Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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  • 「溶ける魚」11~15について
    「シュルレアリスム宣言・溶ける魚」(アンドレ・ブルトン著 巖谷國士訳 岩波書店)の「溶ける魚」の11から15までの単元の中で、気に留めた詩文をピックアップいたします。まず単元11です。「この広場に面する窓また窓は、牛の眼とよばれるその丸いかたちからしても、また、服をぬいだままたえず気体化をくりかえす女たちのありさまからしても、輪切りにされたレモンに似ている。そんな女たちのひとりは、目にもあらわな下半身の貝殻たちの上にかがみこんでいる。」単元12に移ります。「すこぶる才能のあるその少年は、T教授ののぞみどおりのすばらしい証明役をはたしていたが、そのため抽象の意志ならぬ抽象のあらゆる可能性をうばわれてしまい、もっとも基本的な欲望すらも感じることができなくなっていた。」単元13に移ります。「いまも目をとじれば、長い行列をつくるひとびとのすがたが見える。娘は階段の五段目に腰をおろし、かたくなな権勢家たちにむかって、ここにあらわれてほしい、土地の野生の根っこたちにあたしを従わせてほしい、と懇願した。」単元14に移ります。「私の墓は、墓地が閉門されたあと、海をつきすすむ一隻の舟のかたちになる。ときおり夜のブラインドを通して、両手を上にあげたひとりの女が、空をゆく私の夢の船首像かなにかのようにあらわれるのをのぞけば、この船のなかにはだれもいない。」単元15に移ります。「カトリック式の暇つぶしは見すてられている。いつか鐘楼がトウモロコシの粒にもどれば、工場さえもおしまいになり、海の底はもはやかぎられた条件のもとでしか輝かないだろう。子どもたちはそのとき海のガラスを割り、城に近づくための標語を手に入れる。彼らは夜の見まわりの順番をやりすごし、すてるにはおよばないだろう記号を指でかぞえる。」私が気を留める詩文はイメージを掘り下げやすく、視覚的な要素があるように感じています。
    人類に贈る「超人」への夢
    表題は今日の朝日新聞に掲載されていた記事のタイトルです。ドイツの哲学者フリードリヒ・W・ニーチェの主著「ツァラトゥストラかく語りき」は嘗て私も読んだことのある書籍ですが、難し過ぎて途中で辟易してきたのを思い出しました。その中で「超人」と「永劫回帰」だけはどういうものか、何とか理解をしたつもりになっています。記事によると「難解極まるヘーゲルやカントの哲学書と異なり一般の読者でも十分読める。しかし、ニーチェ自身が非常に語りづらいことを語ろうとしており、その真意をつかむのは難しい。読む中で迷ったり頭を抱えたりする葛藤のプロセスを経験させることで、ニーチェは読者の凝り固まった思考そのものを変動させたかったのでは」(村井則夫さん談話)とありました。成程、それなら私も困惑して当たり前なんだと思いました。記事には本書の要約があったので引用いたします。「科学の発展や教会の権威失墜で、人々は神の存在を信じられなくなった(=神の死)。このままでは、不遇な者が成功者をねたみ引きずり落とす『ルサンチマン』や、逆に成功者が不遇な者を見下ろす『傲慢』という低級な快楽にふける『末人(最後の人間)』が世にあふれるだろう。彼らは生の核心にある創造への意欲や憧れ(=力への意志)を忘れ、他者との比較でしか自らの価値を実感できない。」これは虚無主義(ニヒリズム)と哲学では呼ばれているもので、そこから脱出するためにニーチェは「超人」やら「永劫回帰」という概念を持ち出したと私は理解しています。「だけど、忌まわしい過去から生まれた現在の私たちの営みが、まだ見ぬ未来に『超人』という、今の自分たちには想像もできないような美しく偉大な存在を生みだしたとすれば、それは私たち自身と忌まわしい過去を全肯定できることになる。」(佐々木中さん談話)ニーチェは私たち人類を肯定し、力強く励ましていると記事は結んでいました。私は「ツァラトゥストラかく語りき」を読んだ後の胸中の混乱を思い出しながら、それを分かり易くまとめてくれた新聞記事に感謝をしながら、ニーチェには論理の枝葉の部分にも心が捉えられた箇所があったことも思い出していました。
    2月も陶彫制作は継続予定
    2月になりました。教職との二束の草鞋生活の時は、その月は週末が何回あって、どこまで制作を進めていけるのか、目標を立ててその意気込みを発信していましたが、今となっては毎日が制作三昧なので、季節が移っても継続あるのみです。ただし、この寒さはまだ続くのかが気になるところで、春が待ち遠しいと感じています。工房は内壁がないため、冬は寒く、夏は暑い、という自然のままの気温なので、春や秋が創作活動には最も相応しい季節だと実感しています。陶土を扱っていると、身体には不快な梅雨の季節が、陶土の乾燥を考えるとちょうど良いと考えられ、陶彫至上主義で言えば湿度が高く、乾燥がゆっくり進む時期が最適ではないかと思っています。湿潤温暖な日本で陶芸が発展したのも頷ける理由かなぁと思います。陶土の罅割れは急な温度変化や乾燥によるものと自分は考えていますが、どうでしょうか。2月は寒さもさることながら乾燥が一番心配です。そうは言っても制作を先に進めないと、個展に間に合わない事態になるので、日々頑張るしかないのです。今月も美術館や映画館へ行って鑑賞をしてくる予定です。最近は演劇や音楽会には足が遠のいています。高校の同級生の竹中直人さんに自らが出演している芝居に誘われましたが、コロナ渦を理由に辞退してしまいました。現在映画監督をしているというので、映画には必ず行こうと思っています。読書は現在読んでいるシュルレアリスム関連の詩文を中心とした書籍を読み終えたら、次は多少論理的な書籍を読もうと思っています。詩文ばかり目を通していると私自身の感覚も苦しくなってくるのを今回は認識しました。詩人は詩を書き続けていくのが仕事ですが、それは私には尊敬に値するものです。勿論私のように造形をやり続けているのも同じですが、そうした特殊な分野に染まっていくことは自分の仕事を含めて、常軌を逸したことなのかもしれないと思うようになりました。私より何倍も遥か先まで専門を煮詰めている科学者も、その意欲が続く限り自らを追い込んでいくのだろうと思っています。今月も創作活動を頑張っていきます。
    凍えるような1月の終わり
    今日で1月が終わります。思い返すと10年に一度と言われた寒波が日本列島を襲い、凍えるような1ヶ月だったと実感しています。私の住む横浜は雪こそ降らなかったものの、工房の室温は3度になり、手が悴みました。私が扱っている彫刻素材は陶土なので、その冷たい感触にはなかなか慣れることができず、何度もストーブで手を温めながら制作をしていました。今年の新作は同じ大きさの立方体を数多く作っているので、作業が単調にならざるを得ないのですが、その分彫り込み加飾で作品ごとに個性をつけています。31日間ある1ヶ月のうち29日間は工房に行って制作をしていました。工房に行かなかった2日間は、初詣に出かけた元旦と、教え子にサポートしてもらってパソコンを購入して、その設定をした日でした。正月の親戚の集まりや鑑賞に出かけた美術館や映画館も、午前中は工房で制作をしていて、常に陶土に触れている時間を過ごしていました。今回の陶彫制作はゴールが見えず、日々不安に駆られながら制作をしていたのですが、決着がつかない状況もまた良いのではないかと、現状を受け入れる姿勢もあります。美術鑑賞では「京都・智積院の名宝」展(サントリー美術館)に行きました。映画鑑賞では「MAD GOD」(シネマ ジャック&ベティ)「RRR」(相鉄ムービル)に行ってきました。映画では2本とも娯楽に徹した作品を観てきましたが、寒波を吹き飛ばそうと思って観てきたのでした。読書ではシュルレアリスム関連の書籍を読んでいます。現在読んでいる「シュルレアリスム宣言・溶ける魚」は読むというより、感覚で味わうもので、夜になると語彙を追いながら意味するところを探っています。その描かれている世界がいかにも西欧的な雰囲気を感じ取れるので、若いころに住んでいたウィーンの街並みを思い出すことも暫しあります。来月の寒さは多少緩むのでしょうか。工房の周辺では梅が咲こうとしています。 
    「溶ける魚」5~10について
    「シュルレアリスム宣言・溶ける魚」(アンドレ・ブルトン著 巖谷國士訳 岩波書店)の「溶ける魚」の5から10までの単元の中で、気に留めた詩文をピックアップいたします。まず単元5です。「私のベッドから見えるのは、通りで心臓のように動悸をうっているホテルの巨大な常夜灯だけで、その動悸の一方には、中央の、という言葉が、もう一方には、寒さ、という言葉が書かれていたーといっても、ライオンほどの寒さか、あひるほどの寒さか、それとも赤ん坊ほどの寒さなのか?」単元6に移ります。「大地は私の足の下にくりひろげられる新聞にすぎない。ときたま写真が目にはいり、それはいくらか興味のあるものだし、花々はそろってその匂いを、印刷インクのいい匂いを立ちのぼらせている。若いころにきいた話では、熱いパンは病人にはがまんのならぬものだそうだが、それでもくりかえしいおう、花々は印刷インクをたてていると。」単元7に移ります。「私たちは芸術を、そのもっとも単純な表現、つまり愛に限定しよう。労働も限定したいところだが、いやはや、こちらはいったい何に?死によって報われるゆるやかな懲罰の音楽だろう。なんなら誕生に対しても、通りがかりの葬式に対して示すあのうわべだけのやりかたで挨拶しよう。」単元8に移ります。「薔薇の花のエプロンをしたどんな聖女が、石の血管のなかにこの神聖なエキスを流しこんだのだろうか?毎晩、乳房よりも美しい不可思議な鋳造物が新しい唇のためにひらかれ、渇きをいやす薔薇の血の効き目があたりの空いちめんにつたわってゆくあいだ、とある円型ベンチの上で幼い子どもがひとり、ふるえながらむなしく星をかぞえている。」単元9に移ります。「けがれた夜、花々の夜、喘鳴の夜、酔わせる夜、音のない夜よ、おまえの手は、四方八方の糸、黒い糸、恥ずべき糸にひきとめられている卑しい凧だ!白と赤の骨の野原よ、いったいどうしたのだ、おまえのけがらわしい樹々を、おまえの高木性の無邪気さを、そして、びっしりならぶ真珠や花々にかざられ、まあまあの銘句やどうとでもとれる意味のはいっているひとつの財布にひとしいおまえの誠実さを?」単元10に移ります。「箱のなかには澱粉がはいっていただけだった。ポールとヴィルジニーとは、この物質の結晶化の二形式をさしていたわけで、私はもう二度と彼らに会うことがなかった。あのころは愛がふたたび私をとらえ、ほかのさまざまな放蕩へと私をひきいれていたからだが、それについてはよろこんでいつかお話ししよう。」今回は以上になります。詩文には生々しさがあって、それがブルトンの特徴なのかなぁと思っています。