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  • 「抽象絵画の主流 」について⑮
    「抽象芸術」(マルセル・ブリヨン著 瀧口修造・大岡信・東野芳明 訳 紀伊國屋書店)の「Ⅴ 抽象絵画の主流 」の文中に出てくる多くの芸術家を今回も3人取り上げます。「(ジャン)デイロールがはじめてキュビスムと袂を分ったとき、それは対象との完全な決別を意味したが、またそのためにモンドリアンの幾何学主義に復帰せずに、具象的な関係そのものを洗い落した形態を使って再構成するという必然性を意味していた。この画家がつくりあげた新しい形態は、柔軟であると同時に峻厳なものでなければならなかった。そして、この柔軟と峻厳の交錯こそ、また繊細さと感受性にもモニュメンタルな方向にもつながるこのたしかな力そのもののためにこそ、われわれがデイロールの芸術を愛するのである。」次にニコルスン。「30年来、かれ(ベン・ニコルスン)の絵画そのものは、形態の領域においても、色彩の領域においても、隔絶と剥奪に向かおうと努めている。そこにみられるのは、モンドリアンのそれに比すべき禁欲主義だ。規制された幾何学的な形態はますます単純になり、ますますひかえ目な関係で連結され、パレットの上の色調は希薄になって、華麗な色彩のかわりに、微妙な繊細さの白と灰色が現われてくる。これは一面、ウィッスラーとのひそかな親近性を思わせる。事実、その影響はかれの幼年時代にあった。というのは、かれの父がこの画家流の描き方をしていたからである。」最後にヴァザルリー。「(ヴィクトル)ヴァザルリーは、空間的な問題に没頭して、開かれた形態の方向に探究をつづける。これはいうまでもなく、透視法の形態とはなんら関係がないもので、単にまず距離の錯覚を起こさせないタブローの飾りに三次元を利用する、もっと賢いやり方である。そこに、もとの二次元性に一応準じて平面を排列することで、多種多様な空間の一種の投影が生ずる。したがって、ヴァザルリーの最近の仕事の傾向は、錯覚的な空間の介入をつねにさけるために、現実の空間を組み入れることにある。」今回はここまでにします。
    週末 埴輪の魅力再び
    日曜日になり、創作活動のことについて書いていきます。私は陶彫による作品を作っているので、上野の東京国立博物館で見てきた「特別展 はにわ」を扱った新聞記事に、つい目が留まってしまうのです。一昨日の朝日新聞「天声人語」にこんな文章がありました。「だれもが知るように、埴輪の表情はどれもやさしげで、あたたかい。どうしてだろう。『古墳時代は、平和だったのでしょう。穏やかな表現が許される、自由度の高い社会だったのでは』。主任研究員の河野正則さんが教えてくれた。なるほど、人々が戦いに明け暮れているような時代には、大きな古墳や埴輪はつくれないか。馬をひく人、踊る人、ひざまずく人、相撲をとる人…。じつに多様な埴輪があることに驚く。鹿や猿といった動物もいる。なぜつくられたのか。どうして踊るのか。幾多の疑問が浮かぶ。文字の記録がないため、分からないことは多い。にっこり笑う埴輪がいる理由も、豊作の喜びか、魔よけの意味か、諸説ある。真実を知っているのはいまや当の埴輪だけか。そう思うと、どこか少し愉快になる。」埴輪の素朴な美しさは、その実物を見て私は胸中に何かがストンと落ちるように実感しました。芸術とか創作という概念がない時代に、国主の墓室に供えるために埴輪は、その埋葬品として人間や家畜、動物を模して作られたものなのか。または家や船を模したものなど実にバリエーションが豊富で、その制作の意図は謎に包まれたままというのが、埴輪の魅力を一層高めていると私は感じます。大陸から仏教が伝来すると、古墳や埴輪が作られなくなっていったのも、信仰の変遷によるものと言えそうで、それなら仏教伝来以前はどんな社会が営まれていたのか、どこまでも興味関心は尽きません。現代の視点からすると、私のような者には埴輪を造形美術として味わってしまう傾向があり、埴輪製作集団によって表現の巧拙を競うような場面があったのだろうかと勝手な想像をしてしまうのです。これも勝手な憶測ですが、諸外国の古代遺産と較べると、わが国の古代遺産には埴輪を代表とする可愛い要素があって、それが現代のゆるキャラに受け継がれていると言ったら飛躍しすぎでしょうか。日本の可愛い文化は遥か祖先の遺伝子によるものかなぁと楽しい空想もしています。
    週末 昔の芸能に思い馳せた1週間
    週末になりました。今週の振り返りを行ないます。今週も相変わらず朝9時から夕方3時過ぎまで工房で陶彫制作に明け暮れていました。水曜日の夕方に窯入れを行ない、窯以外のブレーカーを落としました。そのため木曜日は窯の温度確認をしただけで、工房での作業は出来ませんでした。木曜日は東京と横浜の美術館・博物館に出かけました。東京赤坂のサントリー美術館では「英一蝶」展を見ましたが、英一蝶は絵師だけではなく、幇間(太鼓持ち)をやっていて、それが罪を犯すきっかけになって幕府の逆鱗に触れ、島流しになりました。絵ではなく芸能によって一時的に身を滅ぼしたのでしたが、その後江戸に舞い戻って絵師として名声を得ました。なかなか英一蝶は波乱万丈な人生を送ったのではないでしょうか。その日、私は東京から横浜へ移動し、神奈川県立歴史博物館で開催している「仮面絢爛」展に行ってきました。同館には昔行った記憶があり、建物自体もドーム屋根のあるネオ・バロック様式で堂々とした外観を持っています。「仮面絢爛」展は、仮面の歴史的背景を謳った展示で、武家社会を物語る芸能がクローズアップされていました。ここでも芸能に注目しました。まるで異なるニュアンスを持つ2つの展覧会でしたが、「英一蝶」展は江戸時代の芸能、「仮面絢爛」展は鎌倉時代の芸能に着目したことで、昔の芸能が共通項になり、私の中で繋がってしまいました。この日は造形美術とは違う観点があって、自分なりに興味関心が持てたことが幸いでした。前にNOTE(ブログ)に書いたことですが、1週間が経つのが早く、週末があっという間にやってきます。教職に就いていた頃は、週末を心待ちにしていた記憶がありますが、今は何という早さで週末がやってくるのか、とても教職員の頃とは同じ時間を生きている感じがしません。彫刻家一本になった途端に、生涯が短く感じられると先輩諸氏に言われたことがありますが、成程と深く頷いている自分がいます。止まれ、時間よ。自分には考えたいことが山ほどあるというのに…。
    横浜の「仮面絢爛」展
    昨日、東京赤坂のサントリー美術館で「英一蝶」展を見た後で、横浜の馬車道駅まで足を延ばし、神奈川県立歴史博物館で開催している「仮面絢爛」展を見てきました。ちょうど東横線・みなとみらい線一本で東京から移動できたので、都合が良かったのですが、古代から伝わる仮面に、私は昔から興味を持っていました。本展は美術的な鑑賞というより、武家に伝承されてきた仮面をその背景とともに提示しているもので、学術的要素が強いように思いました。図録に望月館長の挨拶文がありました。「本展では、神奈川、鎌倉と深く関わる仮面や、中世の武士たちが邂逅し、親しんだ仮面の数々を集めることで、単に造形や機能だけではなく、仮面の背後にある地域に息づく豊饒な音楽文化の存在を発見し、またその文化を利用しながら地域を支配しようとした領主たる武士たちの姿を捉えたい…」とある通り、現存する仮面に舞楽面と菩薩面があり、当時の音楽や舞いとともに仮面はさまざまな儀式に使われていた空気感を纏っていました。これは実際の古典芸能を見てみないと分からないところもありますが、人間の顔を誇張し、あるものは鬼の形相に見立て、演じる立場も仮面によって観者に知らしめるのは非日常空間としての宗教や政治にも役立てていたのだろうと思いました。図録にこんな文章がありました。「一般的に仮面の展覧会とは、仮面を身につける人と場ーつまり変身ともどきにより創造された異空間ーに焦点が当てられ、仮面の造形や意匠、その機能が紹介されるのではないだろうか。かかる他の展覧会と比較すれば、本展は”仮面”を題材としつつも、それらの背後にある”音”と”音楽”を定位にしようと試みた。やや趣を異にした内容かもしれない。」(渡邊浩貴著)私は展覧会場に入った途端、仮面だけではなく、その背後にある文化伝承の検証に気づきました。確かに仮面は単なる美術的な面白みだけではない要素が満載で、民俗学の視点からすれば、地域芸能、つまり音楽発祥に付随する産物としての研究対象になるものだからです。とは言っても私は仮面に造形的な面白みを見いだして、自分の創作活動の活性化を図る者です。学問とは別の観点から、カタチの誇張された際どい造形に楽しさを感じました。
    赤坂の「英一蝶」展
    英一蝶(はなぶさいっちょう)という日本画家を私はよく知らず、テレビ番組でその人物像や画風を知りました。東京赤坂のサントリー美術館で開催されている「英一蝶」展に行こうかどうしようか迷っていたら、閉幕近くになってしまい、慌てて同展に出かけていった次第です。英一蝶は主に元禄年間に活躍した絵師でした。出目は狩野派で、筆さばきが巧みだったことが作品を見て理解できました。街の風俗を得意としていたようで、私は「雨宿り図」が愉快で、作品の前に長く立ち止まっていました。人物像は単に絵師ではなく、幇間(ほうかん)もやっていたようで、これは所謂太鼓持ちの芸人です。図録によるとこんなエピソードが語られていました。「もうひとつの一蝶の顔が幇間(太鼓持ち)である。40代の初め頃は名代の幇間として大仏師民部、医者の息子村田半兵衛とともに、貴顕の家に出入りし、諸侯浪費を促すものとして、幕閣上層部からにらまれるまでになっていた。そして、将軍綱吉の生母桂昌院の甥、本庄資俊に取り入り、茗荷屋の遊女大蔵を900両で身請けさせ、100両を祝儀としてばらまかせるに及び、当時流行の生類憐みの令を風刺した浮説『馬の物言う』の流言にかかわったとして逮捕された。~略~また、桂昌院の縁につながる六角広治に菱屋の小わたを身請けさせるに及び、元禄11年(1698)再び入牢となり、一蝶は三宅島へ、民部、半兵衛は八丈島へ流罪となった。」(安村敏信著)その後、将軍代替の大赦によって、一蝶は江戸に戻ってきますが、島では絵師として代表作を描いていて、また江戸に戻った58歳から73歳で没するまで旺盛な制作を開始して、画名が広がったようです。浮世を写した巧みな作品の数々とその生命力の逞しさに私は驚きますが、犯罪者としてのエピソードは、その犯罪の状況こそ違えど、西洋宗教画家カラヴァッジョの生涯が私の脳裏を過りました。画才は人間性を問わず、その人に備わっているもので、後世に作品を残さなければ、単なる犯罪者で終わるところを、美の女神は人を選ばず、その人に使命を与えるものなんだなぁと改めて思った次第です。