2023.03.25 Saturday
週末になりました。今日は朝から家内と美術館やギャラリーへ鑑賞に出かけました。まず北浦和にある埼玉県立近代美術館。今まで幾度となく訪れた美術館で北浦和公園の中にあります。ここで開催されていたのは彫刻家戸谷成雄氏の個展でした。戸谷ワールドに最初に接したのはいつだったか忘れてしまいましたが、記憶に新しいのは2017年武蔵野美術大学美術館で開催していた個展で、これは同大教授の退官記念展だったような気がしています。その大規模な個展と前後して静岡県御殿場にあるヴァンジ彫刻庭園美術館でも個展をやっていました。戸谷ワールドは、木の塊をチェンソーで刻んでいく表現が特徴的で、木の表面に条痕を残した地肌が荒々しい印象を齎せていました。それだけではなく表面に溝を作り出し、そこに得体のしれない闇を感じたのは私だけでしょうか。今回の個展をネットで知った私は、どうしても定型化に陥ってしまう自己表現を揺さぶるために、絶対に見に行こうと決めていたのでした。鑑賞をひとつの弾みにして活力を蘇らせるのは私の常套手段です。この迫りくるイメージを心に刻んで、自分の糧にしていこうと思っています。詳しい感想は後日改めます。次に向かったのは横浜のみなとみらい地区にあるギャラリーのバンカートでした。バンカートでは横浜が推進する文化芸術振興の一環として、台北市と芸術家を相互に派遣する事業を展開しています。実は私の工房に出入りしている美大生たちがこのバンカートでアルバイトをしていて、その子から「呉庭鳳」展のことを教えていただきました。この若い世代の台湾アーティストは、横浜に短期間住んで、自ら気を留めたモノを柔らかな筆触で描いていて、彼女の求めるモノがイメージとして定着していました。今日は重厚な「戸谷成雄」展と軽妙な「呉庭鳳」展という対照的な2つの展覧会に足を運びました。
2023.03.24 Friday
私が嘗て5年間校長として勤務した横浜市立の中学校が、ついに閉校を迎えることになりました。大きな団地の中にある中学校は、少子高齢化によって生徒が減少し、学校が存続できるか否かの問題を、私が着任する前から抱えていました。それでも私が着任した頃は、各学年2学級を有していて、学年行事も辛うじて組むことが出来ました。52年前の創立当時は1000人規模の学校だったため、収容人数が限界を超え、近くに新しい学校を建てたのでした。その後、生徒が減少しはじめて、いつの間にか新校の方が規模が大きくなってしまいました。統合は私が勤めていた頃から囁かれていたことでしたが、その頃の私は勤務校が無くならないように地域と一緒になって思案をしていました。学校を少しでも魅力的にしながら、学区に調整地区を設定できるように市教育委員会に学校運営協議会を通じて申請をしていました。魅力的な学校は眼に見えるものでなければならず、私が美術科であることを武器にして、生徒たちとプロジェクションマッピングを作り上げて、全市に教育委員会の広報を使って知らせました。その頃、プロジェクションマッピングの制作に関わった生徒たちが美術方面に進路を考えはじめ、その子たちが現在私の工房に通ってきている美大生たちなのです。私も生徒を増やす目的で始めたプロジェクションマッピングが、実は大変面白い視覚表現であることに気づかされ、生徒たちと珠玉の時間を過ごせたと思っています。そんな思い出が残る学校も今日で統合されることになりました。嘗て分かれた学校が統合するにあたって、学校名が新しくなり、学校教育目標も新しくなります。現在の1・2年生はストレスを抱えることになりますが、ここは心機一転して、自分のやるべきことを全うして欲しいと願っています。私も式典中は走馬灯のように5年間の月日が巡ってきて、些か疲れました。生徒たちが新しい環境に一刻も早く馴染むように願っています。
2023.03.23 Thursday
「アンドレ・ブルトン伝」(アンリ・べアール著 塚原史・谷正親訳 思潮社)の「第Ⅴ部 移住と亡命」の「第一章 出発の準備」についてまとめます。「八月末、メキシコ・シティでのトロツキー暗殺のニュースが届いた。もはやスターリンにたいするいかなる意義申し立ても不可能だということをマビーユはただちに理解した。見かけよりも感じやすい人間であり、自分の感情をあまりうまく制御できないブルトンは、涙にむせんだ。」愈々ブルトンはアメリカへ移住する決心をしたのでした。「蒸気船海運会社のキャピテーヌ・ポール=ルメルル号は、アンチル諸島に向けてマルセイユから出航した最後の船の一隻で、しかもおんぼろの小舟だった。船上にはブルトン一家(旅費はペギー・グッゲンハイムが出してくれた)、ヴィクトル・セルジュ一家、ヴィフレッド・ラム、それに『悲しき熱帯』の冒頭でこの船と乗船客のことを描くことになるクロード・レヴィ=ストロースがいた。~略~レヴィ=ストロースは、船がカサブランカに停泊したさいにブルトンが提示したパスポートを見て、彼だということに気づいた。『アンドレ・ブルトンは、このガレー船のような船の居心地がひどく悪いのか、甲板のところどころにある空いた場所を行ったり来たりしていた。フラシ天の服を着ていたので、青い色の熊のように見えた。彼と私の間にはその場かぎりのものではない友情がすでに文通によって生まれはじめていたのだが、このいつ果てるとも知れない船旅の間もその友情は継続され、わたしたちは審美的な観点からの美と絶対的なオリジナリティの関係について議論を交わしたりした。』〔『悲しき熱帯』1955年〕やがてブルトンはアメリカに到着します。「もし周囲の状況が許せば、ブルトンはあらたに友人となった黒人たち、とりわけエーメ・セゼールーこの男こそ生まれながらの詩人と見なしたブルトンは、彼の詩集『帰郷ノート』に序文を寄せているーとともに、この島で暮らしたいと考えたことだろう。だが彼はカリブ人たちの魅惑から身を引き離して、もっと安全な避難所をアメリカに求めねばならなかった。」今回はここまでにします。
2023.03.22 Wednesday
「アンドレ・ブルトン伝」(アンリ・べアール著 塚原史・谷正親訳 思潮社)の「第Ⅳ部 革命の警鐘」の「第二章 狂気の愛から黒いユーモアへ」(後)についてまとめます。ここではブルトンが娘に語る場面が印象に残りました。「『きみが大きくなったら、ぼくが愛や人生や革命やその他のことについて知るところを説明してみよう。あまり実際の生活で役立ったりしないと思うかもしれないが、でもこれは名誉なことなのだよ。』この夏に経験した愛情の危機を、ブルトンはジョー・ブスケにも打ち明けていて、驚いたブスケは、つぎのように書いて寄こした。『私の眼にはあなたは強く、意思の固い人としか映りませんし、あなたがそういう人であるなら、気力が萎えるといったこともないと思います。じつをいえば、あなたにも苦しむことがあるなどとはとても想像できなかったのです。』われわれもまた、ブスケ同様、ブルトンがその文章におけるように強靭であると思い描いていないだろうか?ところが、ブルトンも悲しみや孤独や周囲の無理解のために涙を流したりもしたのである。」本章の後半に革命家トロツキーとの出会いが書かれていました。「ジャクリーヌとともに、ブルトンは〔1938年〕3月30日に発動汽船オリノコ号に乗り込んだ。穏やかな航海ののち、4月18日にベラクルス(メキシコ)に上陸する。~略~国営新聞でブルトンの到着を知ったディエゴ・リベラが駆けつけた。この高名な壁面画家は、ブルトン夫妻の滞在中(それは4ヶ月におよぶ)、二人をもてなしたいと申し出たばかりか、翌々日にトロツキーが招待している旨を彼らに伝えたのだ。~略~話してみると、トロツキーがいかにも若々しく、相手を心地よくさせるユーモアの持ち主で、辛い試練を経てきているにもかかわらず穏やかな様子なので、ブルトンは驚きを隠すことができなかった。~略~トロツキーは『シュルレアリスム宣言』『ナジャ』『通底器』そしておそらく『狂気の愛』も手許に持っていたものと思われる。ただ、彼はもっぱら小説を好み、文学的な知識はせいぜい象徴主義あたりまでしかなかったので、シュルレアリスムの歩みを必ずしもよく理解できないでいた。一方のブルトンは、ずっと以前から、トロツキーを読むたびに感嘆の思いを抱いていた。彼はいまこそ、当のトロツキーの口から、どのようにして革命への信念が形成され、それが保たれてきたのかを聞かせてもらいたいと考えていた。~略~『われわれが望むもの、それはー革命のためのー芸術の独立であり、そしてー芸術の決定的な解放のためのー革命である。』そのため彼は、宣言の原稿をブルトンの手にゆだねたのである。『ブルトンとはたがいによい友達として別れた』と、トロツキーは8月4日にジェラール・ローゼンタールに書き送っている。」今回はここまでにします。
2023.03.21 Tuesday
今日は春分の日です。お彼岸の中日に当たり、墓参りをするのが習わしになっています。私も午前中は工房に出かけて陶彫制作に精を出していましたが、午後は家内と墓参りに出かけました。午前中工房での陶彫制作の間、家内は自宅でWBCのテレビ観戦をやっていて、盛り上がっていたようです。私が自宅に帰ると、家内は興奮冷めやらぬ様子で、日本の逆転勝利に歓喜していました。私は陶土の乾燥を恐れて作業に勤しんでいましたが、巷ではそれどころではなく人々が大騒ぎをしていた様子がテレビに映し出されていました。とくに今日は休日だったので早朝の野球中継にも関わらず、多くの人がスポーツに酔いしれていたようです。春分の日はいわゆる春彼岸でもあり、私たち夫婦は先祖への供養をやっています。相原の両親・先祖への墓参りは19日(日)に済ませていました。相原の墓は自宅近くの浄性院にあります。今日は家内の両親の墓参りに横浜市西区にある久保山墓地に行ってきました。久保山墓地は横浜では最も古い墓地で戦前からあります。私の母方の墓地もここにありますが、私は母が亡くなってからここには来ていません。家内の母方の墓地は奄美大島にあり、そこには遠方過ぎて行けないのです。先祖の供養は人それぞれの考え方があって、私たち夫婦はあまり熱心な方ではありません。春と秋の彼岸の時に花と線香をあげるくらいです。私は墓参りは生きている子孫のためにあると思っていて、そこで自分たちの気持ちの整理するのが目的と思っています。この季節の菓子について面白い話を聞きました。春彼岸で食べるのが牡丹餅でこし餡で作られています。秋彼岸で食べるのが御萩で粒餡で作られています。牡丹餅(ぼたもち)と御萩(おはぎ)は同じものと思っていた私は、その違いについて今更知ったことで妙に感心をしてしまいました。