解明する。」ものであると結論づけています。
    「現象学というシステム」について
    「経験の構造 フッサール現象学の新しい全体像」(貫茂人著 勁草書房)の最終章である第十二章「現象学というシステム」について取り上げます。この章は最終章に相応しく、そもそも現象学というシステムとは何か、それを考えるにあたって、その全体のモデルを提示するところから始まります。「実在経験や世界、感覚その他の連合、時間性、他我、歴史、規範性などそれぞれの場面では、その都度必要なメカニズムが起動し、存続するための独特な構造や現象が取り出された。受動的綜合、時間形式や他我の自然発生性、歴史や規範性における受動的能動性などがその例である。」次に現象学全体像の従来のものを一歩推し進めるカタチで「差延状構造」という概念が登場します。「どの場面をみても、〈可能性がそこに追加されるといわれるその当のものを、可能性が後から生み出す〉根元の補欠、それどころか、カント的意味における理念などに典型的であるように、『可能性がそこに追加されるといわれるその当のものを、実現不可能である当の可能性が後から生み出す』構造が現象学的装置を可能にしている。反復や非現前といった、デリタの言う指標的構造は随所にあらわれる。現象学的構造とは一連の差延状構造なのであり、現象学的還元は差延状構造を可視化する装置にほかならない。」次に新たな全体像として第十二章の最後にある文章を書き出します。「実在や自我などにあたるものが現象学的構造において構成され、にもかかわらずそれを実体化しがちな経験の罠が随所に仕掛けられていることを解明することによって、現象学はニーチェの言う『眺望固定症候群』に実質を与える。正義や真理、自我などを、あらかじめ確定した実体とみなすのは、ある時点における眺望を固定して、その背後に恒久的実体を想定する病によるというのがニーチェの言う眺望固定症候群だ。なるほど、現象学的構造それ自体は不変であり、その構造だけは実体化されていると思われるかもしれない。けれども、目的論や伝統の構造が示す土台としての伝統と将来の世代の同意への依拠という事情は、現象学の分析成果についてもあてはまる。」以上が本書「経験の構造 フッサール現象学の新しい全体像」の最終引用になりますが、私自身は章毎にキーワードになる文章を探そうと今まで躍起になっていました。しかしながら理解が及ばない箇所が多すぎて、NOTE(ブログ)では伝えきれていない勉強不足に、自己嫌悪に陥りそうです。再度チャレンジしようとも思いますが、嘗て読んだ哲学書にも同じような後悔があるため、ともかく時間を置こうと思っています。最後に「おわりに 現象学の読解」という著者の振り返りがあったので、明日はこれをもってまとめにしたいと思います。