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  • ピカビアとデュシャンについて
    「シュルレアリスムのために」(瀧口修造著 せりか書房)の次章は、それぞれの芸術家に関しての文章が掲載されています。最初はフランシス・ピカビアとマルセル・デュシャンを取り上げます。ピカビアに関する文章は詩的です。「ピカビアは真に思春期の自由であった。鳶への受胎告知の可能、それは彼の人間的意志の極光である。王女のような海盤車を見給え。それが単に不思議に無数の官能を具足したひとつの太陽に酷似することはピカビアの真理である。」次にマルセル・デュシャンです。「マルセル・デュシャンのもっともモニュメンタルな仕事は、いうまでもなく、ガラス絵『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』である。~略~彼にとっては、多少とも論理的な仕方で、客観的な諸形態を分解したり(立体派)、主題の再現的な、またダイナミックな要素を混入したり(後期立体派ないしは未来派)することなどは問題ではなく、まったく別個な再現的価値の法則、形態の新しい意義を創造することが問題であった。このガラス絵は、その題が示すように機械のオルガニズムが、調革の論理のごときものによって、かえって人間的な冒険を生きようとするところの全く新しい可視世界を再創造しようとするものであった。~略~このタブローを占めるあらゆる機械的物体を結ぶ、いわば『調革の論理』は依然として難解なものたるを失わないようだ。それはしかし彼のレディ・メードのオブジェの意義の純潔さに似てはいないだろうか。ただわれわれがこの作品からうける全体の印象は、可能なあらゆる努力の意味づけによって、微動だにしない構造的なものであることだ。それがデュシャンの独特な表象法の秘密でなくてはならない。」今回はここまでにします。
    映画「ゴジラ×コング 新たなる帝国」雑感
    昨日工房で窯入れを行ない、今日は焼成のために窯以外のブレーカーを落としているので照明等が使えませんでした。午前中は自然光の中で陶彫の彫り込み加飾をやっていました。明日になれば電気は復旧しますが、今日のところは仕方がないなぁと思っていて、それを言い訳にして、午後は家内とエンターテイメント系の映画館に足を運びました。気分転換を図るため観たのは「ゴジラ×コング 新たなる帝国」で、弾け飛ぶようなアメリカ版ゴジラ映画です。私は前作「ゴジラ×コング」も観ていて、物語の繋がりはよく分かっていたので、今回も気楽に理屈抜きで楽しめました。アカデミー賞に輝いた日本版「ゴジラ-1.0」とは、ゴジラが登場する背景や、ゴジラそのものを神格化する日本版とはまるで異なり、同じゴジラが登場する映画としては別物と考えた方が良さそうです。アメリカ版は「モンスターヴァース」という連作で、地上に棲むゴジラと地下空洞に棲むコングが、奇妙な電波信号によって、そのテリトリーの均衡が破られるところから物語が始まります。地下ではコングとは別種の猿集団がいて、凍結波を出す怪獣を操り、他の生命の絶滅を図っていたところにコングとゴジラが共闘して、別種の猿集団を倒すというものでした。まさにこれはエンターテイメントで、見せ場がこれでもかと続く痛快娯楽劇に仕上がっていました。そうした特撮に関してはアメリカ人製作者の巧みさが凄くて、観客はどんどん惹き込まれていきました。エジプトやイタリアの世界遺産となっている建造物がバラバラ壊されていくのは、映画でなければ見られない場面だなぁと思っていました。観終わった後で、家内も面白かったらしく、ゴールデンウィークの過ごし方としては良かったのではないかと言っていました。私も気分転換が図れて、明日から陶彫制作を頑張ろうと思った次第です。
    制作追い込みの5月に…
    今年も東京銀座のギャラリーせいほうで個展を企画していただいています。個展には図録を用意するため、作品の撮影日を6月初めに予定しています。図録撮影にはカメラマンを初め、スタッフたちも多く呼んでいるため、日程の変更は出来ず、ともかくその日までに作品を完成しなければなりません。今日から5月になり、作品完成までの猶予が1ヶ月となりました。今月は制作追い込みの1ヶ月になりますが、2年がかりで計画した365点で構成される陶彫立方体は、なかなか厳しい日程となっていることを実感しています。まぁ、教職との二束の草鞋生活を送っていた頃は、365点で構成される陶彫立方体なんて考えも及ばないものでした。ともかく今月は身体を壊さないように心身ともに頑張っていこうと思っています。彫刻は精神の産物だなぁと思うのは、創作は単純な手仕事というより自分の内面に向かうことで形作られる行為があって、そこに緊張感が生まれてくるのです。一日があっという間に過ぎていくのは、こうした張り詰めた状態が続いていることの証です。長く制作を続けるためには休息も必要だなぁと思っています。丸一日休むことは出来ないので、窯入れをした日には映画館や美術館に行こうと思っています。今日の夕方に窯入れをしたので、明日は電気が使えないため午前中は照明を点けずに作業をして、午後に映画に行こうと思います。それが気晴らしになれば、また明後日から制作を再開いたします。今月も読書はシュルレアリスムについての書籍を読んでいきます。大好きな美術に囲まれているので、何と言っても心は充足していて楽しい1ヵ月が過ごせそうです。
    無休の4月を振り返る
    今日で4月が終わります。今月は30日間あって、工房に出かけた日は30日間ありました。つまり今月は無休で創作活動を続けていたことになります。無休で仕事が出来たのは、この仕事が人から与えられたものではないからで、自分の意欲が自分の心身に打ち克って、休日を欲しなかった結果です。それでも今年の個展に作品が間に合うかどうか微妙なところで、私は尋常でない精神状態になっているのかもしれません。常に工房で陶土に触れている私は、気持ちを内面に向けることだけに特化してしまっているようにも思います。このゴールデンウィークには気分転換を図る必要を感じます。今のところ遠出するのは無理なので、映画にでも行こうかなと思っています。日記代わりの小さな手帳を見ると、工房にいる時間も長くなり、仕事を終える時間が遅くなっています。今月の美術鑑賞は「ブランクーシ展」(アーティゾン美術館)、昔の同僚が出品していた「モダンアート展」(東京都美術館)に行ってきました。ブランクーシの簡潔な作品は、私には涼風に頬を撫でられるような清涼感を齎せてくれました。映画鑑賞では「ハイキュー ゴミ捨て場の決戦」(鴨居ララポートTOHOシネマズ)に行ってきました。スポーツ漫画による娯楽映画でしたが、日本のアニメーションのレベルの高さを伺わせました。今月で一番大きかったことと言えば、17年間一緒にいた飼い猫トラ吉が22日未明に亡くなったことでした。トラ吉は病院通いもなく、次第に筋力がなくなって立てなくなりました。私たちはトラ吉を最期まで世話し、看取れたことで、気持ちの整理が出来ました。今月は短く感じられましたが、いろいろな意味で充実していたのだろうと思います。
    「イギリスのシュルレアリスム」について
    「シュルレアリスムのために」(瀧口修造著 せりか書房)はフランス発祥のシュルレアリスムについて述べたものですが、イギリスでもその動きがありました。「イギリスのシュルレアリスム」について、気に留めた箇所をピックアップしていきます。イギリスには気鋭の評論家ハーバード・リードがいて、ロンドンで開催された「国際超現実主義展覧会」について講演をしています。「注目すべきことは、この展覧会の講演会でのハーバード・リードが、完全にシュルレアリストの立場をとっていることである。『芸術の意味』『今日の芸術』『芸術と工業』などの著者はまったく面目を一新した趣きがあるが、今後の仕事にいっそうの活躍を期待したいと思う。彼は二回にわたる講演で、イギリスにおけるあらゆる因襲的観念を批判し、シュルレアリスムの位置を確立しようとしている。~略~『人間の性格の分離は不定のものであり、またこの性格の選択された一部分にのみもとづいた芸術形式もまた不定である。古典主義のなかに見出される知性の芸術、印象主義の眼の芸術、表現主義の感情の芸術などーすべてこれらは芸術の部分的な不完全な形態であり、理想的先入観の種々な形式にほかならない。もしわれわれの目的がレアリテにあるとすれば、そこに人間的体験のあらゆる諸相を包含しなければならないのであって、夢や白昼夢、狂気、幻覚などに現われる無意識生活の諸要素を排除してはならない。』内部世界と外部世界との諸問題については、ブルトンたちの数年来主張してきた論拠に一致点を求めようとしている。~略~『シュルレアリスムの庭園のすべてがつねに美しいものではない。この不完全と崩壊の時代に、その芸術がその様式において単一であり、内容において肯定的であることは不可能である。創造の前には破壊がある。シュルレアリスムが嘲笑やファースの要素を帯びるとすればこの理由からである。』今回はここまでにします。