2019.04.16 Tuesday
前の職場から現在の職場に持ってきて、休憩中に読んでいる書籍があります。これを鞄に携帯していないのは、フランスの現象学者による至極難解な絵画論であるため、じっくり落ち着いて読んだ方がよいと思っているからです。読み始めてから時間も随分かかっていますが、大好きな画家カンディンスキーに纏わる論考ゆえに、決して飽きることもなく、思い出したように机の引き出しから引っ張り出しているのです。「見えないものを見る カンディンスキー論」(ミシェル・アンリ著 青木研二訳 法政大学出版局)は、カンディンスキーの著書「芸術における精神的なもの」を拠り所にして濃密な論理が展開していきます。「コンポジション」はどうやら全体論の佳境を迎えたらしく、本書の真髄とするものが見えてきました。フォルムについて論じている箇所を取上げます。「フォルムひとつひとつの情念こそがフォルムに正当性を与え、フォルムを生み出し、まずもってそういう産出の力を呼び起こすのである。われわれがこの情念と同一であるかぎりにおいて、われわれはそうしたフォルムを欲し、つくりあげ、フォルムとともにその異常な増殖や収縮を、その均衡や過剰さを、そのこの上ない華麗さを享受するのである。~略~そのフォルムは〈内的必然性〉によって誘発されたものであるという条件がつく。すべてのフォルムは適切であり、それ自体として根拠を与えられている。つまりフォルムの表現の源になっている情念によって。」次にコンポジションとフォルムの関わりについて引用いたします。「コンポジションとは、自らの固有の色調を作品全体へと広げて行くひとつの主要なフォルムに、あらゆるフォルムを従属させることである。」とありました。最後に絵画における大きな対位法が述べられていて、これはカンディンスキーの著作からの引用になっているようですが、ちょっと長めの文章を掲載しておきます。「個々のフォルムの柔軟性、いわゆるフォルム内部の有機的な変更、画面上でのその方向(運動)、一方では、これら個々のフォルムにおける具象性または抽象性の優位、他方では、大きなフォルム、つまりフォルム群をかたちづくる諸フォルムの配列、個々のフォルムと、画面全体というさらに大きなフォルムをつくるフォルム群との配列、また上述の各部分の協和ならびに対比の諸原理、すなわち、個々のフォルムの調和、あるフォルムの他のフォルムによる抑制、同様に個々のフォルムの転位、集中および分裂。フォルム群の、これと同じような取り扱い。おおいかくされたものと、あらわにされたものとの組み合わせ、律動的なものと非律動的なものとの同一画面での組み合わせ、純幾何学的フォルム(単純な、または複雑な)としての抽象的フォルムと、幾何学上の名称をつけることのできぬ抽象的フォルムとの組み合わせ、フォルム相互の輪郭の組み合わせ(ときには遠く、ときには弱く)の同様な処理等々ーこれらはすべて、純絵画的な対位法の可能性を形づくり、またこのような対位法に役だつと目されるところの諸要素である。」
2019.04.15 Monday
「日本流」(松岡正剛著 筑摩書房)を読み始めました。著者の松岡正剛氏はネットにある「千夜千冊」でその名を知り、その読書歴の凄さと書籍に対する視点と解釈に魅せられてきました。私自身が難解な書籍に挑んでいる時に、「千夜千冊」を見ると同じ書籍の論考が掲載してあって、随分助けられました。ただし、氏の文章は単純な解説ではなく、独特な言い回しがあって、その面白さに圧倒されて、成程こういうことを考えている人もいるのかと思ったことが何度もありました。とりわけ難しいと思っていた哲学書などもエピソードを交えて軽妙に語られていて、しかもその概観する視点に眼から鱗が落ちることもありました。「千夜千冊」の書籍の分類も独特で、その主旨を掴めば、そうした分類は理解できるものの、初めて見た者にとっては分かり易い索引ではないと思いました。そうした氏の知識の横断的または縦断的視点を遺憾なく発揮しているのが本書ではないかと期待して購入したのでした。本書の章も「千夜千冊」と同じくらい独特な雰囲気があって、興味が湧き上がります。「日本が思う」「日本を語る」「日本で装う」「日本へ移す」「日本に祭る」「日本と遊ぶ」「日本は歌う」という具合で、どんな論考が飛び出してくるのか、楽しみでなりません。序章を捲ってみると日本で歌われている童謡が登場していました。日本の童謡は哀しい歌詞が多く、情緒にしっとり浸っている反面、突き詰めれば気分が落ち込んでしまうメロディが定番になっています。松尾流ではこの文化にどんな味付けをするのか、日本的ではなく日本流にしたところに著者の思いが籠められているような気がしています。通勤の共に最適かもしれません。
2019.04.14 Sunday
今日は朝9時に工房に行きました。電気工事の業者が昨日に引き続きやってきていました。私は午前中は陶彫成形に集中していました。昨日タタラを作っておいたので、いつものようにタタラと紐作りの併用で、円形の陶彫を立ち上げました。テーブル彫刻の天板に吊り下がる陶彫部品で、円柱ではなくやや円錐気味に角度をつけて、上部は不定形にしました。これを逆さまにしてテーブルの下に設置する予定です。彫り込み加飾は曲線を誇張したものにしようと思っています。これは次に回すことにしました。昼食後、久しぶりに近隣のスポーツ施設で水泳をやってきました。昨日から木彫を開始し、長い時間にわたって鑿を振るっているので、身体を整えるためにストレッチを兼ねて泳いできたのでした。午後は木彫を再開しました。昨日より仕事が慣れていて、彫り進むのが苦ではなくなりました。彫刻にはモデリングとカーヴィングがあります。モデリングは可塑性のある素材を使って外へ膨らませる方法、逆にカーヴィングは素材を外側から内へ彫り込んでいく方法です。私の場合はその両方を同じ作品に採用していると言ってもいいと思います。陶彫は完全なモデリングかというとちょっと違和感がありますが、ただ可塑性のある陶土を使っていて、土を足したり削ったりしているので、モデリングの範疇だろうと思っています。木彫は完全なるカーヴィングです。今日は午前中はモデリングを行い、午後はカーヴィングを行なっていたわけです。まさに彫刻の真髄だなぁと感じました。私の彫刻作品ではモデリングに比べてカーヴィングの比重が軽く、木彫は必要な場合にやっているだけの技法です。でも木彫の面白みは、時折陶彫を超えてしまうことがあります。学生時代も塑造中心だったので、木彫に新鮮味を感じているのかもしれません。来週も陶彫と木彫は継続です。
2019.04.13 Saturday
暖かい陽射しの中、朝から工房に行っていました。ロフト拡張工事に伴って配線工事が入り、朝9時から夕方まで業者が出入りしていました。私はテーブル彫刻に設合する陶彫部品を作り始めるため、大き目のタタラを複数枚準備していました。タタラを使った成形は明日行います。昼ごろから久しぶりに木を彫り始めました。テーブル彫刻の脚の木彫で、角材に有機的で生物的な曲面を出そうと鑿を振るいました。今までの私のテーブル彫刻の脚は、ブランクーシの「無限柱」のような幾何学的なパターンを繰り返す形態が多かったのですが、新作は自由な形態にしようと決めていました。チェンソーで彫り込みの当たりをつけ、鑿で剃り落としていきました。パターンでないものを作るのは時間がかかります。量感としての楽しみも加わりますが、常にイメージを確認しながらの作業になりました。私の場合、木彫は継続した作業ではなく、新作に必要となれば行なうものなので、技法や道具に馴染むまで時間が必要です。1本目の柱が彫りあがる夕方になって、漸く作業にリズムが出てきました。今回、テーブル彫刻の脚を3本にしたので、残り2本は後日に回すことにしました。陶彫にしろ木彫にしろ制作に入る初日が一番骨が折れるので、次回はもう少し気楽に制作できるのではないかと思っています。今日久しぶりに木彫をやってみて、木彫には木彫なりの面白さがあって、そこにどっぷり浸かれば、さまざまなイメージが出てくるだろうなぁと思っていました。私は彫り跡の切れが大好きで、それを求めるために鑿を丁寧に研がなければならないのですが、それによっていかにも木彫らしい雰囲気が出てくるのです。私は木材にはあまり拘ることがなく、彫りやすければ何でも使います。テーブルの天板は厚い合板で、陶彫部品と接合されるので、合板の上に砂マチエールを貼り付けて油絵の具を滲み込ませています。陶彫と一体感を齎せるための工夫ですが、自作の特徴にもなっています。明日は主に成形をやりますが、時間が許せば2本目の木彫に入りたいと思っています。
2019.04.12 Friday
常連にしている横浜のミニシアターは夜9時から上映されるレイトショーがあります。昨夜は仕事から帰って自宅で夕食をとってから、フランス映画「あなたはまだ帰ってこない」を観てきました。映画の紹介文に「第二次世界大戦時のナチス占領下のパリ。1944年、マグリット・デュラス30歳。夫のロベールは地下でレジスタンス活動をしていたため、ゲシュタポに突然連れ去られる。それが、彼の帰りを祈り、彷徨い、苦悩する、彼女にとっての愛のための人生の始まりだった…。」とありました。デュラスと聞いて、私は学生時代に場末の映画館で観たモノクロ映画「かくも長き不在」を思い出しました。「あなたはまだ帰ってこない」とは別の物語でしたが、当時私の胸が締め付けられたことを鮮明に覚えています。デュラスは作家であり、事実を日記として綴っていたことが「あなたはまだ帰ってこない」(原題は「苦悩」)の下敷きになっているようです。図録によると「『苦悩』では、ナチの収容所にいるという夫に関する情報のためなら、藁にでもすがりたい気持で奔走する妻の心の内を描いているが、そこでは常に不安な波紋が収まることはない。もしかしたら偽情報ではないか、と不安に押しつぶされながらも、自分の行動を止めることができない。」(村上香住子著)とあり、彼女には夫の帰還をただ待つという受動的な仕草はなく、情報を得るため自らゲシュタポの手先に近づき、逢瀬を繰り返す危険を冒すこともしていました。戦争が終結して捕虜が帰還していく情景を眼のあたりにして、彼女の失望と期待が交差する場面は、観ていて息が詰まりそうでした。やがて終章に瀕死の夫が友人に支えられて帰ってきますが、もう以前の夫ではなくなっていたことで、何か空虚な感情に私は支配されてしまいました。戦争による破壊や戦闘があるわけではないのに、その悲惨さを余すところなく描いた本作は、私の忘れられない映画の一つになりました。