2022.12.25 Sunday
今年7月の個展で発表した作品は、まだ工房の作業場所に置いてありました。梱包材で包んだ板材にしろ、陶彫部品を収納した木箱にしろ、相当な量の作品を置いておくのは、新作の作業にも影響します。これをロフトに上げて保管することは、結構な時間と手間がかかるのですが、工房に出入りしている若いスタッフにお願いして、今日そのロフト上げの作業をすることになりました。週末になると木彫をやりにくる若い彫刻家を中心に、同じように工房に出入りしている女子2名を加えて、私を含めると合計4名で、朝から作業を開始しました。工房の天井には電動リフトがあって、木箱はリフトで吊るしてロフトに上げました。20箱程度の木箱を何とかロフトに収めて、残りの板材は階段を使って持ち上げました。作業にかかった時間は2時間余り。真冬なのに汗が出ました。旧作が目の前から消えたことで、新作に対する拍車がかかり、作業空間が有効に使えます。立体作品につき纏うのは保管場所です。彫刻家によっては倉庫を借りて保管している人もいて、悩みの種になっています。私は幸いなことに父が残した広い場所があるために、工房の内部に作品の保管場所を作ることが出来たのです。私の教え子である若い彫刻家の作品も併せて工房で預かっています。それでもいつまで旧作を保管できるのか、作品が売れなければ、いつまでもここに置いておくことになるのです。実はロフトの整理をずっと私は気にかけていて、ロフトの拡張も考えているところです。もうひとつ気になることは私一人ではロフトの整理がままならないことです。今日は3人のスタッフが手を貸してくれたことが有難いと感じました。クリスマスなのに、こんなボランティア労働に時間を費やしてくれたことに感謝の言葉しかありません。昼には皆で食後のショートケーキを食べました。広くなった工房で明日からまた制作三昧です。
2022.12.24 Saturday
週末になりました。今週の制作状況を書いていこうと思います。今週は日本列島に寒波がきていて、日本海側の各地が大雪に見舞われました。報道を見ると新潟県の国道で多くの車が渋滞し、何時間も動かない状態が続いていました。車内で一酸化中毒になって命を落とされた方もいて、その状況は想像を絶していました。幸い私の住む横浜では降雪がなく、穏やかに晴れた日が多かったのですが、いつ積雪があるかもしれず、備えは万全にしておこうと考えています。今週も毎日朝から工房に通って陶彫制作に精を出していました。寒さは横浜でも身体に応えるくらい増していて、陶彫をやっている手が悴んでいます。大型ストーブから陶彫用の作業台が離れているので、少し作業をしてはストーブで手を温めることをしていて、作業が遅れ気味になっています。冬の陶彫制作は毎年のことなので、それなりに慣れていますが、それにしても今年は寒いなぁと思います。水曜日に8点の陶彫立方体の仕上げと化粧がけが終わり、窯に入れました。木曜日は焼成の関係で工房の電気が使えないことを理由に、東京銀座に行って版画家と漆芸家の親子展を見てきました。金曜日は電気を復旧させて、朝から陶彫制作に精を出していましたが、夕方になって家内と映画「アバター:ザ ウエイ オブ ウオーター」を観てきました。毎週月曜日と火曜日、金曜日に行っているスポーツ施設にも今週は真面目に行きました。手が悴むくらいの寒さであると身体全体も縮こまっているのではないかと思って、定期的な運動は敢えて頑張って続けようと思っているのです。本当に寒くなるのはこれからかなぁと思いつつ、嘗て成人の日あたりに積雪があったことを思い出しました。雪で滑って腰を強打したことも過去にあり、積雪だけは嫌だなぁと思っています。今はどうしても行かなければならない仕事がないので、天候によっては自宅から出ないこともあると考えています。それでも工房には通います。ハンドクリームを持参して創作活動に打ち込みます。
2022.12.23 Friday
昨日は、大学時代から長いつきあいのあった銅版画家とそのご息女の漆芸家による親子展を見に、東京銀座まで足を運びました。私は版画と漆芸が並ぶ作品群に刺激を受けて帰宅しましたが、今日は夕方家内と映画館に行く約束をしていました。朝はいつも通り工房に出かけ、陶彫制作をしていました。このところ寒くなって陶土に触れるのが辛いと感じることがあります。工房は断熱材がない造りのため、気温がほとんど外と変らず、大型ストーブひとつだけの工房は防寒着を着て作業をしているのです。今週は寒くてずっとこんな感じだったかなぁと思っていますが、まだ横浜は雪が降らないだけ幸運と思っています。昼頃はいつも行っている近隣のスポーツ施設で水泳をしてきました。さすがに室内プールは暖かく、水温は丁度いい具合で2時間近く泳ぎました。午後の予定がなければ、また工房に出かけて陶彫制作の続きをやるのですが、今日は都筑区にある鴨居ララポートにあるエンターティメント系の映画館に出かけました。この映画館へ行く時は車を使いますが、いつも途中にある「味奈登庵」佐江戸店に立ち寄って、夕食に蕎麦をいただいています。時折店が混雑していることがあって、映画館のある鴨居ララポートで食事を済ますこともあります。映画は「アバター:ザ ウエイ オブ ウオーター」を観ました。IMAXで3Dという迫力ある空間で楽しみましたが、ジェームズ・キャメロン監督による3時間以上に及ぶ壮大な物語に酔いしれました。映像の美しさは抜群で、とりわけ海の中の不思議な生物たちの饗宴には目を奪われました。物語の核になっていたのは家族愛で、また種族間の摩擦と相互理解もよく描かれていました。全体を通して隅々までデザインされた幻想的世界に、時間が経つのを忘れました。映画に登場する彼らが身につけているアクセサリーも凝った作りになっていて、視覚的にかなり満足を覚える映画ではないかと思います。心配だったのは3時間以上の上映で、途中に休憩が入らないため、トイレに行きたくなったらどうしようと思っていましたが、物語に没頭してしまったため、その心配はなくなりました。詳しい感想はまた後日改めます。
2022.12.22 Thursday
銅版画家加藤正さんは、私の大学の先輩で、若い頃から国内外で発表してきました。樹木や植物をテーマに緻密に絡み合う情景を具現化して、それを腐蝕銅板にしてクオリティの高い画面を作り上げていました。若い頃は小さな下宿で、大作に挑んでいた彼の姿が忘れられません。樹木の枝が集積し、その要素だけで天地創造するような世界を作り上げて、さまざまな版画展で認められていました。最近はイメージを素早く具現化できるモノタイプをやっていて、その数は500点以上に及ぶと本人が言っていました。モノタイプとは、版に直接インクなどの描画材を用いて描画し、その上に紙をのせて圧力をかけることにより、版に描画したイメージを紙へと転写する版画技法です。嘗て作っていた銅版画は複数枚刷れるのに対し、モノタイプは1点ものという技法です。モノタイプに技法が変わっても、彼の樹木や植物に対するテーマは変らず、さらに画面全体が自由になって、色彩も豊かになりました。ご息女の萌さんは、東京藝大で漆芸を学び、岡山県のワイン農家を手伝いながら制作を続けています。写実的な動物がテーマで、住まれている山奥の周囲にはさまざまな野生の動物がいて、動物に出会った一瞬を捉え、乾漆で立体化しています。胴体の半分を漆で覆い、和紙を貼った乾いた部分と漆による鏡面仕立ての部分があって、独特な個性を醸し出しています。夜の闇に姿を現す動物は、このように見えると本人が言っていて、その視点の捉えが面白いなぁと感じました。「加藤正・萌作品展」は銀座7丁目のギャラリー田中で開催していましたが、今日が最終日でした。今まで私は親子別々の個展にはそれぞれお邪魔していましたが、親子展は初めてで、また家内を連れていくのも初めてでした。正さんと私は30年以上の長いつき合いで、いろいろなエピソードがあり、その一部を話したところ、萌さんの知らないこともいっぱい出てきて、楽しい話題になりました。また親子展が出来ることを、私は切望しています。
2022.12.21 Wednesday
幾度となく生前の母に連れられて、私は東京の歌舞伎座で歌舞伎を観ていますが、お世辞にも熱心な観客とは言えず、歌舞伎と言う日本の伝統芸能に何気なく定番を見ていて、その美しさを堪能することがあっても、歌舞伎とは何なのかを問うことは今までしてきませんでした。それは薪能にしても狂言にしても同じで、きっと掘り下げれば面白い経緯もあるのだろうなぁと思っています。若い頃から私は演劇表現が結構好きで、学生時代は当時流行したアンダーグランド演劇に頻繁に通っていました。ウイーンに滞在していた頃は、専らオペラに行っていて立見席で観覧をしていました。劇場に私は何か惹かれるものがあって、その限定された空間に不思議な魅力を感じていることは確かです。現在読んでいる「死と生の遊び」(酒井健著 魁星出版)に、主体となる単元とは別に歌舞伎に関する記事があり、大いに興味を持ちました。長くなりますが、引用させていただきます。「歌舞伎について言うと、その精神的原点は徳川幕府成立以前の戦乱の世の気分、『夢の浮世じゃ、ただ狂え』といった狂乱に開かれた民衆心理にあった。もっと正確に言えば、歌舞伎の誕生は、この狂乱が眼前から徐々に消えてゆくのに応じて、つまり徳川幕府が正式にスタートし(1603年)、全国規模で支配秩序を整えてゆくのに応じて、民衆の間で高まってきた狂乱再興熱にもとづく。まず現れたのは”かぶき者”と呼ばれる常軌を逸した生き方、態度、服装をする男たちである(”かぶき”とは、傾く、常道からはずれるを意味する動詞”かぶく”の派生語)。出雲大社の巫女と称し京都で念仏踊を妖艶に演じていた出雲のお国は、1603年徳川幕府が成立したその年に、遊郭の前身たる茶屋の女(狂言師が扮した)へ通うかぶき者の様子を男装で、しかし官能的に舞ってみせたのだった。お国のこの倒錯的で艶めかしい舞いは”かぶきおどり”と呼ばれて好評を博し、四条河原、北野神社など京都の目抜きの場所で次々に演じられていった。ここにエロティシズムと融合するかたちで歌舞伎が誕生したわけだが、やがて売春を伴った遊女歌舞伎に発展し大きな流行をみせたため、徳川幕府はこれを風俗紊乱のかどで禁止した。遊女に代わって美少年を官能的に舞わせた若衆歌舞伎も男色を助長したため、禁じられた。最終的に認可されたのは、現在まで伝わる野郎歌舞伎である。ただし注目すべきは、今日の歌舞伎もそうだが、1670年代江戸において歌舞伎は、恐ろしい御霊神の気配を体現する激しい演技様式”荒事”(見得もその一つ)を導入した結果、静と動、静寂と騒擾、善と悪の尋常ならざる強いコントラストを生みだせるようになったということである。」歌舞伎の歴史を端的に記した文章で、私はかなり刺激を受けました。芸能の発生には人間臭さが付き纏っていて、興味が尽きません。