2018.04.11 Wednesday
社交性と内向性、自分はどちらかに偏っているとすれば、内向性だと思っています。公務員管理職としての立場があると、どうしても大勢の人の前で話をする機会や、情報交換等で人と交流する場面が多いのですが、私の性向としてはやはり内向性が強いかなぁと思っています。社交性は私が努力して身につけたもので、他人に話しかけるときは気遣いがあって緊張もします。相手の気持ちに添うようなことを言ったり、思いを汲んだりするのは、私が社交性のない証拠で、苦手意識の裏返しではないかと思っています。反面、一人で何か作業をしているときは内心ホッとしていて、もう一人の自分と対話しながら過ごしていることもあります。結婚したばかりの頃、私は時折独り言を呟くので、家内から怪しまれることもありました。私はさまざまな場面設定のイメージを辿る癖があって、それが口に出てしまうのです。作品を作るときに陶土や木材に、さも素材が生きているように話しかける癖もあります。工房では若いスタッフがいるので、その癖が悟られないように配慮しています。若いスタッフたちも工房で自らの作品に取り組んでいるときは、他人を遮断していて、彼女たちの動きを見ていると私と同じ性向を持っているのではないかと思っています。こうした内向性は孤独とも違い、社会的繋がりの中で、自分の秘めたる世界を持っているというだけの話で、孤立しているわけではないことを付け加えておきます。
2018.04.10 Tuesday
現在、通勤時間帯に読んでいる「アートと美学」(米澤有恒著 萌書房)の第二章では「芸術と美」について考察しています。最近のアート作品は美しいという概念がなくなってしまったような印象を受けます。それもそのはず、美とは何か、本書が語る通り、美は神からの恩寵、神が遣わせたものというキリスト教による観念が存在していました。時代の流れに沿って神学から人間学へ移行する際に、芸術は美を追求するものではないという考え方が生まれてきたのです。本書の中では哲学史上、理性(悟性)や感性を思索したプラトンやヘーゲル、カントにまず焦点を当てていますが、後半は美学の創始者バウムガルテンや、現代にも通じる芸術哲学を彫琢したフィードラーが登場してきます。著者の文章は部分が面白く、つい私は拘りが過ぎてしまうのですが、ここでは敢えて2人の思索家に的を絞ります。バウムガルテンとフィードラーです。「理性的存在として人間を考察する、もとより、哲学がそれを閉却する訳はない。ただそれだけでは済まず、理性の水準と並べて、感覚的存在としての人間をも考量しなければならなくなったのである。だが何分にも従来の哲学の中では、感覚の水準はまともに相手にされてこなかったので、いざ考察するといっても、拠るべき確かな思索的な方途がないのである。その意味で、バウムガルテンは開拓者であった。~略~バウムガルテンの美論は、プラトンのイデア論とキリスト教の形而上的な美論を『足して二で割る』ような、実に苦心の折衷案だった。美から感覚的な快という側面を括弧に入れて、美を一種の認識の問題に仕立てたことは、バウムガルテンの意図を離れて、後々、有効な考え方と認められることになる。美学が芸術哲学になったとき、芸術の美が感覚的な快として議論されることは、もうほとんどないからである。」また、フィードラーはこんな考え方を持っていました。「今になればもう当たり前の考え方なのだが、フィードラーのユニークな所は、『芸術』を人間の活動としか見なかったし、そうとしか評価しなかったことである。彼は、芸術の意義や価値を、もっぱら人間的能力に特有の活動と意味付ける。~略~フィードラーの芸術論からすれば、芸術的真理と所謂リアリズム、写実主義とは関係はない。要は、周りの世界が感覚にどのように映じ、感覚がどのように反応して、芸術活動として自己を貫徹するか、なのである。写実的になるかもしれないが、写実的だから感覚に忠実だということにはならない。フィードラーの時代、当然まだ抽象画は存在していない。だが彼の絵画理論は、具象抽象の別が、絵画にとって必ずしも本質的な問題ではないことを先取って示していた。この点でも、ユニークなものであった。」
2018.04.09 Monday
アルコールやドラッグ中毒、育児放棄、性的虐待、犯罪や移民問題など現代社会を取り巻く問題は、国が変われど、どこでも存在する困難な課題です。ましてや幼い子どもたちにとっては、その後の人生を左右する忌々しき問題です。子どもを主人公にして、そんな厳しい社会環境を描いた実写映画は、過去幾つかありましたが、先日観に行った「ぼくの名前はズッキーニ」は、同じ問題を扱ったストップモーション・アニメーションでした。三頭身の人形やその背景は、パステルカラーの美しい色に彩られたデザイン性に長けたもので、単純な造形だからこそ、逆に内容がストレートに伝わるものに仕上がっていました。主人公イカール(愛称ズッキーニ)は自分のせいで母親が死んだと思い込み、孤児院に連れてこられます。そこには既に5人の孤児がいて、当初は親分格のシモンにいじめられますが、次第に2人は心を通わせるようになり、親友になっていきます。そこにカミーユが入園してきます。カミーユも悲惨な成育歴がありましたが、ズッキーニはカミーユに恋心を抱き、子どもたちの絆は深まっていくのでした。シモンの機転でカミーユは意地悪な叔母から救い出される痛快な場面もありました。そのうちズッキーニとカミーユに養子縁組がやってきて…というストーリーはメランコリックであっても、明日への希望を繋ぐ印象を私に残しました。人形たちの大きな目がキョロキョロ動き、表情豊かな仕草にも愛らしさが感じられました。私は彫刻をやっているせいか、こうした作りものが大好きで、1コマ1コマを情熱を持って撮影されたスタッフにも拍手を送りたいと思います。
2018.04.08 Sunday
今日は昨日より元気に陶彫制作に励むことが出来ました。新作の制作工程はまさに佳境を迎えています。陶彫部品は9割くらいが出来上がっていますが、テーブル彫刻にするための木材の加工がまだ出来ていません。陶彫部品は毎週末に只管作り続けて、かなりいい感じになってきました。これからこの陶彫部品を構成して、いよいよ彫刻作品にしていくのです。今日は大きな陶彫作品全体を考えながら、彫り込み加飾や乾燥した部品にヤスリをかけ、化粧掛けを施しました。個展には小品も数点出しています。今回の小品についてもイメージが湧いてきました。これらを全て作り上げるには来月では無理かなぁと思っています。カメラマンにお願いをして、撮影日を6月初めにしていただきました。来月のゴールデンウィークで全ての作品を何とかしようと思っているのです。来月後半は関西方面への2泊3日の出張が予定されているので、それまでに作り上げておかなければなりません。制作工程を逆算すると余裕はありませんが、絶対無理と言うことでもありません。6月初めまでの週末は、ともかく制作一辺倒です。陶彫は最後に焼成があるので、手作業ばかりで完成するわけではありません。ひとつずつの陶彫部品を乾燥させなければならないこともあります。そんなこともあって今日も工房を出る時に、化粧掛けの終わった作品を窯に入れました。乾燥に1週間、窯に入れて3日間、これを考慮するとやはり6月にならなければ完成まで辿り着けないのです。また来週末に頑張ります。来週までに何点か乾燥が進むはずです。
2018.04.07 Saturday
やっと週末になりました。この1週間は気遣いが多く、心身ともに疲れました。待ち遠しかった週末なので、朝から工房に篭って制作に没頭しようとしましたが、疲労感が容易に取れず、土練りと大きめなタタラを4枚作ったら、意欲が萎えてしまいました。少しばかり休憩を取るため椅子に腰掛けたら、そのままウトウトしてしまう始末で、これは制作を打ち切るしかないと判断しました。制作工程が苦しいのは百も承知ですが、身体が動かないのはどうしようもないことで、今日の分は明日取り返そうと思いました。午後は自宅で休んでいましたが、こんな時は映画に行くことにして、演奏の予定がなかった家内を誘いました。映画館は、美術館と違って自家用車で行き、近くの駐車場に留めておけば負担が軽くて済むのです。今日観た映画は「ぼくの名前はズッキーニ」で、ストップモーション・アニメーションを駆使したスイスとフランスの合作映画でした。人物や情景のデザイン性が素晴らしく、暗い背景を持った子どもたちも三頭身で作られた立体人形なら、時にユーモラスに描くことができると思いました。この物語を実写ではなく、愛らしさを備えた人形キャラクターにしたのは、暗い過去を鬱々たるものにしないための工夫なのかもしれません。結果、メルヘンな雰囲気を残しつつ、人生の底辺を生き抜く子どもたちの逞しさ、社会的弱者をストレートに描くことが可能になったのではないかと考えました。映画が終わった後にキャストやスタッフが紹介される映像が流れます。その時に歌われていた歌詞に注目しました。和訳なので微妙なニュアンスはわかりませんが、胸に突き刺さる心理的なコトバも、やがて風に流れていくといった趣旨でした。詳しい感想は後日に回します。