Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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  • 週末 もうひとつの世界へ…
    ウィークディの仕事と週末の仕事、2つの世界を行き来している自分は、数十年の間にこれが習慣化して、精神的なバランスをとってきました。週末の仕事は創作活動で、公務員になる前からやっていました。キャリアとしては公務員より長いのですが、枠に嵌めることが出来ない世界なので、自己表現が確立するまで時間を要しました。海外で5年間暮らし、その期間を通じてコンセプトが醸成され自己表現が確立されていったように感じています。そうした創作の仕事とウィークディの公務員管理職の仕事はまるで異なります。職場には決められた勤務時間があり、コンプライアンスがあり、組織があります。十数年前からその運営に携わっている自分は、職場にいる間中、職員同士の歯車がスムーズに回っているかを管理し続けているのです。ウィークディの仕事は全て人のために尽くす仕事であって、自分を振り返ることはありません。その報酬として給料をいただいているわけです。週末の創作活動でウィークディの仕事から解放され、自分の内面世界に戻ってきます。私にとってもうひとつの世界は、心の平安を保つために必要なのです。しかも彫刻は素材と対話し、塑造したり、木彫をする行為があって、それらは人間の根源的な喜びに直接結びつくものではないかと感じるところがあり、ウィークディの仕事のストレス解消には最適だろうと思っています。やっと週末がやってきて、工房に篭ることの出来る幸せを感じつつ、陶土に触れ、あるいは木彫のために鑿を研ぐ生活を今日も満喫していました。そこではまた別のストレスを抱えてしまうのですが、ストレスの質が違うように思っています。一日7時間作業をやっていると体力が消耗し、心身ともに疲れきってしまうのです。これは本当に自分のための仕事であって、他者が入り込んでくる余地はありません。自分自身の喜びのため、満足のため、念願成就のために粉骨砕身していると言っても過言ではありません。明日は休日出勤の代休なので、明日も継続です。
    新しい職場での休日出勤日
    今月初めに瀬谷区に転勤してきて、今日が初めての休日出勤日となりました。私たちの職種は、年間何回かは組織的な休日出勤日を設けています。職場を地域に開放する目的があって、休日出勤を行っているのですが、当然横浜市内で地域差もあります。少しでも職場の雰囲気を地域に伝えられるようにしたいと私も思うところです。そんなこともあって今日の創作活動は休んでいます。昨晩、前の職場の歓送迎会があったので、今日は創作活動に気分が向かないため、休日出勤はちょうどいいかなぁと思っています。休日は横浜市の事務局からメールが届かないので、自分の仕事に専念できるメリットもあります。ただし、現在は週休2日が定着しているので、この1週間が長く感じられるのは確かです。新しい職場には次第に慣れてきていますが、やはり前の職場との微妙な違いが気になります。7割以上は前の職場と似ています。残り3割が違っていて、それがここの特徴とも言えます。これも徐々に慣れていくのかなぁと思っているところです。再任用満了まで後2年。この2年間で何が出来るのか、職員の動向を見ながら追々考えていきたいと思います。
    「日本を語る 多様で一途な国」について
    「日本流」(松岡正剛著 筑摩書房)は、読み易いうえに視点がユニークなので、通勤途中やちょっとした休憩時間に、つい頁を捲って読んでしまいます。第一章は「日本を語る 多様で一途な国」について述べられています。ここでは現代日本の多様性をさまざまな事例を出して語っていますが、この中で注目したいのは日本語の文字表記の多種と、日本人がコトバを操る時の流行と感覚です。私が外国人だったなら、日本語なんて絶対に勉強しないと思っています。省略も多ければ、使い方によって意味も違ってくる言語なんて誰が好き好んで勉強するでしょうか。私たち日本人にも分からない言語が日本語にはあるのです。日本語の成り立ちについて、本文を引用いたします。「やがて万葉仮名から片仮名や平仮名がしだいに派生してくると、どのように日本語を表記するかという議論がまきおこり、そのうち紀貫之の『男もすなる日記といふものを女もしてみむとてするなり』(『土佐日記』)という屈折した方法が出てきます。これを国文学では『仮託の方法』といい、そのようにしてだんだんできあがった日本語システムの変則的な成り立ちかたを、国語学では『日本語の重層的成立』というふうにいいます。表立った日本語は捩れながらできあがってきたというべきなのです。」日本語が以上のように多様なら、文化そのものも日本人が好きなように吸収して自分のものにしてしまう傾向があると言えます。そこで著者はこのようにも述べています。「ただ、気にいらないのは、そのような日本の多様を最近の日本がはしゃいでいるばかりで、寂しがらないところです。『おもしろい』ということと『寂しい』ということが断絶してしまっているところです。多様が一様になり、一途が拡散になっている。」という警鐘を鳴らしています。結論では「私は日本の『いろいろ』がいろいろ好きなくせに、その『いろいろ』の、キワ(際)に入ってこない日本が嫌いで、その両方です。」成程、著者の言いたいニュアンスは伝わってきます。この視点を自分も持っていたいと願う昨今です。
    連盟ニュースより記事抜粋
    私は日本美術家連盟(一般社団法人)の彫刻部に所属しています。そこから毎月「連盟ニュース」が郵送されてきて、記事を楽しみにしています。4月号は「ご意見番に聞く」というコーナーで、私にとってお馴染みのギャラリーせいほうの田中譲さんのインタビューが掲載されていました。東京銀座8丁目にあるギャラリーせいほうは、師匠の池田宗弘先生の個展を手伝うために、私は20代の頃初めて足を踏み入れた画廊でした。その頃、ギャラリーの母体である聖豊社では専門誌「現代彫刻」を発刊していて、私は定期購読をしていました。ギャラリーせいほうは、当時から私が憧れる画廊だったのでした。田中さんが語るギャラリーせいほうの歴史から引用いたします。「聖豊社創立者の中里豊次郎は出版社に勤めていましたが、彫刻に興味を持ち、会社を辞めて木彫家の関野聖雲に弟子入りしました。聖雲の『聖』と『豊』の字をとって聖豊の雅号をもらいました。~略~昭和50年に銀座の6丁目に彫刻を扱う専門の『ギャラリーせいほう』が開廊されました。聖豊社という名前はしばしば葬儀会社と間違われたりしましたので、平仮で『せいほう』にしたのです。」それから10年経って8丁目に移転したようですが、私が関わりを持った時は、既に8丁目にありました。次に画廊経営についてコメントしている箇所があります。「ギャラリーせいほうも野外彫刻ブームの恩恵を受けていましたが、百貨店などを通して最終消費者に売っており、木彫、ブロンズ作品、記念品、胸像・銅像などと幅広く彫刻を扱っていたから生き延び得たのかもしれません。」最後に売れない作品を作り続けている私が勇気づけられたコトバがありました。「売れる傾向の作品に影響されることなく、純粋な気持ちで作品を制作してほしいですね。特に美術品は飛ぶように売れる物ではありません。売ることを考えて作ると、どうしても下品な作品になってしまい、結果として売れない場合が多い。純粋な気持ちで作品を作るとその気持ちが伝わって、結果として見る人に感動を与え売れるのではないでしょうか。」田中さんには毎年個展を企画していただいて感謝しております。加えて私の作品はなかなか売れなくて本当に申し訳なく思っています。
    「日本が思う 歌を忘れたカナリア」について
    先日から「日本流」(松岡正剛著 筑摩書房)を読み始めています。序章は「日本が思う 歌を忘れたカナリア」という題名がついていて、冒頭に「日本で最初に唄われた童謡は『かなりや』です。大正七年(1918)に西条八十が詞を『赤い鳥』に発表し、翌年、成田為三がこれに曲をつけて同誌に楽譜をのせたのが最初でした。」という文章がありました。その童謡以外にさまざまな童謡を紐解いて、「それにしても、どの歌も『かなりや』同様にまことに哀しい風情をもっているのが気になります。」と続きます。「私は最近の日本が『歌を忘れたカナリア』になっているような気がするのです。」これはどうしたものでしょうか。「カナリアならばカナリアであること自身を知ったうえで、かつカナリアとしての多様な歌を唄い出すべきであるような気がするのです。」ここに日本独特な文化背景となった要素が隠されているのかもしれません。歌が出来た大正時代は大正デモクラシーのロマンティックでフラジャイル(壊れやすいとか傷つきやすいの意味)な風潮があったのではないかと察するところですが、著者はこんなふうに述べています。「その時代心境を哀切にのせ、作曲家たちもみごとにこれに応えて、直截に子供たちにぶつけてみせました。それゆえ、日本の童謡というものはほんとうにわずかな機会をとらえ、まるで日本社会の隙間のようなところから芽生え、互いに連鎖し、爆竹のように連打されたものだったといえます。いいかえれば、『赤い鳥』とともに、この時代にはすでに近代国家の体裁を整えおえた日本社会の激しい揺動が始まっていて、その隙間から子供たちに聞かせたい歌が聞こえてきたというぐあいだったのです。~略~理想の喪失から理想の再創へ。そしてその挫折。それならいっそ理想そのものを小さき者に託したい。そういう感情も渦まいていたようです。」次は第一章の「日本は語る」の読後のまとめをしたいと思います。