Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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  • 22’師走を振り返る
    明日は大晦日で、毎年31日にはホームページの年間総括を行なっています。その関係で今日は今月の振り返りを行うことにしました。12月は明日も工房に行くことにしているため、31日間のうち、明日を含めると29日間を工房に通ったことになります。工房に行かなかった2日間は親戚のミカン畑にミカン狩りに行った後、「江之浦測候所」に立ち寄った日と、東京都庭園美術館に行った日の2日間になりました。残りの29日間は陶彫制作に費やし、22cmの立方体作りに明け暮れていました。新作は木材は使わないつもりでいました。最近まで陶彫だけで来年の個展会場を飾ろうと計画していましたが、私がオーナーを務める集合住宅「RAUM」が今年になって完成し、そこの階段下の広間に作品を置くことにしたので、この急遽作ることになった新作に厚板材を使用いたします。新作イメージはほぼ出来上がっているのですが、来月から実際に作ることになります。今月は只管陶彫の立方体を作っていたのですが、同じサイズの作品制作の繰り返しの中で、陶土に触れるのが日常になって、毎日同じ時間帯に工房に籠っているのです。それは今月に限ったことではありませんが、最近は理想として未来永劫こうした時間が続くといいなぁと思っています。勿論作品は完成して個展で発表していくものですが、私自身は自らの創造世界の終結点が考えられないでいます。究極すれば命尽きるまで同じ時間帯を相原工房で過ごしていたいと願っているのです。それはさておき今月の鑑賞について記します。美術鑑賞は小田原市にある「江之浦測候所」に行って来ました。さらに「機能と装飾のポリフォニー」展(東京都庭園美術館)、「加藤正・萌展」(ギャラリー田中)に行って来ました。映画鑑賞では「THE FIRST SLAMDUNK」、「アバター:ザ ウエイ オブ ウオーター」(両方とも鴨居ララポートTOHOシネマズ)を観てきました。鑑賞としては充実していたと思っています。読書は「死と生の遊び」をとつおいつ読んでいて、内容を楽しんでいます。一日1点ずつ描いているRECORDは相変わらず遅れ気味です。これを何とかしたいと思いつつ今年が暮れていきます。
    陶彫制作&久しぶりの中華街へ
    今日から休庁期間に入りました。校長職にあった頃は、休庁期間を利用して創作活動に徹するために、この期間を待ち遠しく感じていました。連続して陶彫制作を継続できるので、制作目標を立てて、朝から夕方まで気合を入れていました。退職後、そうした高揚した気分はなくなりましたが、晦日も正月も関係なく創作活動に邁進する気持ちだけは変っていません。現在もとりあえず大晦日までは工房に通うつもりでいます。自宅の整理や買い物もありますが、午前中は陶彫制作に時間を割こうと思っています。陶彫という技法は陶土の乾燥具合があって、常に陶土の状態を気にかけていなければならず、教職との二足の草鞋生活では、陶土の長い放置が出来ず、そこが心配の種でした。現在はそれも解消して陶彫制作に精一杯打ち込むことが出来ます。今日は午前中は工房での作業を行い、午後は家内と久しぶりに横浜中華街に出かけました。来年の正月は三年ぶりに従兄弟会をやることになって、そのお年賀を選びに出かけたのでした。お年賀は新年の挨拶代わりに使うモノですが、その品物には横浜らしいモノが良いかなぁと考えたのでした。中華街は大変混雑していて、遅めの昼食を中華街でとろうと考えていた私は若干躊躇していましたが、前に家内が友人たちと中華街に遊びに来た時に立ち寄ったレストランが美味しかったというので、その「状元楼」で並んで待つことにしました。並ぶこと30分で店内に入ることが出来て、昼食のコースを注文しました。こうした機会は私には本当に久しぶりで、中華料理に舌鼓を打ちました。少し散策して帰ろうと思いましたが、混雑振りが激しかったので、用事が済んだら引き上げることにしました。コロナ感染者がまだ高止まりしている状況を踏まえて、無理をしないことにしました。体調を崩してしまえば、創作活動も出来なくなるので、彫刻を作ることが人生最大の目的になっている私は、まずそれを中心に考えるようにしているのです。
    「ジャポニズムⅡ」と「アントニオ・ガウディ」について
    「死と生の遊び」(酒井健著 魁星出版)の2つの単元をまとめます。ひとつは「エミール・ガレの象徴主義」と題された単元で、ジャポニズムの後半部分になります。もうひとつは「奔放な風土との調和」と題されたアントニオ・ガウディに関する論考です。まず象徴主義に関する文章を引用します。「象徴主義が芸術家たちの間で隆盛した一因には、近代の物質文明に対する彼らの嫌悪感がある。近代産業が科学と連携して次々に作りだす新奇な製品(デパートに陳列される商品に始まって街路のガス灯、電話、鉄道に至るまで)に多くの都会人は、生活の豊饒化を感じ、理性の万能、人間の全能すら思って、この物質文明の所産を享楽していたのだが、象徴主義の推進者たちは、そのような目に見えるもの、形あるものに対する近代人の素朴な信仰に精神性の欠如を覚え、その奥へ、目に見える世界の内奥へ、降りてゆこうとした。」そこに日本趣味が入ってきました。「1900年に、ガレは《日本の夜》と題する傑作を制作している。ガラス器の透明感と輝きに訴えかけて彼が表現しようとしているのは、彼自身のメランコリーでもなければ生命の衰退でもない。まったく逆の、自然界の生命の華やぎである。夜の闇も蛾も大方の西洋人から不吉とみなされているのだが、ガレは、そのような人間の自己中心的な価値判断を排して、自然の息吹それ自体へ帰ろうとしている。《日本の夜》という命名からは、日本人の感性の道筋を辿ろうとするガレの意欲、日本趣味を異国趣味より深い次元へ導いてゆこうとする彼の意欲が伝わってくる。」次に建築家ガウディに関しての記述です。「《サクラダ・ファミリア》全体の起源は何なのか。カイロ近郊の”鳩舎塔”なのだろうか。たしかに形状はよく似ているが、私はむしろ、ガウディがこよなく愛したカタルーニャの岩山の群れモンセラートの山々を考えている。平原の真中で唐突にそそりたつこの巨大な奇岩の群れ、上昇への生命力を異様に帯びたこの自然の巨塔の群れが、ガウディを通して、《サクラダ・ファミリア》を創造させたのではあるまいか。~略~芸術作品は、すぐれたものであればあるほど、作者の思惑から自立して、生きた物質のように奔放な生命力を放ちだす。芸術家は、自分をあざけることになるかもしれない作品を作ることに血道をあげてしまうのだ。無益な自己否定という”遊び”に命を賭してしまうのである。」
    新聞記事「間にあるのは何だ?」
    今日の朝日新聞夕刊に彫刻家若林奮の「雰囲気」と名付けられた立体作品の論評が掲載されていました。故若林奮先生は、私が大学で彫刻を学び始めた頃に、その大学の教壇に立っていられましたが、先生が所属されていたのは彫刻学科ではなく共通彫塑でしたので、私は直接教えを乞うことが出来ませんでした。当時から先生の立体作品は不思議な魅力があって、私はよく個展にお邪魔していました。私にとって謎だらけの立体作品と不可解な題名に何かヒントを得ようと思って、先生の講評会にも何度か伺いましたが、そこで話されていた距離や空間という認識が今ひとつ私の理解が覚束ず、造形に対する思索と言うのも私には縁遠いものと思っていました。当時私は人体塑造をやっていて、目の前にある人体の骨格の把握に悩んでばかりいて、距離や空間まで意識が回らなかったのだろうと思い返しています。彫刻は立体であり、その存在は空間があってこそ成り立つという極めてシンプルな解答に辿り着くには、海外生活も含めて時間が必要だったと振り返っています。記事を引用します。「寡黙にして多くを語らずとも、それが難解な思索の結晶であることだけは確かに感じ取ることができる。一定の距離を挟んで向かい合う人物と犬。中央に置かれた四角い紙の囲いが、両者の間に横たわる何ものかの存在を示唆している。上からのぞき込んだら、何が見えるのだろうか。~略~そもそも若林にとって、距離や空間とは数値で表されるような均質なものではなく、『そのつど伸びたり縮んだり変化しながら体感させるもの』であったらしい。」(西田理人著)作品の題名に「振動尺」とか「所有・雰囲気・振動」とあるのは、作家独自の概念によるものであることが分かってきました。自分にとって空間とは何か、その空間の解釈として作品(解答)を存在させていくというのが若林流の方法論で、それは自分の理念にも通じていると言えます。
    映画「アバター:ザ ウエイ オブ ウオーター」雑感
    先日、膨大な制作費をかけて作られた映画「アバター:ザ ウエイ オブ ウオーター」を観てきました。これはアメリカ映画の面目躍如とした壮大なエンターティメント作品で、この世界観を生み出すのはアメリカ以外では不可能ではないかと思いました。博士として出演もしている女優シガニー・ウィーバーさんのメッセージが図録にありました。「『アバター』シリーズの作品複数に参加してきて、ジム(ジェームス・キャメロン監督)がいかに大画面に映る何もかもに心血をそそいでいるのかを目の当たりにしてきた。無限の想像力や創造性を、彼は至るところに丁寧に盛りこんでいる。ジムが生み出す新しいキャラクターや、多様なナヴィの暮らしぶりや、独特な動植物や、パンドラ全体が醸し出す美しさには驚かされるばかりだ。」森で穏やかな暮らしを送っていた家族が、外敵であるスカイ・ピープルの襲撃に遭い、故郷の森を去る決断をして、海洋生息地に住む部族の許に身を寄せます。この巨大なマングローブに縁取られた牧歌的な島々と海中がこの映画の主な舞台になり、家族を追ってきたスカイ・ピープルと対峙することになるのです。物語は人種の壁や、環境に特化した暮らしぶりなど、さまざまな要素に彩られ、そこかしこにエピソードが綴られていきますが、現在の世界を凝縮したような敵対する人の心理や、やがて解きほぐされる共感と連帯がよく描かれていました。映像はそれだけでなく、幻想的なファンタジーがいくつもあって、私が目を奪われたのは「精霊の木」と称される海中に存在する巨木と化したモノでした。図録に「”祖先の入り江”の水面下には特別な存在である”精霊の木”があり、海に住むナヴィはそこに宿るエイワと繋がり、自分たちの先祖と交流する。」とありました。エイワとは「種が環境とうまくバランスをとり、調和して生きていくことを可能にするネットワーク」とあり「地球上では”すべてにおける相互関連性”は、多くの場合、精神的な概念として捉えられるが、パンドラでは物理的に触れることのできる存在である。」という説明がありました。私たちが得てきた知的概念をこのように映像化、可視化して見せていることに本作の特徴があると私は思います。ファンタジーに信憑性を持たせるために、外観のデザインのみならず、内容の面でも創造する必要があったと私は考えました。そこに生息する人々には人種の多様性を受容させ、その前段階として家族愛を謳っていたのでした。本作は3時間以上に及ぶ超大作と言える映画で、観る前はその長さが気になりましたが、あっという間に物語に惹き込まれ、非日常の世界観に浸ることができました。イメージを膨らませることが出来たことでも、観て良かったと思える映画でした。