2023.01.29 Sunday
週末になると創作活動についてNOTE(ブログ)を書いています。今回は彫刻の素材について述べていきます。アートの広域な範囲の中で、彫刻に表現を限定すれば、彫刻表現の独自性には素材に対する理解が欠かせません。立体的な造形物を作ろうとした時に、イメージを優先するか否かで制作方法が変わります。それは素材がもつ特徴でもあり、たとえば木材や石材のように自然の産物であれば、頭の中のイメージを優先したところで、そのような素材の入手ができない場合があります。木彫家や石彫家はまず目の前にある素材を見つめて、そこに内蔵されたカタチを掴むところから制作を始めていきます。自然によって育まれた産物の声に耳を傾け、その素材と対話するように彫り込んでいくのが一般的な制作方法です。それに比べて土は自然の産物でありながら、可塑性のある素材のために、イメージを優先する制作方法が可能です。その土であっても、石膏取りをしたり、鋳造をしたりする従来の保存方法もあれば、プラスチックや合成樹脂で型取りする方法もあり、土の粒子によっても微細な造形が可能です。私の表現方法は土の焼成です。それは古来から日常使う器としての陶芸史があるのですが、焼き物が彫刻として認識されたのは、1948年に京都で結成された「走泥社」の活動が最初のようです。つまり現段階では陶彫の歴史は新しいと言えます。ところが縄文時代の土偶などを彫刻と認めれば、陶彫の辿った道は古代から続いていて、古代との繋がりをイメージすればなかなか面白いものになるだろうと私は感じています。そうした出土品のような現代彫刻をやってみようと試みているのが、私の「発掘シリーズ」です。そんなことを考えながら、今日は工房で陶土に触れていました。縄文人も同じような作り方をしているんだよなぁと思いつつ…。
2023.01.28 Saturday
週末になりました。今週の制作状況を書いていきます。今週は記録的な寒波が日本列島に襲来し、とりわけ日本海側の地域は大変な寒さに見舞われました。私の住む横浜では積雪の被害はなかったのが幸いでしたが、それでも工房の室温が3度という、身体が凍えるような体験をしました。毎日制作をしていても、陶土を扱っているせいか、手が悴んで指先の神経が麻痺してくるようでした。少し作業をしてはストーブで手を温めていて、制作工程が滞りました。工房は外壁で蔽われているだけなので、外気とたいして変わらない気温の中で過ごさなければならず、それは真夏も同じで、創作活動をするにあたって環境の厳しさに物怖じしないのは、昔から敢えて私がやってきている習慣なのです。身体に応える中で緊張感をもって創作活動をすれば、何か魂の込められたモノができると、妙なことを信じているのです。ともかく今週は寒さとの闘いでした。陶彫制作は変わりばえのしない作業ですが、毎日同じ時間帯に作業をしているという労働の蓄積が私には快いのです。寡黙な制作は私自身が願っている作業です。今週は窯入れも窯出しもしましたが、木曜日の午後は映画鑑賞に出かけました。インド映画「RRR」を観て元気をもらいました。これはネットの情報で知った映画でしたが、徹底した娯楽映画で、辻褄の合わない設定でも出演者のパワーで乗り切ってしまう破天荒さがありました。寒い日が続くときはこうしたエンターテイメントがいいのかもしれません。
2023.01.27 Friday
「シュルレアリスム宣言・溶ける魚」(アンドレ・ブルトン著 巖谷國士訳 岩波書店)の「溶ける魚」の1から4までの単元の中で、気に留めた詩文をピックアップいたします。まず単元1の冒頭です。「公園はその時刻、魔法の泉の上にブロンドの両手をひろげていた。意味のない城がひとつ、地表をうろついていた。神のそば近く、その城のノートは、影法師と羽毛のアイリスをえがくデッサンのところでひらかれていた。」「この14世紀の城の窓辺で、ひとりの女が歌っている。彼女の夢のなかには黒い胡桃の木々がある。だれなのかまだわからない、なぜなら、あの幽霊はあたりに上天気をつくりすぎているからだ。とつぜん夜がやってきて、まるで大きな薔薇窓の花模様が頭上でくつがえったかのようだ。」「時をへたいまでは、もうはっきりと見えてこない、これはちょうど、私の生の劇場と私自身とのあいだに、ひとつの滝がかかっているかのようで、しかも、私はその劇場の立役者ではない。なにやらいとおしい羽音が私につきまとっていて、道すがらの草はみな黄ばんでしまう、そればかりか、折れくちてしまう。」単元2に進みます。「Aに行こうか、Bに引きかえそうか、Xで乗りかえようか?そうです、もちろんXで乗りかえよう。倦怠との連絡に遅れなければいいのだが!さあついた、倦怠だ、美しい平行線の数々だ、ああ!これらの平行線は、神の垂直線の下で、なんと美しいことだろう。」単元3に進みます。「この昆虫のぶんぶんうなる羽音は、肺鬱血かなにかのようにがまんのならないもので、そのとき、とんぼをポールの先につけた路面電車の騒音をかきけすほどだった。雀蜂はおそらく皮肉まじりの驚きをあらわそうとしたのだろう、まじまじと私を見つめてから、こんどは近よってきて、耳もとでこういった、『また来るわね』と。」単元4に進みます。「鳥たちは色彩を失ってから形を失う。それらはいかにも実のない蜘蛛の巣のような存在になっているので、私は手袋を遠くへ投げる。黒いステッチのある私の黄いろい手袋は、くずれかけた鐘楼に見おろされた平原の上におちる。」今回は以上になりますが、シュルレアリスムの自動記述で書かれたものでも、決して支離滅裂な語彙の寄せ集めではなく、ブルトンのイメージするものに裏打ちされたものになっているような気がしています。
2023.01.26 Thursday
今日の午前中は陶彫制作を行い、午後は家内を誘って映画を観に出かけました。横浜駅近くのエンターテイメント系の映画館で観たのは、インド映画「RRR」でした。「RRR」とは英語で蜂起(Rise)、咆哮(Roar)、反乱(Revolt)の意味らしいのですが、インドでは「怒り」、「戦争」、「血」を意味するRの入ったそれぞれの単語を用いているようです。これは3時間に及ぶ超大作の痛快娯楽映画で、アクションあり、ダンスありのパワフルな映像に溢れていました。物語は1920年代のイギリス植民地時代のインドで、支配者として振る舞うイギリス人たちの政策に、民衆の怒りが沸点に達し、反英運動が燃え上がっていた時代背景があります。そこに2人の英雄が登場してきます。一人は総督に妹を攫われたゴーンド族のリーダーで、妹の奪還に向かいます。もう一人はインド人ですが、英国の警察官として勇敢な働きをしても認められない男で、そんな彼にも過去があり、反英闘争に勝利したい意志に貫かれているのです。2人は素性を知らないまま、爆破事故に巻き込まれた少年を助けたことで、意気投合し、固い友情で結ばれていきます。やがてお互いの素性が分かり、2人の間に諍いが生じますが、物語が二転三転して、2人の目的が反政府運動に収斂し、イギリスの支配を終わらせるという大きな流れに向かっていきます。本作のストーリー仕立てはとても単純で、分かりやすい展開になっていますが、インド映画の独特な特徴は、怒りや復讐に対し、まっすぐに突き進み、しつこいくらいに徹底的に相手を懲らしめて、大団円を迎えるという明快で圧倒的なパワーです。観ている私たちはエネルギーを注入されるような思いで、ストレスを発散するのと同時に、心が活性化されるような気がします。そのひとつがキレのよいダンスで、その動きに思わず見惚れてしまいます。見終わった後、家内は「たまにはこういうのもいいよね」と言っていました。
2023.01.25 Wednesday
「シュルレアリスム宣言・溶ける魚」(アンドレ・ブルトン著 巖谷國士訳 岩波書店)の「溶ける魚」を読み始めました。書籍の前半に掲載されていた「シュルレアリスム宣言」によると、「溶ける魚」はシュルレアリスム言語として自動記述によって書かれた文学作品であることが分かっています。頁を捲ると溢れるばかりの詩的言語で綴られていて、「溶ける魚」の1から32まである単元の主旨をそれぞれまとめることは不可能だろうと感じました。自分なりに気に留めた箇所の引用をしていこうと思います。こうした引用が愈々自分の常套手段になりつつありますが、今回ばかりは詩的発想をどう扱うかを考えた結果、引用しかないと思っています。私は「溶ける魚」という題名をどこかで聞いた気がして、いろいろ自分の記憶を探っていたところ、自宅の書棚を見て、漸く思い出しました。学生の頃、愛読していた「思考する魚」(池田満寿夫著 番町書房)からきていたのでした。「シュルレアリスム宣言」の中にこんな記述があります。「溶ける魚といえば、私こそがその溶ける魚なのではないか、げんに私は〈双魚宮〉の星のもとに生まれているし、人間は自分の思考のなかで溶けるものなのだ!シュルレアリスムの動物界と植物界は、おいそれと打ちあけられないものである。」一方、「思考する魚」にも題名を決める対話の中で「そうだいっそのこと『思考する魚』ってのはどうだろう?”考える葦”というのもあるけれど、『思考する魚』。うんこれだ。これでいこう。ブルトンの詩集かなんかにありそうな題だが、あれはたしか『溶ける魚』だったネ。あるいはクレーの画題にもありそうだ。」という内容が掲載されていました。池田満寿夫もブルトンと同じ魚座だそうで、そうしたことが題名に反映していることが分かりました。本書は1974年11月に初版が出ていますが、私の手元にはその初版本があります。版画家として名声を確立していた著者は当時私たち美大生の憧れの的だったように記憶しています。