2023.04.14 Friday
昨日、東京上野にある東京国立博物館で開催している「東福寺」展に行ってきました。京都の東福寺は過去に何度か訪れたことがありますが、いずれも重森三玲が作庭した「八方の庭」を鑑賞するためでした。今回は東福寺の宝物をじっくり見る機会があって、非常に楽しい時間を過ごせました。展示会場の最後の部屋には鎌倉時代の慶派仏師による仏像が並び、その圧倒的な存在感に満足を覚えましたが、この展覧会を通して私が感銘を受けたのは、僧侶にして画聖となった吉山明兆の存在でした。図録には雪舟と並ぶ画聖とあり、私はこの展覧会を見るまで明兆を知らなかったことを恥ずかしく思います。確かに明兆の筆から迸る力量は画聖と呼ぶに相応しい才覚があり、私はじっくり鑑賞をさせてもらいました。「『衣は破れるも戒を破らず、身は貧すれども道は貧せず』とあるのは『画道即仏道』とも言うべき画聖明兆の真骨頂を示したものであろう。」(石川登志雄著)また本展の見せ場となっている「五百羅漢図」は学芸員による楽しい工夫があって、私は羅漢の台詞に笑いつつ物語を眺めていました。「現在東福寺には、五百羅漢図の下絵と称される紙本白描画が五十幅伝わっている。五百羅漢図の本絵を制作するために明兆が描いたものと伝承されてきたが、これまでの研究では、はたして本当に明兆が描いたものなのか、あるいは後世の写しなのか、はっきりとした結論が出ていなかった。本展の準備にあたり、本絵と下絵とを詳細に比較検証してみたところ、やはり明兆自身が描いた下絵とみなしてよいことが確認できた。~略~下絵に見られる躍動感あふれる筆致や特徴的な短い岩皴などは、ほかの明兆作例とも共通するものであり、これを明兆筆として認定することに支障はないだろう。また、下絵の画面内には、『朱』『白』など色の注記が多く見られるが、いずれも本絵に施された色味と合致しており、色彩の指示書きであることがわかる。このことは、明兆による五百羅漢図が、工房的な作画体制のもとで制作された可能性を示唆するものとして興味深い。」(高橋真作著)どのように制作されたのかは鑑賞後図録で確認して、私はここに記しているのですが、実際に目にした五百羅漢図は、こうした背景を知らずに目に飛び込んでくるので、筆致に新鮮な驚きがあり、羅漢それぞれの豊かな風貌があって、暫し時間を忘れてしまうのです。鑑賞はファースト・インパクトが大切だなぁと思っています。
2023.04.13 Thursday
先日、窯の修理を行い、日曜日の夕方に窯入れをしました。月曜日は焼成の関係で窯以外の電気が使えず、照明がない中で陶彫制作を行っていました。窓を開ければ日が差し込んで、手許は明るくなって作業が可能でしたが、どうも自然光では通常とは勝手が違って、作業のやり難さを感じました。昨日、窯を開けたところ、焼成が成功していて、ホッと胸を撫で下ろしましたが、窯出しをしてすぐに修理前の窯で焼成した作品を再度窯に入れたために、今日は月曜日と同じ照明が使えない一日になってしまいました。陶彫制作をやりたくて仕方がない逸る気持ちを抑えて、今日は工房では焼成温度の確認だけをして、きっぱりと作業は諦めました。創作活動には実技と鑑賞が両輪となって進んでいくものと私は考えていて、今日は鑑賞に当てることにしました。東京上野にある東京国立博物館で開催している「東福寺」展は、平日にも関わらず多くの観客で賑わっていました。京都の東福寺に私は幾度となく訪れていて、そのほとんどが庭園を見るための観光でした。教職にあった頃は修学旅行の生徒引率で行っていましたが、それは仕事だったために落ち着いて観光が出来ずに、機会を改めて個人旅行で東福寺に足を運びました。造園家重森三玲による「八相の庭」はその空間解釈の素晴らしさに毎回感嘆し、自ら創作している彫刻表現に生かせないか、当時から思案していました。今回の「東福寺」展では、東福寺が所蔵する宝物に触れ、とりわけ吉山明兆による「五百羅漢図」や鎌倉時代に作られた慶派仏師による仏像の数々に目を見張りました。吉山明兆は雪舟等楊と並び称される画聖であり、その力量を惜しみなく発揮されたのが「五百羅漢図」で、その全容を見て気分が高揚しました。詳しい感想は改めて別稿を起こします。今日は初夏を思わせる一日で、上野公園には多くの人々が訪れていました。新緑の中、大陸からやってきた黄砂を心配しながら、上野公園を歩いて気分転換を図りました。今日は充実した一日だったと思っています。
2023.04.12 Wednesday
「マルセル・デュシャン全著作」(ミシェル・サヌイエ編 北山研二訳 未知谷)の「第一章 花嫁のヴェール」は多くの単元に分かれていて、そのうち最初の2つの単元で注目した文章を引用いたします。まずその「序文」となる単元ですが、マルセル・デュシャンが熱心に造形作品やその構想に取り組んだ時期のことが書かれていました。「実際われわれの作者にとって、1912年から1920年までの期間は芸術活動・構想推敲の濃密な時期であり、とりわけ〈レディー・メイド〉の創案と〈大ガラス〉の部分的制作がその特徴である。〈大ガラス〉の制作作業は1915年秋に行われたが、それはアメリカの大都市〔ニューヨーク〕に(6月15日ころ)到着して数週間後のことである。しかし、造形美術の創造力のこうした展開は、異常な知的興奮によって倍加する。つまり、10年ほどのあいだ毎日彼は紙片にこれらノートを綴るのである。ノートは、ほんとうの対位法のレチタチーヴォとしてのこの時期の作品の基盤に横たわり、作品を解説しあるいは反対に隠蔽する。」(※レチタチーヴォ=「叙唱」と訳される。)デュシャンの代表作品はこの時期に集中して考案され、また制作されたようです。次に「1914年のボックス」という単元がありました。デュシャンにはメモをボックスに入れて保管する習慣があり、有名なものでは「グリーン・ボックス」がありますが、これはそれ以前に存在するボックスらしく、かなり貴重なものだろうと思われます。そこで書かれていたこんな文章に目が留まりました。「デュシャンは即興の人ではない。その最も自然発生的に見える創案でもゆっくりした成熟の産物である。そのようにしてデュシャンは、1914年早々にパリで、『文学的』作品の受容器としてボックスを利用するという着想を抱いたのである。彼は個人的な使用のために、公表の意図もなく、15のテクストをまとめることまでしていた。」今回はここまでにします。
2023.04.11 Tuesday
「マルセル・デュシャン全著作」(ミシェル・サヌイエ編 北山研二訳 未知谷)の巻頭にある「1958年の序文」の中で、気に留めた箇所を引用いたします。著者は序文の中にもマルセル・デュシャンという特異な芸術家の考え方を反映させていて、私としては嘗て見たデュシャンの造形作品を思い起こしながら、序文を丁寧に読んでいました。「アンドレ・ブルトンは次のように的確に指摘する。『現実の問題は、可能性との関係においては、苦悩の大きな源泉であり続ける問題であるわけだが、ここではもっとも大胆なやり方で…つまり〖物理化学法則を少しゆるめて〗解決されるのである。』ブルトンは続ける。『疑問の余地がないことだが、造形芸術の領域でデュシャンがこうした方法によって辿り着きえた独創の数々の厳密な時間的順序を人々はのちになって確定しようと躍起になるだろう。後世の人々がもっぱらできることといえば、その流れを体系的に遡行し、慎重にその紆余曲折を描き、デュシャンの精神だった秘匿された宝を探求すること、そしてその向こうに最もまれなるもの、最も貴重なもの、つまり時代の精神そのものを探求することなのである。そこでは、最も現代的な感じ方の奥深い秘伝伝授が問題になるのである。そしてそのユーモアはこの作品のなかに暗黙の条件であるかのように提示されている。』」これはシュルレアリスムを体系化したアンドレ・ブルトンによるデュシャン評が端的に述べられている箇所で、デュシャンの秘匿された宝とは何かを知る手掛かりが本書には書かれているようです。ただし、デュシャンの表現に対する特徴が書かれた部分もあって、私はホッと胸を撫で下ろしたところでもあります。「デュシャンの手は、彼が何を言おうとパレット向きにできており、ペン向きにはできていなかった。書くことは彼にとって嫌な仕事なのである。その作品の少なさは、それゆえこうした嫌悪感による。しかし、デュシャンの精神はそれでも知的表現に向けられるのであり、その最も適切な表現はやはりエクリチュール〔書くこと〕なのである。」今回はここまでにします。
2023.04.10 Monday
「マルセル・デュシャン全著作」(ミシェル・サヌイエ編 北山研二訳 未知谷)を読み始めました。本書はどこで購入したのものか忘れていて、以前から自宅の書棚にあったものです。自分で手に入れておきながらデュシャンの全著作というタイトルに興味半分と一抹の不安を覚えます。前に読んでいた「アンドレ・ブルトン伝」と同じく本書も分厚い書籍ですが、頁を捲ってみると図解やメモがあったりして、私にどの程度理解ができるのか、甚だ心もとない限りです。マルセル・デュシャンは多様化した現代美術の礎を作った立役者で、それは美的価値の転換を図った革命家であったと私は考えています。デュシャンが登場したことで、私が今も信奉する彫刻表現が解体されてしまいました。そんな現代美術はどこへ向かうのか、デュシャンの思考にもう一度立ち返り、造形そのものを問うてみることも必要かなぁと思っています。本書は4章から成り立っています。「はしがき」にある4つの章に関する短文を引用いたします。「『花嫁のヴェール』は、〈大ガラス〉つまり『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』に関するメモ全体である。『ローズ商会』は、『ローズ・セラヴィ』(1939年)の場合と同じ形式のコントルペトリー、地口、言葉遊びの集成である。『批評家マルセル・デュシャン』は、評論、略注、批評的警句である。『テクスティキュール』は、以上の章に入れられなかったその他の全般的に短いテクストである。」この4つの章の分類を見ても、私には何のことか分からない状況ですが、ガラスが嵌め込まれた作品「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」は複数作られたうちの1点を見たことがあり、「ローズ商会」についても言葉遊びという手段がどういうものか、何となく知っています。日本で開催された「マルセル・デュシャン展」には足を運んでいるので、造形作品に関しては私でも多少の理解はしているつもりです。本書によって、どんな思索が自分に与えられるのか、出来るだけ感度を良くして読書に臨みたいと思います。