Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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  • 映画「SHOGUN 将軍」雑感
    アメリカで栄誉あるエミー賞作品賞を含む最多18冠に輝いた「SHOGUN 将軍」。発表があった日に、私はこの映像作品が見たくなって、ディズニープラスに入会しようと思いましたが、きっとどこかの映画館で取り上げるのではないかと期待していました。上映期間が短いので今日は時間をとって、横浜駅近くの映画館に家内と出かけてきました。海外の映画が日本のことを描くと何か違和感があり、外国人から見た日本の輪郭では、彼らが変な解釈をしていて居心地が悪いものでした。私が40年も前にウィーンに暮らしていた時も、妙な質問に少なからず辟易していた自分がいました。ましてや時代劇、サムライに憧れる外国人観光客が増えている今だからこそ、リアルを見せつけた本作品の価値はあると思っています。まずは主演兼プロデューサーとして牽引した俳優真田広之氏の功績を称えたいし、ハリウッドが本気で時代考証を行ない、しかも本物志向を目ざすと、こんなにも素晴らしい映像美が出来上がるのかと思いました。役者のほとんどが日本人、しかも堂々とした台詞運び、鬼気迫る演技に思わず吸い込まれました。これはアメリカ映画なので、日本語の台詞には英文字幕がつくので、それでも東西の壁を乗り越えてリアルを追求したいスタッフたちの思いに頭が下がります。日本では時代劇は定番化した退屈さで人気が下がる一方でしたが、こうした映像が作られたことで、日本での時代劇人気にも一石投じたのではないでしょうか。真田氏の言葉に「これまで時代劇を継承し支えてくださった全ての方々へ心より御礼申し上げます。」と受賞の挨拶が私の記憶に残っていますが、過日観に行った「侍タイムスリッパー」も時代劇の新しい在り方を狙った作品だったのではないでしょうか。「SHOGUN 将軍」はやはり本格派時代劇なので、海外の資本と手を組んで、こうしたドラマティックな世界がまた生まれてくれることを私は望んでいます。
    「世紀末芸術」を読み始める
    「世紀末芸術」(高階秀爾著 筑摩書房)を読み始めました。昨日書いた谷川俊太郎氏の逝去記事で、享年92歳とありましたが、美術評論家高階秀爾氏も先月92歳で亡くなっています。私にとって2人の巨星が同じ92歳で逝去しているのです。世紀末芸術の産物は、20代の頃、ウィーンで暮らしていた自分に街全体に散りばめられていた装飾や商品が、その流麗な美を謳っているような気がして、その自然物からデフォルメされたデザインが好きになったのでした。NOTE(ブログ)でも折に触れて、その時代の潮流を取り上げていますが、私が10代後半の頃、西洋美術を高階秀爾著による論文で理解したように、今回も改めて世紀末芸術をさまざまな観点から学び直そうと思い、同著者による本書を手にしたのでした。自分が興味本位でNOTE(ブログ)にした記事は、散らかったオモチャ箱のようで、一度きちんと整理する必要を迫られていました。まさに世紀末芸術とは何か、西洋美術史のなかでの位置付けも含めて、自分の中で論理だてて理解したいと思います。「本書は、1961年に行ったその講義(東大教養学部)を骨子とし、その後の新しい研究なども参照しながら、一般の読者のために肉づけを施したものである。それはあくまでも現代芸術の出発点としての世紀末芸術の本質を解明しようとした試みであって、世紀末芸術の歴史ではない。しかし、この時代の重要な美術史上の事件は、それぞれの場所において指摘されているはずである。」プロローグの文章の中から一部を抜粋しましたが、実際にこの論文が書かれたのは1960年代であり、今から60年も前になります。私が高校生の頃には世紀末芸術なぞ知る由もなかったのですが、それらしい資料を見ていた高校生の私に、世紀末芸術は駄目な芸術運動だと忠告する指導者もいました。当時の日本は猛々しい現代美術が幅を利かせていて、退廃の香りのする芸術を認めなかった人がいたのも事実です。当時の私もそんなものかと思っていましたが、1980年代に私はウィーンに渡ることになり、世紀末芸術に囲まれて暮らすようになったのでした。そこで改めて知った世紀末芸術でしたが、各芸術家の伝記や評論は読んでいたものの、総体として世紀末芸術を捉えるのは初めての試みかもしれません。じっくり読んでいこうと思っています。
    詩人の逝去を惜しむ
    17日付の朝日新聞に「感謝」という詩が掲載されました。「目が覚める  庭の紅葉が見える  昨日を思い出す  まだ生きてるんだ  今日は昨日のつづき  だけでいいと思う  何かをする気はない  どこも痛くない  痒くもないのに感謝  いったい誰に?  神に? 世界に? 宇宙に? 分からないが  感謝の念だけは残る」老齢の境地を受け入れた自然なコトバに、私はふと気を留めました。詩人谷川俊太郎氏が13日に逝去されたニュースが飛び込んできました。享年92歳。亡くなった後に新聞に掲載されたのが、この「感謝」という詩だったのでしょうか。谷川俊太郎氏の文筆活動は多彩にわたり、多くの人に支持されてきました。私も谷川ワールドが大好きで、自宅の書棚にも多くの著書があります。以前のNOTE(ブログ)に書きましたが、私が高校1年生の現代文の授業に登場した谷川俊太郎氏のひらがなの詩によって、簡単なコトバで語られる深淵な世界を知ることになり、それが創作とは何かを自分に問いかける第一歩になったと思っています。私は彫刻によって創作活動を行っていますが、創作について考えるようになったのは美術の分野ではなく、最初は詩によって導かれたと振り返っています。美術では大学受験のためにデッサンを描いたり、入学後も人体塑造を繰り返しやっていたので、習作期間は創作とは縁のない世界だったのでした。漸く創作について考えるようになったのは海外でじっくり自分と向き合っていた時でした。その後、自分の創作への原点を思い、数々の谷川俊太郎詩集を手に入れましたが、私にはコトバのセンスが足りないこともあって、詩を書くことは諦めていました。造形美術なら比較的容易に詩的イメージを具現化できたので、自分は彫刻でやっていこうと決めました。彫刻にも表面には現れない深淵な世界を内在することもでき、陶土でできた在りのままの形態であっても、自分があれやこれや考えている思考を奥に仕舞い込むことは可能です。それを誰かに分かってもらおうとする意図はなく、まったくの自己満足に過ぎません。詩人の逝去を惜しみつつ、今日はこんなことを考えました。
    新聞記事より「最後の筆の置き時」
    先日の朝日新聞「折々のことば」より、記事内容を取り上げます。「とっくにいいときは過ぎていたり、いいと思って置いた筆がまだ描き足りなかったりする。猪熊弦一郎」この言葉に著者の鷲田精一氏がコメントを寄せています。「絵を描いていてとくに難しいのは『最後の筆の置き時』だと、マチスからじかに教えを受けた画家は言う。絵はたしかに描き込みが過ぎると色は濁り、画面が縺れてくる。絵としてのまとまりにばかり目が行って、『物を見る目の敬虔さ』と『物に対しての深い親しみと謙虚な心』を失くしてしまうのだろう。『マチスのみかた』から。」作品を作る者にとって、これは最大に難しいところで、どんなに制作慣れしていても、毎回異なる「筆の置き時」があるのです。個展に出したところで、あそこをこうすれば良かった、いや、待てよ、もっと根本から作り直した方がいいのではないか、そんなことは毎年個展の搬入が終わった時にやってきます。また作り過ぎもあり、制作途中の段階の方が良かったと後悔することも度々あります。彫刻はすぐに直せるものではないので、諦めの境地になるし、ましてやそこに焼成という段階があるので、絶望感にも苛まれます。どうしてそうなるのか、それは芸術作品が感性によって最終決定をしていくために、人は気にならなくても、作った本人は気にしているからです。大学時代に自分の塑造作品は客観視できないものの、友達の作品はよく見えていて、そこで終わらせたらいいのに、と思ったことは暫しありました。制作中の友達の懸命な顔を見ていると、余計なアドバイスは止めようと思ったのでした。ここに自ら気がつけば一丁前なのかもしれませんが、何十年やっても、自作の客観視は出来ないままです。多少視野が広くなって、遠くまで見渡せるようになりましたが、自分の生真面目な性格もあり、「最後の筆の置き時」を冷静に見られない自分がいます。
    週末 土の存在感を思う
    日曜日になりました。日曜日は創作活動について述べていきます。私が40年以上も扱っている素材は土で、土から離れて木彫や石彫をやっていた時期はありません。一時的に木彫をやっていたことがありましたが、再び土に戻っています。大学に入る前に小・中・高の授業で触っていた土と、彫刻と言う専門の勉強の中で扱う土はまるで違っていました。まず大学では回転台の上に心棒のついた土台をのせて、針金や棕櫚縄、小割などで人体塑造の心棒を作ります。そこに粘土を貼り付けていきますが、可塑性のある粘土は空間にデッサンをするには優れた素材です。最初に塑造を体験した時は、粘土を愛おしむような扱いはなく、ひとつの素材として人体を正確に把握するための道具でした。私の中で粘土に対して気持ちが変わってきたのは、塑造された人体を石膏で雌型を取り、そこに別の石膏を流し込んで、保存のきく石膏像に換えた時でした。大学では暫くこの方法で作品を保存していましたが、粘土は粘土、石膏は石膏と別の表現になってしまうことに嫌気がさしていました。それが樹脂になってもブロンズになっても同じではないかと思っていました。粘土を固めて保存することはできないか、これが粘土を陶土に換えた理由です。塑造した作品は乾燥させて、窯に入れる、そこから自分独自の表現を求めた旅が始まったのでした。器などを轆轤でひく陶芸と違って、陶彫は焼成との闘いでした。焼成があるからこそ制作工程が存在し、タタラと紐作りの併用を思いつき、内側をがらんどうにするからこそ、つぶれないように重力のことを考える、つまり常日頃から放置できない状況になっているのです。それでも窯から出た時の陶彫の存在感は、私にとって格別です。陶土は焼成によって石化するので、その変貌が嬉しくて今まで付き合ってきていると言っても過言ではありません。