2023.01.14 Saturday
週末になりました。1週間の振り返りをしたいと思います。今週もいつものように毎日工房に通って陶彫制作に精を出していました。月曜日は成人の日で、美大生がやってきて課題をやっていました。火曜日も水曜日も朝から夕方まで作業をやっていましたが、木曜日は朝だけの作業に切り替え、午後は画廊や美術館に出かけました。とりわけ印象的だったのは東京のサントリー美術館で開催していた「京都・智積院の名宝」展にあった長谷川等伯一門の障壁画で、忽ち私の心が動きました。平日にも関わらず、展覧会には人が大勢鑑賞に来ていて、作品の人気度が分かりました。描かれていた桜や楓には遠近感がなく、ちょうど春の花見や秋の紅葉狩りで目にするような艶やかな彩りだけで全体構成が成されていました。昨日NOTE(ブログ)に書きましたが、あえてそうした構成にしたことが図録の文章より伺えました。安土桃山時代あたりから継続されてきた日本らしい表現には、現代にも通じるデザイン性が見て取れて、元々私たち日本人は写実を象徴化する美意識が備わっているのかなぁと思うようになりました。いや、安土桃山時代どころか、さらに古墳時代まで遡り、熊本県にあるチブサン古墳の抽象的な壁画にも優れたデザイン性を有していると私は考えているのです。チブサン古墳は20世紀に西洋で興った抽象主義の先駆けのようなデザインだろうと私は勝手に思っています。話が飛躍してしまいましたが、長谷川等伯一門が描いた障壁画に古さを感じないのは、日本人の持つデザイン感覚に委ねている部分が多いのではないかと私は察しています。金曜日と今日の土曜日は朝から夕方まで陶彫制作に戻ってきましたが、美的感覚に溢れる障壁画を鑑賞したおかげで、制作に弾みがつきました。明日も継続して制作三昧です。
2023.01.13 Friday
昨日は東京六本木にあるサントリー美術館で開催している「京都・智積院の名宝」展に行ってきました。私が見たい本展の作品は長谷川等伯一門による障壁画でした。長谷川等伯といえば《松林図屏風》が有名で、水墨の濃淡で描かれた幽玄の世界を幾度となく堪能している私は、今回の金碧障壁画は言わば対極的様式を成すもので、等伯の画力の凄さを知ることになりました。当時、等伯は狩野永徳とライバル視される地位に上り詰め、狩野派を脅かす存在になっていたようで、《桜図》や《楓図》を見ると確かにその描写や構図の堂々とした佇まいは、豊臣秀吉が幼子鶴松の菩提を弔うために依頼した経緯が理解できます。図録によると「宋元絵画における花鳥図を積極的に学んだ成果によるものか、複数種の草花を無造作に交差させ、勢いよく生い茂らせている。ここに狩野派とは異なる野趣あふれる魅力が演出されているといえよう。」また《桜図》にはこんな文章がありました。「等伯は永徳の桜図を構想の下敷きに描いたと自然に推定される。さらに、桜の描写そのものも、天瑞寺障壁画においてすでに胡紛を盛り上げて花弁を表わし、『浮きザクラ』として評判を呼んだことが史料により確認できる。」続いて《楓図》。「《楓図》に描かれた楓も桜と同様で、緑から赤に色づく楓の紅葉を、同じサイズの楓型に切り取った色紙を上下左右に貼り付けるようにして画面を展開させるかのようだ。工芸的と言えば工芸的、装飾的と言えば装飾的であるが、思えば春の花見も、秋の紅葉狩りも、単純に満開の花や赤い紅葉をみれば人々は満足したのであり、奥行きのある山野の自然な姿の再現よりは『満開の花』『紅葉の鮮やかさ』という単純なみごとさこそを直截的に伝えるべく強調して狙ったのだと言えよう。」(引用は全て石田佳也著)確かに障壁画の画面は大きく絢爛豪華たる雰囲気で、人を圧倒するのには十分な力量を感じました。私が注目した作品がもう1点ありました。《十六羅漢図屏風》です。羅漢の個性的な風貌とユーモラスな雰囲気に時間を忘れて見入ってしまいました。等伯71歳の作品と記されていたのですが、《桜図》を描いた等伯の長男である久蔵は26歳で早世しています。本来なら父の跡を継いで一門を率いる存在だったはずですが、残念なことになったなぁと思ってしまいました。それでも作品は後世にまで残り、長谷川等伯一門の在りし日を伝えています。
2023.01.12 Thursday
今日の午前中は工房に行って陶彫制作に勤しみましたが、午後は画廊や美術館に出かけて鑑賞の時間にあてました。家内を誘って、まず横浜の中心街にある画廊で開催しているグループ展を見てきました。そのグループ展は嘗て教員仲間だった人たちが参加している会で、その中の一人は市教育委員会指導主事になり、もう一人は横浜国大教授として美術教育理論に携わっている現役の人たちです。彼らと私は一緒に仕事をしていた時期もあり、私の東京銀座での個展にも来てくれているので、今日は私がグループ展に足を運んだのでした。教育的には重要なポジションで仕事をしていながら、創作活動を進めていくのは大変なことだろうと思っていましたが、国際的な社会状況により作品を通して主張したいテーマが、作家によってはあったらしく、今回の制作に繋がっていたように感じました。この画廊のある界隈は旧市民ギャラリーがあった場所で、私には懐かしさもありました。旧市民ギャラリーは現在、関東学院大学の新校舎が出来上がっており、その地上階にある新しくできたレストランで食事をとりました。大学はまだ学生を受け入れていない状況でしたが、時代が変わったことを知るには十分な環境変化でした。その後、家内と私は東京六本木に向かいました。サントリー美術館で開催中の「京都・智積院の名宝」展を見に行ったのでした。これは宗祖弘法大師生誕1250年記念事業として、総本山智積院宝物館を建設するために、その代表的な宝物をサントリー美術館に貸与する機会があり、貴重な作品が寺外で公開されるとあって私の心はざわめきました。とりわけ私の興味関心は、長谷川等伯一門による障壁画で、その大きさを知るにつけ、これはどうしても見たいと思っていたのでした。長谷川等伯は、狩野永徳との関係で狩野派のライバルとされた絵師であるのは、概案として私は知っていましたが、その詳細な点検をしてみたいと常々思っていたのでした。それも含めて障壁画の感想は後日に回したいと思っています。今日は充実した一日を過ごしました。
2023.01.11 Wednesday
「死と生の遊び」(酒井健著 魁星出版)を読み終えました。全編を通じて、私が嘗て何らか興味を持ったものばかりで、この書籍を購入しようとした動機が、旧知のものを再度考え直したい欲求に駆られていたためではないかと思っています。副題に「縄文からクレー」までと記されていて、そのうちの幾つかは私が実際に目にしたものも含まれていました。未だ目にしていないのはラスコー洞窟壁画、ケルトの造形美術、ピカソの「ゲルニカ」くらいで、私自身欧州に5年間に及ぶ滞在期間があったので、本書の中に出てきたものはほとんど網羅していると自負しています。ただ、その頃は知識が少なく、何気なく見ていた印象があり、もったいないことをしたなぁと振り返っています。実際の鑑賞体験にはある程度の知識理解が必要で、その時代背景を考えたり、歴史の潮流の中での革新性を考えたりすれば、目の前のものの力が迫ってくるような感覚になったりするものです。ただし、当時の浅はかな知識であってもルネサンスの絵画群や西洋様式の変遷美や印象派以降の前衛に関しては、何かしら感受するものがあり、素朴な心情として、私は異文化の中で圧し潰されそうな感覚を持ったこともありました。日本に帰ってから得た知識では、ドイツ・ロマン派の悲劇的ともとれる静寂な世界を、日本の評論で改めて知ったことと、シュルレアリスムの発現動機を知ったことでした。シュルレアリスムに関しては、再度正面切ってさらなる理解を深めたいという気分になっています。著者のあとがきにこんな文章がありました。「芸術作品は、絵画にしろ建築にしろ、一個の物体であるが、しかし生命なき無機質な物体ではなく、いわくいいがたい生の魅力を放っている。中世のロマネスク教会堂は、石材から成っているが、無表情なコンクリート塊の高層ビルなどとは違って、不可思議な雰囲気を漂わせて存在している。堂内に入れば、その感覚はいっそう強まる。そのように感覚される生は、中世の建築職人、宗教家、民衆の生でありながら、それら多くの中世の人々の生にすら限定されえない広さ、中世という時代をも超える勢いを持っている。一般に芸術作品は、その作者がどれほど強烈な個性の持ち主であっても、作者の生に収まりきらない息吹を発している。ゴッホが描いた絵、ガウディが制作した公園や建物は、作者を超えた広大な生、今なお勢いづいている生を発散させている。だからこそ、ゴッホやガウディと縁もゆかりもない我々現代の日本人の心をも深く捉えて、揺さぶってくるのである。」
2023.01.10 Tuesday
「死と生の遊び」(酒井健著 魁星出版)の2つの単元をまとめます。ひとつは「死の国への哀歌」と題された単元で、ピカソの《ゲルニカ》のことが論じられています。ふたつ目は「死と生の呼応」と題された単元で、パウル・クレーと、現代への遺言について書かれていました。まず、ピカソの代表的な絵画「ゲルニカ」ですが、その制作動機の概案しか知らなかった私は、劇作家で詩人のフェデリコ・ガルシア・ロルカ(1898-1936)が絡んだ論考にちょっとした衝撃を受けました。「正義の観念は麻薬的な働きをする。多くの人間によって支持されるという思いが安らぎを与える。ロルカは、死んだ闘牛士など『死の国』の人々への哀歌を何作も書いたが、しかしそうすることによって自分を救おうだとか、善人という心の支えを手に入れようなどと思いもしなかった。彼の心にあったのは、自分自身『死の国』の中にいる、『死の国』を生きているという実感だった。ロルカがもしもあと数年生きていたならば、《ゲルニカ》を『死の国』への哀歌として公表したピカソに対し、どのような思いを持っただろうか。とりわけ、絶叫の光景に見入る雄牛の姿をどう思っただろうか。めざとくそこに欺瞞を見出したにちがいない。国外で正義の人として活躍する強かさの裏に、道徳上の不安を解消し英雄的な画家として生き延びてゆきたいとするピカソの弱さがあることを見てとったにちがいない。」第一次大戦に従軍したクレー。スイスへ逃避を余儀なくされた彼の環境を語っている箇所がありました。「晩年のクレーが受苦していた身辺の状況、およびそこでの彼の心理は、第一次大戦後の《沈潜》の頃と同じではない。置かれていた状況はずっと辛く厳しく深刻であり、にもかかわらず彼の心理は外界に向けて開かれていた。~略~こうした逆境に加えて1935年夏には進行性の病いの宣告を受けている。たいがいの人間は、死の近いことを告げられると、何に対してであれ意欲を失ってしまうものだが、クレーは逆に作品制作への情熱を高めた。36年から死の年の40年までに描かれた作品はおよそ2400点、全生涯の作品の約四分の一がこの時期に制作されている。~略~晩年にさかんに描かれた天使の素描画の一枚《いまだ醜く》が今しも彼岸に達しようとしているが、その到達は果たされずにいる。~略~クレーのこの静物画らしき絵は、反転させると、後景の円卓が前景右に来て、花瓶の二輪の花がそれぞれ一輪車で遊ぶ人となる。そして黄色の円卓が今や冥界の太陽に成り変わって光り輝き、手前の死の星たる月と呼応しあう。未完了、浮遊、反転、変容、死との呼応。これら近代が嫌って無視してきた生の在り方が、今や死の力の上で楽しげに演じられている。」