Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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  • 週末 今後のことを考える
    日曜日になり、工房には若い世代の人たちが来ていました。私は先日修理の終わった窯に作品を入れ、作業が終わった夕方から窯を焚くことにしました。果たして焼成はうまくいくでしょうか。このところ恒例になった7月の個展と、その前段階での図録用写真撮影のことが気になりはじめ、軽い強迫観念が頭を過ります。現在作っている新作は、同じサイズの陶彫立方体で、それぞれに日付をつけています。1月1日から12月31日までを1年間として最終的には365点を作る予定ですが、今回の個展までに365点を作り上げるのは時間的に到底無理であることが判っています。それならばどこまで作るべきか、どのくらいを来年に回すべきかを考えました。陶彫作品は窯入れをする前に乾燥期間が必要で、2週間程度は放置した状態にしておきたいのです。陶土が白くなり、そこに仕上げと化粧掛けを施して窯に入れます。陶彫作品は制作と放置を繰り返して最終的な形になっていくのです。そのためにかなり時間的猶予がなければならず、そこから考えると今年発表できる作品は1月1日から5月31日までの151点になるのかなぁと思っています。今年発表する作品はこればかりではありません。坪庭をイメージした中規模の作品も考えていて、これは私が建てた集合住宅の階段下に置くオブジェでもあるのです。来年の個展には立方体365点をギャラリーに並べますが、今年の状況からしても来年は立方体365点だけになってしまい、中規模作品を作る余裕が持てないという公算が大きいと思います。陶彫による立方体のコンセプトはまた別の機会にNOTE(ブログ)に書く予定です。今日はこんなことを考えながら作業をしていました。夜になって家内と統一地方選挙の投票に出かけました。今回はどの候補者も政策等でピンと来る人がいなかったので、正直に言えば選挙は厳しかったなぁと感じたのは私だけでしょうか。
    週末 窯を心配した1週間
    週末になりました。今週も朝から夕方まで毎日陶彫制作に邁進しました。春爛漫になり、加えて気候が心地よく、創作活動には最適の季節になったことを実感していました。朝9時に工房に入り、夕方4時近くまで陶彫制作をやっていて、自宅に戻ると夕食まで平面RECORDの制作を続けていました。それこそ朝から晩まで形態や色彩の追求に取り組んでいた充実した1週間だったわけですが、心配ごとがひとつありました。前回の焼成の温度が上がり切らなかったことで、業者に相談をしていました。どうやら窯内に張巡らされたヒーター線に問題があったようで、金曜日に3人の業者が工房に現れました。やはりヒーター線が一箇所切れていたことが判明し、その交換作業をいたしました。まだ試運転はしていませんが、おそらく来週早々に行う焼成は、うまくいくのではないかと思っています。今日は焼成のための下準備をして過ごしました。陶彫は最終工程で作品を窯に入れて完成します。窯入れは最重要な工程で、故障の原因を突き止めて、焼成が成功するまでは、心配は解消するものではありません。今週は読書にも時間を割きました。夜の時間帯にシュルレアリスムの思想を学びなおし、アンドレ・ブルトンの生涯について詳細な記録を読んでいました。それを各章ごとにNOTE(ブログ)に載せていました。私は日々自分の興味の対象について、手を動かし、頭を使っていて、飽きることのない時間を過ごしています。日々疲労を感じることはありますが、好奇心が勝ってしまうために、常に新鮮な気持ちに立ち戻ることができているなぁと思っています。幸福な時間とはこういうものなのでしょうか。これが長く続くように健康に留意してやっていこうと思っています。
    窯のヒーター線を交換した日
    私の工房に設置している窯は、言うなれば電化製品です。先日の焼成で支障があることが判り、今日は業者に来てもらって修理を行いました。窯はいつ設置したものか、NOTE(ブログ)のアーカイブを見てみると、2009年8月3日付の記事にこんな文章がありました。「今日はその倉庫に窯がやってきて設置をいたしました。窯は前開き、容量12kWの電気窯で、炉内は600×600×750(mm)です。ちょっと驚いたのが制御盤で、前に使っていたものより小さくて軽量になり、扱いも簡単になっていました。」窯の状況を追加すると、窯は大型で横扉式、内部に張巡らされたヒーター線はコイル(スパイラル)方式で、横溝が彫ってあります。コイルは全部で6本ありましたが、そのうち1本が断絶していることが判明し、その1本を新しいものに交換しました。窯を設置して14年も経っているので、家庭用電化製品であれば寿命になってもおかしくはなく、業者もよく今まで保っていたなぁと言っていました。残りのヒーター線も追々交換していかなければならないと肝に銘じました。長く保っていた要因は、私の陶彫には釉薬を使用しないことが大きく影響していると考えられます。釉掛けをすると窯内に釉薬が飛び散って、それが原因でヒーター線を痛めることがあるそうです。来週早々には試運転を兼ねた本焼きをしていこうと思っています。陶の表現にとって最終工程の焼成は最重要なもので、焼成を成功させるために土練りや成形に気を使っていると言っても過言ではありません。私の作品の焼成は極めて単純なもので、電気によって均一に焼ければそれでいいのです。陶芸家によっては焼成によって釉薬が微妙に滴ったり、また窯変が起ったりして、唯一無二の作品が出来るわけですが、私は彫刻を作っている意識があるので、形態そのものを重視していて、焼成による変化は求めていません。それでも錆鉄色に変わる陶彫を見ていると土肌が愛おしく感じられるのです。
    「アンドレ・ブルトン伝」読後感
    「アンドレ・ブルトン伝」(アンリ・べアール著 塚原史・谷正親訳 思潮社)を読み終えました。本書はシュルレアリスムの提唱者である詩人アンドレ・ブルトンの詳細な伝記である一方、シュルレアリスムとは何かという根源的な問いかけが幾度となく現れて、その思想をあらゆる場面で深めていく記録が綴られています。文学に疎い私としては造形美術の分野で存在感を示した人たちが複数登場したことが、本書を身近に感じた要因にもなっています。とりわけマルセル・デュシャンが出てくる箇所にチェックを入れていました。本書の最後に掲載されていた「訳者あとがき」に本書全体をまとめた文章があったので、引用させていただきます。「べアールはブルトンの生涯をカリスマ性に照らされた神話として提示するのではなくて、ためらいや失意がときめきや希望と交錯するひとりの詩人・思想家の精神史として、同時代の社会の動きと重ねあわせて描きだすことができたのである。~略~マラルメら象徴派の詩人に傾倒していた多感な少年が、精神医学を学びはじめたとたんにあの大きな戦争に巻きこまれ世界と人間が文字どおり破壊される過酷な光景を目撃して、西欧近代が築きあげてきた価値の体系に根源的な不信を抱くようになり、同じ感性を共有する友人たちとともにこの抑圧的なシステムの乗り越えをめざして、横断的な知を模索する未知の冒険に乗り出す場面は、20世紀のもっとも美しい記憶のひとつとなっているのである。さらに、こうしてシュルレアリスムを始動させたブルトンが、われわれの時代に認識論的切断をもたらしたフロイトからトロツキーにいたる思惟と人格との出会いを経験しつつ、仲間たちとともに困難な歴史を通過して、半世紀近くの間、このラディカルな異議申し立ての運動を主導してゆくありさまを、本書は生き生きと描きだしている。」(塚原史著)本書を通じて、この流れに従うならば、次に私が読むべきなのはマルセル・デュシャンの関連書籍なのかなぁと思っています。
    「絶対偏差」について
    「アンドレ・ブルトン伝」(アンリ・べアール著 塚原史・谷正親訳 思潮社)の「第Ⅵ部 沸き立つモラル」の「第三章 絶対偏差」についてまとめます。本章で「アンドレ・ブルトン伝」が終わります。つまり本章がブルトンの最晩年の記述になります。「アナロジーを刺激し、発展させること、『その代価は詩である』。(宗教の外部で)聖なるものを保護すること、『その代価は愛である』。注意深くあること、偶然起こりうることにたいして開かれていること、『その代価は自由である』。これが、ブルトンの見解の骨子となる三要素なのだった。」1965年に企画された「絶対偏差」展に関する記述がありました。「ピカソ、ヘラクレイトス、フーリエ、その他の引用を混ぜ合わせた『導入部』の中で、ブルトンは『絶対偏差』の意味と機能を指示した。それは、もろもろの習慣に対抗し、特に消費社会とは反対の行き方を主張する知的方法だった。展覧会は『別世界』の夢と驚異を人びとに提示する闘争であり、やがて時とともに、シュルレアリスムが痛いところをついていたことを人びとは理解するようになるだろう。ヘラクレイトスによれば、絶対的隔たり〔=偏差〕は『弓や竪琴のような…対立する張力の調和』として理解される。精神がアナロジーによって両極端に橋を投げかける時、その代価として詩が生まれるのだ。」エロティシズムについて書かれた箇所がありました。「『何故ならば、人びとはおそらく決着を急ぐ気持ちから、エロスの覆いをはがし、必要な用心をしなかったために、夢が織りなされる場所さえも汚してしまったからである。ここで再び重要なのは、あらわにされたものの全てが何らかのやり方で再びおなじように覆われることを求める、秘教的な原則に事態を委ねることである。この再度の歪曲の犠牲者となるのは詩だけであるように、私には思われる』と、ブルトンは1964年12月に、ギィ・デュミュールに説明した。この命題の完璧な例は、デュシャンの『〔彼女の独身者によって裸にされた〕花嫁』だろう。」1966年9月28日になり「明け方の6時30分、アンドレ・ブルトンは娘オーブ〔夜明けを意味する名〕の腕の中で息をひき取った。彼の死亡通知には、つぎのような記載があるだけだった。『アンドレ・ブルトン1896ー1966年、私は時の黄金を探す。』この言葉は『現実僅少論序説』〔1929年〕からとられたものだった。」