2024.11.01 Friday
11月になりました。今年の夏に経験した大変な酷暑からすれば、最近は信じられないくらいの涼しさになり、創作活動には絶好な季節になったように思えます。私は寝起きに新作の全体像が微かに見えることがあり、その具現化のために一日をどう過ごすかを決めるのです。教職にあった多忙な時代は、現行の作品制作に苦しんでいる時に限って、新作の世界がふわりと降ってくる時もありました。それは現実逃避かもしれず、それでも何かが見えたような見えないような不思議な感覚になりました。望みとしては自分の発想の泉はまだ滾々と湧いているのかなぁと嬉しくもなりました。さて、今月は陶彫部品と古木の組合せを試みたいと考えています。陶彫部品はかなり進んできたので、そろそろ全体構成を考えていこうと思っているのです。新作が具体化すれば、さらにそこから思索を深め、造形哲学の構築をしていきます。私は思索ありきではなく、まずイメージの具現化とともに考えを深めていく方法をとっています。まだ先になりますが、床に置く立体とともに今回は壁面を使う作品も考えていて、双方で世界観を作ろうとしています。最初のイメージからして、新作は床置きと壁面があって、ひとつの空間を演出するものです。今月も引き続き新作の具現化に努めていきます。今日は菩提寺で十夜法要があり、これは浄土宗の仏事のひとつになっています。私は陶彫制作もあり、また近隣のスポーツ施設にも行っていたため、私の代わりとして家内に菩提寺に行ってもらいました。僧侶の法話や古典落語などを聞き、最後に卒塔婆を墓地に立てて終了になったようです。私たちは最低限の宗教行事には参加しますが、仏教に関して理解が深いとは言い難いものがあります。キリスト教にしても同様で、昨晩やっていたハロウィンもよく分からないものがあります。ケルト民族やアイルランド、英国の古い伝承には興味がありますが、ハロウィンとなると自分とは関わりがないので、それを楽しもうとする気持ちが出てこないのです。秋の農業収穫物を祝うという基本的な生活慣習なら私にも理解できます。
2024.10.31 Thursday
涼しさを増した10月が今日で終わります。夏の暑さの名残りはまだあるものの、秋は確実にやってきていて、遅ればせながら紅葉も始まっています。工房での陶彫制作は本当にやり易くなりました。と同時に身体が疲れやすくなっているのは長く続いた夏の酷暑のせいでしょうか。工房での生活は春と秋が最も過ごしやすく、また創作活動も進むので、これから頑張っていこうと思っています。さて、10月を振り返ってみると、制作時間が朝9時より午後3時までを基本とするルーティンに戻りました。新作も今まで4回の窯入れをしているので具体的な成果が現れています。今月は31日間ありましたが、そのうち工房に通ったのは31日間あり、窯入れしている最中も窯の温度確認やら整理やらで工房に行っていたし、美術館など鑑賞に行く時も工房に立ち寄って、何かしら作業をやっていました。目標とした陶彫部品と古木との合わせをまだやっていないので、それは来月になるのかなぁと思っています。今月の美術鑑賞は「自由美術展」(国立新美術館)、「物、ものを呼ぶ」展(出光美術館)、「田中一村展」(東京都美術館)、「特別展 はにわ」(東京国立博物館)、「女子美祭」(女子美術大学)に行ってきました。美術に関してはなかなか充実していたと思っています。映画鑑賞では「侍タイムスリッパー」(TOHOシネマズららぽーと)に行ってきました。映画製作の発想に優れた作品だったと思っています。その他では自宅と工房周りの雑草の刈込を親戚に頼んでやってもらいました。親戚と言えど費用は発生しますが、周囲がきれいになることで心地よさを感じて、それが創作活動に影響しているように思えます。今月は久しぶりに高校の同窓会があり、旧交を温めました。その時は個展によく来てくれる竹中直人君にも会いました。地元の中学校で開催された学校運営協議会にも参加しました。これは教職の時代を思い出す良い機会になりました。衆議院選挙では自分の一票が反映されたためか、政治の動向が今も気になっています。読書では引き続き抽象芸術に関する書籍を丁寧に読んでいます。こう書いてくると10月はいろいろな意味で有意義な1ヵ月だったと思っています。
2024.10.30 Wednesday
「抽象芸術」(マルセル・ブリヨン著 瀧口修造・大岡信・東野芳明 訳 紀伊國屋書店)の「Ⅴ 抽象絵画の主流 」の文中に出てくる多くの芸術家を今回も3人取り上げます。まずビシエル。「ユリウス・ビシエルは、かれの造形の探究をたえまなく完璧に内面化していった果てに、静寂と凝視の王道を発見した。しかもかれは人間的なものを除き去りはしなかった。かれの作品の根底には、劇的な、きわめて激情的な底流が秘められている。見るものは、時には苦しいまでにそれを感じるほどだ。かれのなかでは、不朽のドイツ魂の悲劇の流れと、宇宙の唯一実在、つまり『原初の本質』を目指す思考の純化が本質である東洋の叡知ー道教の誘惑とが戦っている。しばしばビシエルの絵画は、フォルムの均衡の裏に、これらの『本質』を、われわれにかいま見せるように思われる。」次にゲッツ。「カルル・オットー・ゲッツは、ビシエルよりも20年ほど若い世代に属している。しかしながらかれは、表現主義のあらゆる血気、その苦しげな心をかきたてるダイナミズムを失っていない。バウハウスの経験が、かれの世代の多くの画家たちと同じく、かれにとっても決定的であった。つまり、表現主義の持っていた主要な力が、人工的でしかありえなかった古典主義に吸収されてしまわずに、反対に非具象的な構成のなかできたえられ、規制されていったということである。この構成が、かえって表現主義の爆発的な可能性をさらに育んだのだ。」最後にブッフハイスター。「ドイツにおける非具象の歴史に見透すことのできぬ役割を演じたカルル・ブッフハイスターにも、またゲルマン民族のもっとも古代から発した『抽象の恒常性』と、1910年から1920年のあいだの抽象折衷主義の第一課との連結がみられる。大胆な対比を持つ、おどろくべき稀有なマティエールを精緻に彫琢しているので、美的な経験の重々しさに、時折、自分を見失わないままに輝かしい遊びの魅力が加えられている。」以上、ドイツ系3人の画家をピックアップしました。今回はここまでにします。
2024.10.29 Tuesday
私が生まれ育った昭和30年代は、娯楽と言えば外で遊ぶか、家でテレビを見ているしかなくて、私も典型的なテレビっ子世代です。当時はドラマやアニメーション、バラエティー番組など、家族揃って見ていた時代を今は懐かしく思い出します。教職に就いて暫く経つと、私は教科の特質で美術系の教養番組を見るようになりました。ニュース等の報道番組も必ず見るようになりました。スポーツ観戦は競技を選ぶようになり、それは今に至っています。パソコンやスマートフォンが生活必需品になってから、テレビをあまり見なくなりましたが、それでも私には自分が楽しみにしている番組があります。NHKの「映像の世紀 バタフライエフェクト」です。この番組の製作のきっかけになったのは放送70周年・戦後50周年(1995年)を記念して製作を開始した一連の「映像の世紀」シリーズだったようです。NHKが保存している戦後の映像史の中から「罪と勇気の連鎖」をキーワードに歴史を振り返っていく方針がネットにあり、音楽を担当した加古隆氏の印象的な楽曲が、時折私の心に訴えかけてきます。学校教育の社会科の中で近代史、とりわけ戦後の世界の動向を扱うのはなかなか難しい側面もあり、こうしたドキュメンタリーを授業で見せている場面もあろうかと察しています。私は20代の頃にドイツ・オーストリア語圏で暮らしていたので、番組がよく取り上げているナチスやユダヤ人問題に具体性があります。何しろヒトラーが入学を認められなかった美術アカデミーに私は在籍していたし、映像に背景として登場する街並みは私の生活の一部でした。ただし、映像はモノクロが多く、過去の私の生活と多少乖離した感じも持ちますが、ヨーロッパの街並みが戦争や暴動で破壊されても、昔の様式を忠実に修復再生していることで、私自身の過去に連れ戻される錯覚を持ちます。日本にいると不安定な情勢もピンとこないまま暮らしていますが、国際情勢は常に動いていて、歴史が繰り返される場面が映像を通して伝わってきます。皆が平和を願っているのに、不都合なことが罷り通る状況は一体どうなっているのでしょうか。
2024.10.28 Monday
「抽象芸術」(マルセル・ブリヨン著 瀧口修造・大岡信・東野芳明 訳 紀伊國屋書店)の「Ⅴ 抽象絵画の主流 」の文中に出てくる多くの芸術家を今回も3人取り上げます。まずエステーヴ。「エステーヴのタブローでは、映像の心的投影と感覚の運動とのあいだに、稀にみるほど強靭な造形上の大きな統合が組織されている。この組織化は、ただ形態と色彩の構築が、固有の論理、固有の『理知』を課せられてゆくにしたがって、合理的になるだけであり、それは、理知的というより、はるかに感性的なものなのだ。なぜなら精神紀以上、その都度肉体化に新しい形態を与えるために、またこの洞察と、人間と世界との深の役割は、ここでは感覚の記憶を、いくつかの大きな図式に還元して、それを形態化するだけなのだから。時に幾何学的な様相を見せてはいるが、エステーヴの絵画は本質的に生命的なものである。」次にル・モアル。「タパや魔術的な描線に満ちたポリネシア芸術、高度に知的であり、その上じつに感動的な造形性を持ったポリネシア芸術が、ちょうど日本の版画が、印象主義者たちに、あるいはニグロ彫刻がキュビストたちに対して持ったと同じ役割をある世代の抽象画家たちに対して演じたといってもさしつかえない。ここでそれを詳述することはできないが、この親近関係は、きわめて啓示的である。しかし、ル・モアルを支えているものは、深い内面性、ある内向的な感覚であり、それは、この寡黙な秘められた芸術の主導線のように思われる。」最後にサンジェ。「サンジェのタブローは、宋代の中国絵画と同じくー同じ方法と理由によってー見るものの全存在が、肉体も魂も、タブローのもっとも内部の中心にまで歩みよることを要求する。作品を見るものは、このように、完全にそれに溶けこむまで、じっくりと忍耐づよく五官と心とをともに働かせ、浸透させ、統合させ、混淆させる。この融合こそ、凝視の目標なのだ。最後に人は、自分が見る対象になりきってしまい、それに自分自身のなかの最良のもの、もっとも生き生きとした活発なものを与えるのである。」本書に登場する画家は、私の浅学のために作品を知らず、画家をネットで調べた後に、その画家の文章のどこを切り取るべきか考えながらNOTE(ブログ)を書いています。日本では未だ定着していない欧州の画家が多いことが分かりました。