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  • 図録&印のレイアウト
    私は図録撮影の時には必ず、図録の雛型を作ってカメラマンに渡します。雛型の内容は鉛筆で走り書きした簡単なものですが、頁ごとに撮影場所や作品の種類を示しています。自分の中で考えたレイアウトをカタチにして、自作の見え方を確認するのです。私は自分自身で撮影はしません。現在読んでいる「像をうつす」(金井直著 赤々舎)では、現代彫刻の父と呼ばれたブランクーシが自らの作品やスタジオを、自分で撮影した写真で保存しているようですが、私はカメラマンという別の個性を入れることで、私自身が気づかなかった視点を入れています。もう20年近く懇意にしているカメラマンとは、よく一緒に仕事をしているので、そこに感覚の齟齬はありません。寧ろ私の作品に対して意外な解釈をしてくれて、私自身の世界観が広がるような思いがあります。今日は図録の雛型を作っていました。私の図録はもう18冊目になりますが、同じサイズ、同じ頁数で作っています。そうしたシリーズ化によって、作品の展開の経緯が分かるのです。今回は平面RECORDを図録に入れるのが今までにない特徴です。今日は陶彫作品に貼る印のデザインもやっていました。私の陶彫作品は集合彫刻なので、その組み合わせを番号順にするために、和紙に印を押し、そこに番号をつけて、陶彫作品の見えない部分に貼っていました。陶彫作品は毎回部品が多いので、混乱を避ける目的で印を毎回新しく彫っているのです。これは梱包を解いた時に他の作品と区別するためでもあるのですが、作品につけるサインという目的もあります。「発掘~記録~」は全体構成がないので、番号をつけた印は必要ないのですが、サインという目的だけに固執して印を新しく作ることにしました。実はこの作品には日付が陶面に刻印されていますが、印にも日付を入れるつもりです。「発掘~坪庭~」は従来通り、印に番号をつけて貼っていきます。印は撮影にはまだ必要ないので、撮影後にゆっくり制作をしていきます。
    個展準備に費やす6月
    6月になりました。来月は東京銀座のギャラリーせいほうで個展があります。毎年企画していただいていますが、今年で18回目の個展になります。今回の個展には「発掘~記録~」と「発掘~坪庭~」、それと額装した平面RECORD5点を出品する予定です。毎年出していた小品「陶紋」は出しません。今回、平面を壁に掛けることが私にとって初めての試みです。5点というのは月ごとにパネルにして額装するので、1月から5月までのRECORDになります。このRECORDと「発掘~記録~」は連動していて、同じ日付の立体と平面が同じデザインとして造形しています。陶彫という素材感が前面に出た立体と、色彩や描写がある平面との違いを自分としては一番関心を持ってもらいたいと思っているところです。さて、その準備に今月は費やす予定ですが、まず4日に図録用の撮影があります。それが終われば梱包に入りますが、今年の作品は数が多いので、どのくらいの木箱を用意したらいいのか見当がつきません。並行して来年に向けた「発掘~記録~」の継続制作にも入ります。今回の個展が最終ゴールではなく、折り返し地点の中間報告になるため、すぐに来年に向けた取り組みを始めていかなければならないのです。この継続姿勢は私が望んでいるもので、まだ結果が見えないことに私は意欲を燃やします。終着点やら決着することに私は苦手意識があって、どんな状況であっても展開していく世界観を持ちたいのです。自分の性格から言って、創作活動は生涯挑み続けていくんだろうなぁと思います。とりあえず今は図録用の撮影がうまくいけば、多少肩の荷がおりるのですが…。今月は余裕をもって過ごしたいと願っています。休日がないのは慣れましたが、遊び心まで擦り減ってしまうのが問題です。
    陶彫に明け陶彫に暮れた5月の日々
    今日は5月の最終日です。7月の個展で発表をする作品の完成を今月末に設定している関係で、今月は陶彫に明け陶彫に暮れた日々でした。陶彫は一昨日最後の窯入れがあって、これがうまくいけば完成になります。まだ「発掘~坪庭~」の土台の塗装が残っていますが、ここに設置する陶彫さえ完成すれば目標達成になります。151点で構成する「発掘~記録~」は全て焼成が終わっています。先月の最終日に書いたNOTE(ブログ)を読むと、先月もほとんど作業を休まず、一生懸命制作に取り組んでいましたが、今月はさらに拍車をかけて制作に邁進していました。31日のうち1日だけ東京の美術館に出かけた日がありました。それ以外は朝から夕方まで工房に籠っていました。今月は4回の窯入れをしました。窯入れをした翌日は、焼成にかかる電力の関係で工房の照明が使えませんが、それでも自然光のもとで作業を続けていました。平面RECORDも5月末までの作品を完成させ、落款をしてケースに仕舞いました。今月これだけ焦ってやっていたのは来月4日に図録用の写真撮影を予定しているからです。台風の到来が心配ですが、今回の図録は室内撮影を多く占めるので、何とか予定通りやっていくつもりです。今月は寝ても覚めても陶彫のことばかり考えて過ごした1ヵ月でした。鑑賞では2つの美術館に出かけました。「重要文化財の秘密」展(東京国立近代美術館)、「古寺巡礼」展(東京都写真美術館)に行ってきました。制作が佳境を迎えた時に出かけた美術館での体験は、自分自身の芯に染みわたるほどの気持ちになりました。世の中は美的なものに溢れていると本気で思ってしまいました。世知辛い国際情勢の中で、心を豊かにするものがこんなにあるんだと改めて思った次第です。ただし、今回作っている「発掘~記録~」は来年も継続していくもので、半分以上は来年に向けての課題です。私はこうした考え方が大好きで、遠くに見えるゴールに向かって、焦らず休まず、只管積み重ねていく道程を信条としています。今回の図録撮影は折り返し地点に過ぎません。さらに先を見据えながら、来月もやっていくつもりでいます。
    「写真家ブランクーシ」について
    「像をうつす」(金井直著 赤々舎)の「3 ブランクーシ 彫刻を拡張する写真」について、その後半部分の「写真家ブランクーシ」を取り上げます。「アマチュア風と評されるも、ブランクーシは生涯、自作の撮影を止めなかった。結果、ブランクーシの遺品を受贈したパリの国立近代美術館には、彫刻家による560点近いオリジナルネガと本人が焼いた1250枚ほどのプリントが遺されている。」これは単なる彫刻作品の記録ではないと考えた方がよさそうです。「ブランクーシは何を写そうとしたのだろうか。個々の彫刻ではあるだろう。しかし、それと同時に、像表面をかすめる微候や、スタジオ全体の雰囲気、そこに現れる対比や変化のしるしではなかっただろうか。~略~ブランクーシはそれなりに手間のかかる置き換えを、スタジオ風景の撮影のためだけにおこなっているのだ。つまり、ここでは明らかに、個別の作品よりも空間(の写真)の構成、言わば画作りに意が払われているのである。ブランクーシは、スタジオ内の作品というよりも作品のあるスタジオを写し続けていたのだろう。~略~さらにはスタジオ内で一人鋸を挽き、ハンマーを振る姿を自撮りすることで、あるいはスタジオ内で自作に囲まれてたたずむ、打ち解けた雰囲気のセルフポートレイトを仕立てることで、スタジオこそがひとをアーティストにし、石や木を彫刻に変える創造の坩堝なのだ。そのことを彫刻家の数多の写真が教えてくれる。」ブランクーシにとっては写真は彫刻と同じ表現媒体であったのは確かなようです。「いずれにせよ、写真をもってブランクーシが自身の多様な造形世界を支え、さらに拡張し、また、自らの創造者イメージを強化していたことは間違いあるまい。近代彫刻史上、傑出した役割を果たしたブランクーシこそが、じつは彫刻と写真の接続を、もっとも確かなかたちで実現した人物であったことは、あらためて強調しておきたい事実である。」今回はここまでにします。
    「ブランクーシの生涯と作品」について
    「像をうつす」(金井直著 赤々舎)の「3 ブランクーシ 彫刻を拡張する写真」について、その前半部分の「コンスタンティン・ブランクーシの生涯と作品」を取り上げます。本書はこれがあるために私は購入したようなものなので、ブランクーシの作品に関する論考をしっかり味わっていこうと思います。ブランクーシは近代の造形美術の新しい大地を拓いた人で、当初パリでロダンの弟子として働いていたものの、そこを離脱して自身の制作に集中しました。「その(制作)方法は、徹底的に個人の作業、ロダンの彫刻制作とは対極の直彫りであった。つまり、マケットから原型を作り、そこから鋳造や星取りの技術で完成版を引き出す西洋彫刻の伝統的な複製的性格を離れ、素材に直接向かい、1点ものの創造に励むのである。この直彫りへの関心は、当時、パリの芸術界に広がりつつあったプリミティヴィズムや、前衛運動へのカウンターとしての古典回帰、技術への帰依とも軌を一にし、また、ブランクーシにとっては故国ルーマニアの農村の生活世界や造形実践にも共鳴するものであったが、同時に、かたちの単純と純粋を追いもとめる彫刻家のその後の造形活動の起源でもあった。」同時にブランクーシには作品を支える台座の関連が現れてきます。「作品とその周囲の空間の接続や浸透が強まってくると、彫刻本体と床面・地面のあいだに、長らく挟まれてきた伝統的な台座のあり方も、あらためて問われてくるだろう。もはや彫刻作品を鑑者の実空間から引き離す必要はない。ニュートラルな台座は不要なのである。もっとも、ブランクーシの独創は、台座を省き、彫刻を床に直に据えるのみで制作完了とすることはなかった。むしろ彼は、台座部分についても素材を選び、それに精妙なかたちを施し、彫琢の粗密を変えながら、彫刻本体に繋がる性質を与えていったのである。台座が消滅したというよりも、台座もまた作品化したわけである。~略~このような、いわば台座への配慮(台座への作品の浸透)は、ついには台座のみで作品と化すような一種の逆説に到達する。《国境標識》(1945年)を見ておこう。そこでは《接吻》の最終形態が、台座風のキューブの積み重ねに変容している。あるいは、トゥルク・ジュに立つ29・35メートルの《無限柱》(1936年)を見よう。偏菱形の形態、つまり台座状のかたちを15個ほど数珠つなぎに積みあげたモニュメントであるが、そこに像本体とおぼしきものはなく、あたかも台座自体が直接、大地から生えあがり、そのまま作品と化したかのようである。」今回はここまでにします。