2023.06.17 Saturday
週末になりました。今週は相変わらず毎日工房に通い、寸時を惜しんで慌ただしく作業をしていました。今週は2つの作業を交互にやっていて、気が緩む暇がありませんでした。ひとつは来年に向けての制作で、陶彫立方体から気持ちが離れることはありません。制作方法は従来通りですが、彫り込み加飾の新しいバリエーションを考えなければならず、毎日苦し紛れになりながら、私としては結構楽しい時間を過ごしています。もうひとつは今夏、個展で発表する作品の梱包作業です。材木店から板材や垂木を大量に購入してきて、木箱作りを始めています。木箱に陶彫立方体をエアキャップに包んで収納してみると、ひとつの木箱に8点入ることが分かりました。その分、木箱は相当重くなりますが、当初ひと箱6点収納と考えて板材の量を割り出していた私は、箱数が少なくて済みそうなのでホッとしました。木箱作りは昨年の木箱を見ながら、板と垂木にタッカーをどのように打ち込んだか、木工ボンドをどこで使ったか、板を立ち上げる際にクギをどのくらい使ったか、いろいろ思い出しながら今週は6個の木箱を作りました。そのうち4個に陶彫立方体を収納しました。これは1月分に当たります。明日は新作の陶彫制作をやるつもりで、畳状のタタラを数枚用意しました。私は大工仕事が嫌いではありません。祖父やその先代たちも大工だったので、その血統があるのかもしれず、運搬業者に教わった垂木補強の木箱作りは、何の苦労もなくこなしています。ただし、工房内の暑さが半端なく、シャツや頭に巻いた手ぬぐいを汗で濡らしています。今日は30度に近い気温だったようで、時々熱中症を心配しました。自宅から水筒を持参してきていますが、水分はすぐなくなります。それでも身体が暑さに慣れてきたせいか、動きやすくなっていることも事実です。夏の暑さの中での制作活動は、教職に就いていた頃からずっと継続してやってきたことなので、自分の身体に関することはよくわかっているつもりです。でも年齢もあると自覚しているので、無理をしないように早めに自宅に戻って休もうと思っています。
2023.06.16 Friday
「仮面の解釈学」(坂部恵著 東京大学出版会)の「Ⅰ〈おもて〉の解釈学試論」のうちの「3 あらわれとCopula」について気に留めた箇所を取り上げます。本章は主題の導入部で「円空・木喰展」に著者が訪れた時の感想があり、一木彫りを日本独自の「樹木の精霊」としている論考に、私は感じ入ってしまいました。そこから導かれて和辻哲郎の倫理学からの引用箇所があって、私は和辻著による「風土」が40年以上前に中途半端なまま書棚に残されていることを思い出しました。近いうちに再読をしなければと思っています。今回の題名になっているCopulaとは繋辞の意味で、文章の主語と述語を結ぶための補助的な品詞のことを言います。そんなことを念頭に気に留めた箇所を拾います。「〈存在〉とは、間柄としての主体の自己把持、即ち〈人間〉が己れ自身を有つころ、いいかえれば『人間の行為的連関』であり、したがって、存在とは、厳密な意味においてはただ『人間存在』である、と和辻はいう。~略~個々の人という意味とともに、とくに〈間〉という語によって、人と人との間柄、共同存在、社会、つまり〈よのなか〉〈世間〉の意味をあわせもっており、個体的でありうるとともにまた社会的であるという具体的な人間のあり方としての二重性格を的確に指し示しているからである。」人間についてさらに考察が続きます。「『人間が己れ自身を有つこと』、〈ひと〉としてあることは、『われ自身が他者にとってまた他者であることの理解』『われにとって他者がまたそれ自身”われ”であることの理解』をまって、いいかえれば、〈われ〉と〈ひと〉との間の反転可能ないわばあわせ鏡の構造としての場所に首尾よく位置をしめることによって、はじめて可能になる。」また別の言い方でこのように表しています。「〈ある〉の語は、元来の用法においては、神霊の出現あるいは神霊の意志の顕現を意味することが多い、という。『あらたま』などの『あら』(荒)、『あら』(新)、『あら』(現)、『生る』、『あらわる』、『あらわす』などは、すべて相互に関連をもつ一連の語であり、『勃然として発生してきたものの、ナマのままのエネルギーをいうものであろう』と、〖日本国語大辞典〗の『あら』の項には記されている。『がある』『である』という形をとって、〈間柄〉あるいは『人間存在』を表現し、またその〈わけ〉の総体にサンクション(制裁措置)をあたえる〈ある〉は、反面、また、形あるものと形なきもののはざまに存立の場をもち、このもっとも根源的な〈わけ〉〈あいだ〉〈ことなり〉をあらわすことばでもあるのだ。」今回はここまでにします。
2023.06.15 Thursday
「仮面の解釈学」(坂部恵著 東京大学出版会)の「Ⅰ〈おもて〉の解釈学試論」のうちの「2〈かげ〉についての素描」について気に留めた箇所を取り上げます。「洞窟の比喩というおそらく西欧の想像力あるいは文学の史上でも第一級の位置をしめるイメージを描きえたプラトンが、また同時に、ジルベール・デュランの『象徴の想像力』のなかのことばを借りていえば想像力を不当におとしめる〈イコン破壊的〉な西欧形而上学の創始者となり、あるいはハイデッガー流にいえば、〈真理〉を現前存在者つまり〈イデア〉として規定する西欧的な〈ヒューマニズム〉の形而上学あるいは神学の創始者となったということは、考えてみれば、皮肉なことであった。」章の冒頭で洞窟の中において炎に揺れるかげから、地上の眩い陽光のもとに出た人々に着眼した箇所があって、前述の論考はそこが発端になっています。「いわゆる実在の世界から目を転じて、実在の反映あるいは〈かげ〉に没入することが、なぜ主体に現実との疎隔の感覚をもたらさず、かえって自己自身との親密さの意識をもたらすのか。いうまでもなく、それは、わたしたちの日常の実在あるいは現実の感覚が、差異性の諸体系によって重層的に構造化されたわたしたちの存在の場のほんの一部のみを抽象的に切りとり、それに対応していわゆるデカルト的な〈自我〉や〈意識〉といわれる構成体も、けっしてすべての〈真理〉認識の原点でも規準でもありえず、かえって人間の存在の場の総体への感覚をおし殺してしまうものにほかならないからである。」〈かげ〉についてこんな論考もありました。「無意識の世界とは意識の世界の〈かげ〉にすぎないのか。それとも、反対に、わたしたちが日頃これこそ現実だとおもいなす意識の世界こそが、かえって、その背後にひろがる広大な無意識の世界の〈かげ〉にすぎないのではないか。このような問いにたいして一義的な答えをあたええないことはいうまでもないだろう。たしかなことは、ただ、みずからがみずからにたいして残りなく現前し、〈かげ〉の部分を残さぬような意識、真理と現実性との超越的・絶対的な基準となり照合の中心となるような明証的な意識といったようなものが、人類の文化史上に一つのエピソードとしてあらわれた虚構にすぎないということだけだ。」今回はここまでにします。
2023.06.14 Wednesday
「仮面の解釈学」(坂部恵著 東京大学出版会)の「Ⅰ〈おもて〉の解釈学試論」のうちの「1〈おもて〉の優位」について気に留めた箇所を取り上げます。著者が紡ぎ出す論考は、哲学者だけあって卓識が散見されるもので、じっくり腰を据えて臨まないと主張する論点が見え辛いことがあります。私は久しぶりに硬質な書籍と格闘している感覚になりました。「〈おもて〉とは、自我と世界、自己と他者との一切の意味づけの失われるわたしたちの存在の場の根源的な不安のただなかから、はじめて同一性と差異性とが、意味と方向づけとが、〈かたどり〉を得、〈かたり〉出されてくる、まさにそのはざまの別名にほかならない。〈おも-て〉の『て』は、〈うしろ-で〉〈うら-て〉の『で』『て』とおなじく、〈おもつへ〉=面つ方、〈うしろつへ〉=後つ方の語尾のちぢまった形であり、こうしてみればあきらかなように、方向を示す。〈おも-て〉は、原初の混沌と不安のカオスの中からはじめて意味づけをえたコスモスがたちあらわれてくる始源の方向づけをかたどり出すのだ。~略~〈おも-て〉の『おも』は重に通じるとともに、また、〈おもふ〉=思ふの思にも通じる。〈おも-て〉によって方向づけられかたどられるコスモスは、同時に、はじめて、ひとの〈思ひ〉をかたどり定着する。〈おも-て〉=面=顔とは、まさに、〈思ひ〉のかたどられる場所にほかならない。」さらに文章で重複する箇所があるのは著者が重点として扱っているものだろうと思っています。「〈おもて〉とは、〈主語とならない述語〉であり、また、〈意味されるもののない意味するもの〉である。〈おもて〉とは、また、カオスの根源的な不安から意味をもったコスモスがたちあらわれ、〈おもみ〉と〈おもひ〉として〈かたどら〉れ、〈かたり〉出るはざまそのもの、対象化されえない述語面が〈声〉を根として〈かたどら〉れ、〈かたり〉出る、〈おもて〉あるいはペルソナのその〈声〉は、一体誰の声なのか。いいかえれば、〈おもて〉のペルソナは、一体いかなる〈人称〉をもつのか。」そうした考え方に日本語の独自性が介在していることを語った箇所もありました。「〈わ〉(我)、〈な〉(汝)、〈か〉(彼)あるいは〈た〉(誰)といった人称代名詞の基礎的な体系の圏外に属する全然系統をことにする人称代名詞を、すくなくともわたしたちの日本語はもっているようにおもわれる。それは、しかも、〈おもて〉と最初の音韻を共有するのだ。〈おのれ〉ということばが、我と汝の意味を二つながらもつことは、今日のわたしたちの言語感覚からしても、何とか生きた使い方としての命脈をたもっている。」今回はここまでにします。
2023.06.13 Tuesday
「仮面の解釈学」(坂部恵著 東京大学出版会)の本論に入る前に、著者と同じ東大の教壇に立つ熊野純彦氏によるまえがき「夢の通い路」がありました。副題に「本書を手にする読者のために」とあって、本論の手引きのような役割があります。著者が専門にしたカント哲学の中で、カントが晩年に思考した催眠と覚醒、夢とうつつ、死と生といった二極が入り混じる境界を踏まえ、著者も同じ視点によって本書を著したようです。「本書『仮面の解釈学』もまた、生と死、覚醒とまどろみ、現実と夢のあわいを問うている。坂部はここでも、『おもて』と『うら』(あるいは『仮面』と『素顔』)、『もの』とその『かげ』(あるいは『しるし』)、といった、さまざまな極が交じりあう領域に、思考がそこで紡ぎだされるべきありかを見さだめているのである。坂部の思考の特質は、たとえばつぎのような一節によくあらわれている。『おもて』を問題とし、『うつし』を論じて、やがて『うつつ』を問う一節である。『〈うつつ〉は、たんなる〈現前〉ではなく、そのうちすでに、死と生、不在と存在の〈移り〉行きをはらんでおり、目に見えぬもの、かたちなきものが、目に見え、かたちあるものに〈映る〉という幽明あいわたる境をその成立の場としている。そこに、〈移る〉という契機がはらまれている以上、〈うつつ〉は、また、時間的にみれば、単なる〈現在〉ではなく、すでにないものたちと、いまだないものたち、来し方と行く末との関係の設定と、時間の諸構成契機の分割・文節をそのうちに含むものでもある』(『うつし身2』)~略~理性から非理性を、現実から非現実を、現実から夢を、一方的に排除し、そこに、現実と現実ならざるものについて、真実と虚偽について、あるいはまた主観と客観について、一つのものの見方を組み立てる近世的合理主義の理性にかわるべきものとして、そこで排除されたものにも目を配り、それをも全体の欠くべからざる構成部分として含みこんで考えることができるような、あらたな思考のシステムが求められなければならない。それは、一つのあらたな根底的な理性批判とでもいうべき課題となるはずである。」(熊野純彦著)今回はここまでにします。