Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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  • 12‘RECORD 8・9・10月分アップ
    久しぶりにホームページにRECORDをアップしました。RECORDには月毎のテーマがあって、それをタイトルにしてコトバをつけたいと考えたのは、自分の高校時代から続く現代詩への憧れがあるためです。詩の表現は自分にとって羞恥を伴い、コトバで内面を吐露することに今も抵抗があります。それでも書店に並んだ詩集を手に取ると、自分の感情の襞に触れるコトバに出会うことが多いのです。説明も分析もない語彙同士のぶつかり合いに、自分は不思議な世界を描くことが出来ます。詩を読むと無性に作品が作りたくなります。自分の得意分野である空間のイメージが湧くこともあります。漢字やひらがな、カタカナという日本語表記の豊富さに日本語文化で育った喜びを感じることが出来ます。これらは全て詩のおかげです。ただし、興味関心のあまり自分で詩作をしようとすると、忽ち壁に突き当たって己の語彙力の貧困さに苦しむことになります。今回アップした3ヶ月のテーマは「螺旋」「分離」「嗜好」でした。造形作品とコトバに直接な関連はありません。コトバが造形の説明にならないようにコトバはコトバとして新たに作ったものです。学生時代から訓練している造形思考と、憧れだけで何もしてこなかった詩作ではかかる時間が圧倒的に異なり、それ故にホームページのアップが遅れることがあるのです。それでもコトバによる表現が憧れであることに変わりなく、今後も時間がかかるのは承知の上で、コトバを捻り出していきたいと思っています。私のホームページには左上にあるアドレスをクリックしていただければ入れます。ご高覧下されば幸いです。
    映画「さよなら、人類」
    昨日の続きのNOTE(ブログ)になりますが、先日観た映画に関する感想を書いてみます。「さよなら、人類」は第71回ヴェネチア国際映画祭金獅子賞を受賞した映画で、スウェーデン人の監督による人間の本質を醒めた視点で捉えた摩訶不思議な作品になっていました。CGは使わず、巨大なスタジオにセットを組んで、1カットずつ構図や配置を綿密に計算して作り上げた、大変手の込んだアナログ映画だということが観ていて伝わりました。配色の統一、遠近法、演劇的な空間処理という演出の中で、坦々と語られるのは日常としての死を含めた生活です。人は生きていく上で滑稽な関わりや皮肉な場面や憐憫を生む状況があり、それでも登場人物たちが電話で言う「元気そうで何より」という挨拶が如何にも日常的で楽観的な台詞に聞こえます。映画では面白グッズを売る冴えないセールスマン2人を縦軸にして、欲望の虜になった舞踊教師や傷つきやすい国王等が登場してきますが、その全てに亘って人間の哀愁や苦楽や可笑しさみたいなものが流れていて、シーンの脈絡として繋がっているのはそうした人間の存在そのもののような気がしました。動きや台詞を極端に限定した画像作りを見て、私は荻上直子監督の「かもめ食堂」に代表される一連の作品を思い出しました。「さよなら、人類」ほど多くを語る映画ではありませんが、似た手法に日本人独特な間合いを感じた映画でした。「さよなら、人類」を見て、その脈絡に新しさを感じなかったのは、これが原因だと思っています。映画を見終わった後、微妙な感想を持ったのは、そうした心理描写が日本人には決して不思議なモノではないことがあって、世界で絶賛された描写のユニークさが自分には伝わらなかったと思えてなりません。
    映画「ターナー、光に愛を求めて」
    先日、橫浜のミニシアターに出かけて表題の映画を観てきました。イギリスの巨匠ターナーの光に溢れた絵画群を、以前に東京都美術館で見て感銘を受けたところなので、この映画全編に亘る映像美には驚きを隠せませんでした。戦艦テメレール号の解体される最後の雄姿を、舟に乗ったターナーが見ていた設定にして、ターナーの描いた世界そのままを映像に仕上げる技術に圧倒されました。まさに眼前で動いている絵画世界がありました。ターナーの主題とする光と潤いに満ちた丘や湖が現れる映像は、今もイギリスに残る風景でしょうか。ターナーの色調に迫る映像処理が行われていて、溜息が出るほどです。ターナーの人間性は監督の解釈によるところが大きいかもしれませんが、史実を基にターナーを中心とする周辺人物を色濃く描いています。その演出も事実と見紛うほどになっていて、ドラマとしての説得力を大いに楽しみました。ターナーには若い頃に描いた有名な自画像があって、それは己を美化して描いていますが、映画で主演をしていたT・スポールは中年の醜さの漂うターナーを演じています。どっちが本当のターナーに近いのか、想像してみるのも一興かもしれません。ロイヤル・アカデミーに展示してある数多くの作品に、その場で画家たちが自ら手を入れているシーンに自分は個人的な関心を持ちました。その場でターナーと同世代のライバルであるコンスタブルとの絵画表現上の鞘当てがあったり、嫌みたっぷりな批評があったりして、これがドラマとは言え、自分はこのやり取りに少々疲れました。ターナーの生涯、絵画から抜け出してきたような映像美、創作する者としては羨ましくもある映画だと思いました。
    週末 新作の方向性
    朝夕の暑さが少しずつ変わってきました。若干ですが、爽やかな空気の気配が感じられます。今日も朝から工房で新作の陶彫部品の成形に取り組んでいました。まだ初めの1個目を作っていますが、集合彫刻の場合は、最初の1個目が全体の方向性を決めていくことが多いのです。今日は建築的な構成要素を盛り込んだ最初の陶彫部品を作り上げ、このパターンを展開させていく方向性を打ち出しました。従来の作品よりもさらに建築に近い作品になるように思えます。野外に残る円形劇場の遺跡が発想の原点なので、今まで発展させてきた生物的な都市空間は影をひそめることになるかもしれません。今日は新作の方向性を決めた点が特筆できることです。まだ新作の制作が始まって間もないのですが、午後のひと時は集中力が高まり、周囲が見えなくなる至福の時が訪れました。あっという間に夕方4時になり、今日の作業を終えました。相変わらず汗が噴出してシャツを何枚か替えましたが、緊張感があった時間帯はシャツを替えるのも忘れ、眼の前の陶土との対話に没頭していました。かなり前からこの瞬間が訪れるのを期待して作業を進めていますが、集中力の高まった瞬間がやってくると何故か気持ちが安定して、不思議な満足感が得られます。次段階への発展が楽しみになっています。来週末も頑張りたいと思います。
    週末 新作陶彫を作り始める
    今日は朝から工房に篭りました。今日は私に関わりがある美術系の高校生が夏休みの宿題をやりに工房に来ていました。今日は先日練っておいた陶土をタタラにするところから作業を始めました。菊練りした陶土を適当な塊にして、掌で叩き続けて座布団大のタタラを作ります。通常陶芸で扱うタタラとは大きさが違い、1枚ずつ力を込めて厚さ1センチのタタラにしていきます。陶彫部品は大きいのでタタラだけでは保てず、陶土を紐状にして補強をしていきます。いわゆるタタラと紐作りの併用です。厚みがあるのは成形後に彫り込み加飾をやるので、その削り分を考慮しているのです。今日はたったひとつの陶彫部品も完成しませんでしたが、水を打ってビニールで包んで明日に持ち越すことにしました。初めの陶彫部品は慎重に造形していくのが自分の癖になっていて、これで次から次へ弾みをつけていくのです。午後は高校生を車で送りながら、同僚の女性管理職が横浜山手のエリスマン邸でテキスタイルによる個展を開催しているので見に行きました。紺や白の布を使い、こまめに縫い込まれた幾何模様が美しいと感じました。向かいの洋館ギャラリーでも、私と同じ研究会に属する管理職が陶芸の展覧会をやっているので見てきました。以前に見たことのある懐かしい作品も並んでいました。帰りがけに行きつけの店に立ち寄って木材を仕入れてきました。週末はあっという間に時間が過ぎていきます。明日も頑張ります。