2018.03.12 Monday
待ち望んでいた映画「ジャコメッティ 最後の肖像」が横浜のミニシアターにやってきました。先日、早速観に行ったら、自分もジャコメッティの精神状態になりきってしまいました。私は煙草を吸わず、周辺に娼婦もいないので、彼とあまりにも環境が違いすぎるし、表現方法も対極的なので、真似をしようにも出来ませんが、魅力的な人物像に少しでも近づきたいと思ったのでした。本作は、1964年にパリのアトリエでモデルを務めたアメリカ人作家のJ・ロードによる18日間のジャコメッティとのセッションを描いています。ドラマ仕立ての映画であっても、ドキュメンタリーのような気配があり、私には表現に肉薄する巨匠の凄みさえ感じました。映画のほとんどが狭い古びたコンクリート色したアトリエが舞台で、密室劇にも関わらず、そこで展開する心理描写は、創作活動する者にとっては、共感できることが多いと思いました。哲学者でフランスに留学していた矢内原伊作が、やはりモデルを務めていて、それに関する多数の著作があったため、その雰囲気は予め文章で読み取ることは出来ました。映像になるとこんな感じなのかと改めて認識した次第です。ジャコメッティの人物を象徴する言葉を探していたら、パンフレットにこんな一文がありました。「ジャコメッティはストイックであると同時に気まぐれで、ユーモアがあると同時に癇癪もちで、自分の作り出すものに常に懐疑的であった。」(横山由季子著)モデルを務めた人たちが言うのだから人物の性格に間違いはないでしょう。追求に追求を重ね、完成を拒む作品。見えた通りに作ったら、針金のように細くなった作品。巨匠らしかぬ風貌。その姿を捉えた本作は、自分には極めて刺激的でユーモラスな映画であったと思っています。
2018.03.11 Sunday
未曾有の東日本大震災から7年が経ちました。この3月11日が職場の稼業日に当たった時は、私は施設内外に向けて一斉放送を流し、1分間の黙祷を行いました。街行く人もその場で立ち止まって黙祷していたのが印象的でした。以前3月11日が日曜日に当たった年もありました。その時、私は作業を中断して黙祷をしました。今日は日曜日で午後2時過ぎに、工房に来ていた若いスタッフと1分間の黙祷を捧げました。FMヨコハマから鎮魂に相応しい音楽が流れていました。あの日を境に防災意識が大きく変わり、我が家でも防災グッズを揃えています。防災用のレトルト食品を期限が切れる前に食べることがあります。家内は防災意識が高いので、防災食品はローテーションして日常の食事に組み込んでいるようです。食料品だけではなく、先日も簡易トイレが届きました。日本に暮らしていると、自然災害に対する意識はかなり高いまま維持できるように感じています。復興にはまだまだ時間がかかりそうですが、人と人との絆を確かめ合えたのは幸いでした。今日は朝から工房にいました。昨日作っておいたタタラを使って、陶彫成形を行い、先週作った成形には彫り込み加飾を施しました。昨日に比べると今日は制作が進みました。昼ごろ、近隣のスポーツ施設に水中歩行に行ってきましたが、水泳もかなり出来るようになりました。少しずつ肩が動くようになり、身体が元に戻っていると感じています。そうであれば体力を回復していきたいと考えています。長く彫刻を作っていくために体力をつけておくことが必要です。彫刻は、精神的にも肉体的にも骨が折れる表現です。絵画やデザイン領域に比べると、彫刻をやっている人が少ないのも分かります。そんな扱い難い表現媒体を意志だけでやってきましたが、これからは身体をコントロールしていかなくてはならないかなぁと思っているところです。
2018.03.10 Saturday
このところ週末は美術館や映画館に足繁く行っています。今日は待ち望んでいた映画「ジャコメッティ 最後の肖像」がやっと横浜にやってきた初日でした。上映時間が午前9時からだったので、今日は工房に行く前の午前中に常連のミニシアターに出かけました。家内は演奏があって、今回は私一人で行きました。彫刻家ジャコメッティの制作は、哲学者矢内原伊作によって書かれた書籍が数冊あって、私にとって馴染みのあるものでした。パリのアトリエの写真も多く残っていて、そこでどんな制作が行われていたのか、映画による解釈や映像表現が如何なるものかをどうしても見たかったのでした。映画の撮影に使ったアトリエは忠実に再現されたもので、俳優もメイクの技術によってジャコメッティその人が乗り移っているような錯覚を覚えました。弟ディエゴや妻アネットもよく似た役者を使っていて、きっとこんな雰囲気だったのだろうと思いを馳せました。撮影はロンドンでやっていたようですが、裏ぶれたパリの下町をよく再現していました。ジャコメッティの最後のモデルを勤めたアメリカ人作家によるものを礎に脚本が作られていて、私には芸術家が制作中に落ち込んで自暴自棄になる心理がよく伝わりました。詳しい感想は後日に回します。午後は工房に出かけました。久しぶりにヴィジュアルデザインを美大で学ぶ若いスタッフが顔を出しました。彼女は近々4人展を開催するらしく、展示する作品を工房に作りに来たのでした。私は大きめのタタラを6枚準備しました。彫り込み加飾もやりました。明日は朝から工房に篭って制作を行います。
2018.03.09 Friday
このNOTE(ブログ)では私の職種を明らかにしていませんが、秋にあった祝祭的イベントが新聞報道されたため、職種が新聞に掲載されてしまいました。このNOTE(ブログ)を同業者の方も読んでいただいていることも聞いています。それでも拡散を怖れて、敢えて職種を伏せておこうと思っています。今日は、今年度最後の儀礼的イベントがありました。イベントでは、専門職である全職員が、専門の枠を外れて、協力し合う場面が多くありました。そのおかげで今日は厳粛なイベントができたと私は思っています。集団で行う式典は、全員で襟を正して気持ちを揃えていくものであると私は考えます。そこに個性の主張は要りません。私は彫刻家として個性の発露を何よりも大切にする者ですが、式典に関してはまるで異なる見解を持っています。式典によって集団社会の中で、個人でもケジメをつけるべきです。個性的であろうとする場面と、そうでない場面を使い分けていくのが円滑な人生だろうと私は思います。今日の儀式を済ませて、明日は創作に立ち向かう週末を迎えます。明日は個性を追求する自分だけの時間を過ごします。今晩は立派な式典を成功させた全職員を労いました。今年度もあと僅かになりました。
2018.03.08 Thursday
「アートと美学」(米澤有恒著 萌書房)は、美学者の立場からアートを論じようとしている書籍です。アートという現代を席巻している新しい概念を、私自身は積極的には使っていません。理由として、自分の中でアートに対する明確な考えが定まっていないからです。現在読んでいる「アートと美学」は、アートを知るための手がかりになればと思っています。アートは単なる芸術の外来語ではなさそうで、従来の芸術に新しい概念を齎せています。美術の枠では収まりきれなくなった思考表現が、アートとして括られていると考えられます。現代社会に対応する価値観を有する表現がアートというわけです。自分の名刺を作るときに、私には芸術家以外の立場として公務員管理職としての立場があって、こちらの方は社会的な名称が定着しているため、何の疑いもなく名刺を作ることができました。芸術家としては少々困りました。アーティストと呼ばれることに私は躊躇します。アーティストは結局何をする人なの?という曖昧さと気恥ずかしさがあって、私は彫刻家を名乗ることにしました。表現が彫刻だけに限らなければ造形作家、こちらの方がしっくりいきます。社会的な地位を持っているもうひとつの職業を表す名刺と造形作家の名刺、2種類の名刺を今も使い分けていますが、それでも造形作家の方が如何わしい印象を与えます。ましてやアーティストなど私には名乗れるはずがありません。怪しい活動家ともペテン師とも揶揄されそうです。これはアーティストというものが、あまりに多義多様にわたる職業を含むからではないかと思っているからです。もうひとつはカタカナ職業が嫌いという私の趣向にも原因があります。アートも同じで、ボーダーレスな表現を自分なりに咀嚼できない頑固者なのかもしれないと自分を分析しているところです。彫刻家ですよね、と人から言われると私は素直に頷きますが、アーティストですよね、と言われると、いいえ違いますと即座に否定してしまう私は気難しいのでしょうか。