Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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  • 詩人の死生観について
    「ぼくは死は生と地続きだ思っているんです。肉体は服を脱ぐように脱げるもので魂は生き続ける。だから、妻や友人たちを思い出すということは、彼らが、俗世間で生きているぼくたちとは違う形で生きているんだと思っているし、そう思いたいんですよ。」これは今朝、職場に届いていた朝日新聞に連載されている「語るー人生の贈りものー」欄にあった記事の一部です。「語るー人生の贈りものー」欄に現在連載しているのは詩人谷川俊太郎氏とのインタビュー記事で、谷川ワールドのファンである私は、これを毎日楽しみにしているのです。連載記事を続けて読んでいくうちに、この詩はこういう状況の中から生まれてきたのかという動機捜しにもなって、抽象的と受け取っていたコトバの意味が急に具体性を帯びてきます。私たちと同じように人生に右往左往してきた人が、その都度コトバを結晶化させていく過程にスリリングな興奮を覚えるのは私だけでしょうか。それこそが、その人が詩人になっていく瞬間であると私は認識しています。今回は詩人の死生観とも言うべき考えが綴られていました。親しい人たちを見送り、一人残った詩人は、死と生の境についてイメージしています。死と向き合っているからこそ生まれてくる表現があるはずで、そうしたコトバを咀嚼して私も残りの人生をイメージしていきたいのです。死があるからこそ生が輝くという意味合いのことを、私は20代の頃ウィーンの世紀末芸術を観て感じていました。生き急いだ夭折な芸術家を評して誰かが語ったコトバかもしれません。詩人のように私も作品を通して死と向き合う日が来るはずです。それがいつかは分かりませんが、今は生を輝かせる作品作りに励みたいと思っています。
    生涯学習としての芸術活動
    生涯学習とは何か、昭和56年の中央教育審議会答申を紐解けば「人々が自己の充実・啓発や生活の向上のために、自発的意思に基づいて行うことを基本とし、必要に応じて自己に適した手段・方法を自ら選んで、生涯を通じて行う学習」という定義があります。これは学校教育だけで学ぶことを終わらせず、生涯を通じて何かを学んでいこうとするものです。学校教育では学び方を教え、その方法を使って末永く学習に親しむことが意図されています。私が人生の主軸におく芸術は、まさにゴールが見えないので生涯学習と呼ぶに相応しい活動と言えます。私は大学で師匠から彫刻の概要と技法を教わりました。そこに己の方向性を見定め、精神性を高めていくのは自分自身なのです。人は何のために学ぶのか、前述した自己の充実・啓発や生活の向上のためと答申は謳っていますが、まずは自己満足ありきと私は考えています。自分を自分で満たしたい、その上で自己表現によって他者の心を動かしたい、これが芸術の意義であろうと思います。美の規範が狭かった時代は、サロンに集う人々の美的価値に左右されてきました。現代は美の規範さえ存在しているのかどうか疑わしい時代でもあります。そんな中で自分が信じる価値観を、生涯を通して追求するのが生涯学習としての芸術活動です。美術館やギャラリーに収まらず、地域社会で発信する表現もあります。自分の考え方を人々に投げかけて、一定の評価を得て、それを担保にしたい作家もいます。アイディアをその場限りで終わらせるのではなく、生涯を賭けて表現し続けること、私も含めて作家にとって芸術に生涯学習として関わっていければ本望ではないでしょうか。
    「志向性の諸理論と志向的相関理論」について
    先日から「経験の構造 フッサール現象学の新しい全体像」(貫茂人著 勁草書房)を読んでいます。一度中断していた書籍ですが、哲学的な語彙が散りばめられた論文を読むのは、やはり手強いなぁと改めて思っています。今まで読んでいた軽妙な随筆に比べると、読書の速度が一気に落ちています。通勤時間帯ではその論理に入り込むのは難しいと言わざるを得ません。でも夜はRECORD制作に時間を費やしてしまうので、通勤の途切れ途切れの時間で読むしかありません。内容は第三章「 時間ー内ー存在」に入り、前段の部分で現象学における志向的相関理論の整理がありました。「現象学は、観念論と実在論、真理に関する相対主義と絶対主義といった対立を超えて、反ー基礎付け主義、反ー対応説もしくは反ー実在論といった『第三の道』を見出す。」というのが現象学の立ち位置だろうと思います。ここでドイツの論理学者であるゴッドロープ・フレーゲの意味論が登場してきます。フレーゲは「宵の明星」と「明けの明星」を意味と意義で説いた人くらいしか、私には雑駁な理解しかありませんが、本書では「フッサール現象学をフレーゲ的意味論と類比的とする解釈には問題がある。」と指摘しています。「フレーゲは『文脈原理』を提唱した。文脈原理とは、『語の〈意味〉は文という連関の中において問われるべきであって、孤立して問われてはならない』というものである。~略~両者が言葉遣いなどにおいては類似しながら、基本的な構制において全く異なることは明らかである。フレーゲは単独の文の〈意味〉を真理値とし、文の〈意義〉ならびに文の構成要素の〈意味〉と〈意義〉は、文の〈意味〉を決定する上での寄与によって規定した。文の〈意義〉は文の真理値を決定する条件(『真理条件』)であり、また文は真か偽かのどちらかでしかありえないため、個有名の〈意味〉となる指示対象はかならず実在しなければならない。フッサールにおいても、ノエマ的意味は真理にいたるための規則、真理条件の機能をはたす。ところがフッサールは名辞の対象を実在の個物とはせず、同一化可能なものと定義したのだった。」長くなりましたので、このくらいにしておきます。
    RECORD奮闘中
    一日1点ずつポストカード大の平面作品を作ろうと決めたのは、2007年の2月でした。それから10年以上も毎日作り続けていますが、この小さな制作が習慣になっているとは言え、ウィークディの仕事が多忙な時や、旅行している時は厳しいなぁと思います。それでも夜になると場所を選ばず、RECORD用に小さくカットしたイラストボードを取り出しています。私の鞄にRECORD用紙が常に入っていて、出張中の時間潰しに立ち寄るカフェでも、下書きをやっているのです。彩色や仕上げ用の描画用具はさすがに携帯するわけにもいかず、結果として下書きだけが先行してしまい、過去の作品が食卓に積まれていく傾向が最近目立ってきています。それを完成するため、毎晩8時から11時くらいまで食卓で奮闘しています。2週間くらい前にイメージしていた世界を思い出し、その時どんな色彩を考えていたのか、技巧は何が適しているのかを思案しながら作業をしています。私の作業中、猫のトラ吉はダイニングに入れないので、扉の外でずっと私を待っています。私がダイニングを出ると足に絡みついてくるのでトラ吉は寂しいのかもしれません。過去のRECORDの仕上げをしている最中に睡魔に襲われることが暫しあります。陶彫制作とは違い、机上で繊細に行っている描画作業に自分は向いていないのかぁと思っています。高校時代、大学の工業デザイン科に進むのを諦めたことが頭を過ります。その時の平面構成での色感の無さにコンプレックスを抱いたことも思い出されます。時代は巡っても同じことをやっている自分は一体何者でしょうか。
    週末 新作イメージの確認
    昨日から新作の2つ目の塔を作り始めています。朝から工房に行って、作業に取り掛かる前に床置きの部分を設計した図を広げました。そこで2つ目の塔が最初に作った塔に比べると、やや小さなサイズになっていたことに気づきました。ひとつ目の塔の床に接する土台は、6個の陶彫部品で構成されていましたが、2つ目の塔は5個の陶彫部品だったので、1個分小さなサイズになっていました。イメージの確認をして良かったと思いました。それでも今月中に5個を作ることは無理なので、最後の1個は来月に回します。今日は昨日用意したタタラを使って、2つ目の塔を形作る最初の陶彫部品に取り掛かりました。成形はひとつ目の塔と変わりませんが、彫り込み加飾で小さな穴を複数開ける時に、穴のカタチを変えることにしました。夕方までに最初の成形と彫り込み加飾を終えました。今日は9月とは言えまだまだ暑くて汗が噴出していました。シャツを2回替えました。土練りから成形と彫り込み加飾が終わるまで1個につき丸2日を要しています。これは週末2日間でひとつ出来上がる計算になります。無理のない範囲でいけば、これが制作サイクルとして定着するかもしれません。土曜日に比べると日曜日の方が作業に集中できます。これはウィークディの疲れが多少解消しているのが要因だと思います。これが継続できれば、さらに弾みがつくのですが、二足の草鞋生活のため、残念ながら制作は来週末に持ち越しです。夜はRECORDの過去の作品の彩色と仕上げを行いました。昼は陶彫制作、夜はRECORD制作をしていると、頭の中は完全に非日常化してしまい、周囲のことが見えなくなります。夜になって家内に買い物に誘われ、漸く日常が戻ってきました。