Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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  • 先祖を思う夏
    先日父が亡くなり、墓地を移転する計画が持ち上がりました。我が家の墓地は地方に行くとよく見られるような田畑の一角にある本家.分家の小さな墓地です。今では「こども自然公園」に行く道端になって区画もはっきりしないままです。そこで菩提寺である浄性院に墓地を移そうと言うことになり、墓碑も新しくすることにしました。昨日は移転するため魂抜きを行い、墓地を掘り起こしました。祖父以前は土葬でしたので、かなり気が滅入ることになりはしまいかと思いを巡らせましたが、墓堀り職人の手際の良さもあって、あっさりと終わりました。相原の一代目は市五郎という人で分家をして田畑を耕し、二代目の銀蔵は近隣では有名な大工だったようです。三代目の鶴松も大工の棟梁、四代目の市太郎は造園業、これが父なので自分は五代目になります。いずれも勤勉な先祖だったようで、貧しい小作人から出発し、やがては屋敷を構えるようになったと亡き祖母からよく聞かされました。自分はといえば芸術に現を抜かし、どうも先祖に顔向けできないナマケモノになっているようです。先祖はあの世で相原家の行く末を心配しているでしょうか。
    彫刻を学び始めた頃,その後
    今読んでいる本は保田龍門遺稿「自画裸像」です。大学で彫刻を学び始めた頃、同大にいられた保田春彦先生にご挨拶すらできなかった理由は、先生の御尊父が保田龍門で、父子ともに自分にとってみれば雲上の人に思えたからです。自分が彫刻に目覚めたきっかけになった人は荻原守衛です。守衛と同じ志をもった保田龍門の作品にもすごい気骨があって真摯なものを感じていました。遺稿を読むと、その時感じたものが間違っていなかったと思います。貧困の中で美を享受できる喜び、造詣の深さ、その精神性において自分の姿勢が足元にも及ばないことを痛感しています。春彦先生にも堅固な造形があって、やはり近づき難い存在です。当時、そんな精神性を持ちつつ自由な発想と楽しさに溢れる作品を発表していた師匠を自分は選びました。それが池田宗弘先生です。池田先生は保田先生に負けず劣らず難しい気性の持ち主ですが(すみません)、自分にない軽やかな発想と頑固な姿勢が大変気に入って、この先生について徹底的に学ぼうとしたことを思い出しています。
    彫刻を学び始めた頃
    昨晩ブログを書いた後、ここで自己を語ってみたくなりました。まず彫刻との最初の出会いを思い出すことにしました。たしか高校生の頃は建築か工業デザインをやりたいと思っていました。高3からデザインの勉強を始めたのですが、成り行きで大学は彫刻科に入ったのが彫刻との最初の出会いです。巨匠に心酔した訳ではなく、むしろ初めは人体の塑造に馴染めず、それならいっそプロの作品を見ようと上野の都美術館に行きました。彫刻室に並べられている作品群では巧みな表面処理に心が奪われました。自分はこんなふうに作れないと思ったものでした。たどたどしい自分の塑造が嫌になりました。でも飽くことなく続けていて、再度上野に行ってみたら、今度はあまり感動もなく異様な感覚を持ったことを覚えています。そんな時、心を奪われたのが荻原守衛や中原悌二郎でした。技巧ではなく生命そのものが漲っている塑造。「ロダンの言葉」を読み、守衛の「彫刻真髄」を読みました。彫刻科の友人と穂高の碌山美術館にも足を運びました。そんなこともあってようやく彫塑が楽しくなってきたのを思い出しています。
    人前で自己を語れず
    大勢の前で講義をしている仕事にもかかわらず、自分のことを語るのは苦手です。羞恥心が邪魔して思う通りにはいきません。ましてや作品のことなどまったく論外で、横浜市の某研究会で依頼された時は言下にお断りいたしました。自分が研究している自分以外の対象がある場合は、何故か容易です。仕事口調にもなって調子よく時間までも微調整できるほどです。自分の作品は自分の恥部をさらすようなものなのでしょうか。でも不思議なことにこうしてブログを書いていると、ほとんど自分のことばかりになってしまいます。これが読まれることを念頭において書いているにもかかわらず、恥らう心が無くなります。携帯電話のメールも同じ効果があるのかもしれません。昨今、人との付き合い方に変化が見られる原因でしょう。希薄な人間関係を嘆きつつ、こうした媒体を利用して本音を語る自分が情けない気がします。
    鑿を振るう
    木材に鋸をあてながら丸鑿を振るい、余分な木屑を落とします。単純で健康的な作業です。やっとたどり着いた工程です。イメージし、デッサンし、雛型を作っては試作を繰り返し、なんとか実寸で作り始められたと言ったところでしょうか。でも本当は気が急いて、少しずつ部品を作っていたのですが、本格的にはこれから始まる感じです。いつもいつも鑿を握っている訳ではないので、作り始めは調子に乗らず腕も手も痛みます。しだいに乗ってくると、他のことが煩わしくなります。創作とは不思議なもので片手間では出来ません。視野が急激に狭くなり、人との関わりが嫌になってきます。その代わり心の視野が広がります。全身全霊というコトバがぴったりです。自分のとってこれが比類ない幸せなのかもしれません。