2020.02.21 Friday
私の職場で発行している広報誌に禅画に関する文章を寄稿しました。このところ鞄に携帯している書籍として「あそぶ神仏」(辻惟雄著 ちくま学芸文庫)に親しんでいて、禅画を扱った章に登場した白隠と仙厓の世界観に、私自身もいろいろ考えさせられることがありました。鑑賞者として作品を見るには、それなりの学びがないと作品を堪能できないと私は実感しています。白隠と仙厓の世界観を利用して、そんなことを広報誌に書きましたが、鑑賞する側の学習準備は、禅画に限らず抽象絵画にしろ、現代のアート全般にも言えることです。ルネサンス以降の写実絵画は、いわゆる写真に近く、対象を絵画理論に基づいた正確さで描いています。それは絵画の良し悪しを分かり易い判断で決められると私は考えます。うまいか、へたかという判断基準は、見方や感じ方について洞察をする必要もないからです。ただ、うまいか、へたかの価値づけはうわべだけをなぞるだけで、表面に現れたもので芸術の何たるかを考えることにはなりません。自分が不可解に思える芸術に接した時が、自らの見方や感じ方を問い直す契機になると私は考えています。作者の思いや社会背景や時代を先取る前衛的な思考などを考慮して、初めて作品の価値が分かるものです。白隠と仙厓の禅画は、若い頃私が感じたことと、現在私が感じていることの間に大きな隔たりがあります。展覧会を見に行くことは、非日常の世界に接することで己の心を開放し、それによって癒されると同時に、自分の固定観念に対する新しい感覚の開拓を求められることにも繋がっています。私にとって展覧会場は休息の場であり、学習の場でもあるのです。鑑賞者としての学びは、創作活動への応用でもあります。私が実技と鑑賞を両輪と考えている要因は、そんなところにあるのです。
2020.02.20 Thursday
「あそぶ神仏」(辻惟雄著 ちくま学芸文庫)のⅢ「浮世絵春画と性器崇拝」についてのまとめを行います。私が浮世絵春画に出会ったのは20代の頃、ヨーロッパに住んでいた時代でした。ウィーンの芸術書を扱う書店に、ドイツ語版の浮世絵春画の画集がありました。そんな書籍を日本で見たことがなく、芸術書としての扱いに驚くと同時に妙に納得してしまった自分がいました。さっそく購入して下宿先で見ていましたが、それを見たからといって刺激を与えられることもなく、性器の誇張がパロディのようでいて、いかにも日本人らしいなぁと感じました。性器崇拝に関して文中から拾います。「道祖神は元来、境にあって異界から共同体を護る僻邪神であり、豊穣多産の神であって、男根、女陰をかたどるものであった。それが現在の双体道祖神のほとんどのように、手を取り合う男女といった微温的なものに変わったのは、性行為の露出が人倫にもとるとする近世の儒学者の非難をかわすための方便と見られる。しかしその底にある性器崇拝の思想は根強く伝えられ、決して根絶やしにはなってない。」縄文時代から日本人は大らかで、性に対しても開放的だったのではないかと思う節があります。春画にしても陰気な感じがせず、私はそこに様式美を感じ取ってしまいました。「春画における性器誇張の由来は、まず『古今著聞集』にあるような『絵そらごと』としての視覚効果の追求に求められる。だが民俗学的観点に立つならば、そこには同時に、縄文以来のphallicism(男根崇拝)の伝統を引く呪術性ー僻邪、多産、和合の神としての性器崇拝の観念が多分に重なり合っているように思われる。江戸時代後期になると、都市の春画と地方農村の道祖神との間に興味深い影響関係があらわれる。春画の図様が道祖神に取り入れられ、春信の『口すい』が接吻道祖神といわれるものに転用される。一方、春画の性器誇張が一段と高じるのが18世紀後半になってからである。」
2020.02.19 Wednesday
「あそぶ神仏」(辻惟雄著 ちくま学芸文庫)のⅡ「近世禅僧の絵画」のうち、白隠に次いで仙厓のまとめを行います。私にとって白隠に比べると仙厓は未知の禅僧で、どこかの展覧会で童心をそそる「指月布袋図」を見たことがあるくらいです。仙厓の生涯を紐解くと、白隠と同じように長寿を全うしていて、しかも晩年になるにしたがって、画風は円熟期を迎えています。仙厓は、寛延3年(1750)今日の岐阜県武儀郡武芸川町高野に生まれていて、貧農出身であったことが分かっています。文中には「11歳に当たる宝暦10年、近くの清泰寺の住職空印円虚に望まれて徒弟となり清泰寺で得度したと伝える。」とありました。天明7年、仙厓に大きな転機が訪れ、博多の聖福寺に赴くことになったのでした。「75歳の盤谷(住職の盤谷紹適)は仙厓の人物と学識に引かれて自らの後継者と決め、翌寛政元年(1789)仙厓は40歳で清福寺第123世住職を襲った。以後88歳で亡くなるまでの約半世紀が『博多の仙厓』の時代である。~略~藩の武士や地元の文人、儒者、商人から近所の長屋の酒吞み、児童にいたるあらゆる階層の人たちの求めに応じて気軽に書き与えた彼の軽妙飄逸な書画が、その明るい気質と機知に富んだ言動と相まって『博多の仙厓さん』の名声はうなぎ上りに高まり、殺到する書画の注文が彼を悩ますようになった。」仙厓の絵画を見てみると、白隠に比べて温和な画風で、文中にこんな箇所もありました。「彼は、箱崎浜、袖の湊、大宰府、玄海島など、博多近郊の風景をこよなく愛し、これらの真景図を多く残している。~略~総じて彼の絵画は、同時代の人に文人画と呼ばれている例があるように、白隠画に比べ南画的要素がはるかに強い。」これが仙厓の仙厓たる特徴だろうと思うところですが、玄人まがいの技巧を身につけた書画は、その後一転していきます。彼の代表作「寒山拾得・豊干図屏風」にはこんな文章がありました。「仙厓の全作品の中にあってむしろ異例なほどその描写が稚拙で粗っぽいことに意外な感じを受けるだろう。これまであげたような彼の5、60歳代の諸作品は、彼の筆技がその器用さにも助けられて熟達の度を増し、専門画家の域に達しつつあることすらうかがわせるのだが、この屏風の画風はそうした方向にむしろ逆行する。」これはどういうことでしょうか。「たしかなことは書画とも相まって彼が目指す境地ー技巧の衣装をすて彼の人格が直接滲み出るような『無法の法』に近づいていったということである。」成程、そういう境地に達したことだったのか、これを知って私は改めて仙厓の魅力を感じ取った次第です。
2020.02.18 Tuesday
「あそぶ神仏」(辻惟雄著 ちくま学芸文庫)のⅡ「近世禅僧の絵画」のうち、白隠についてのまとめを行います。私が白隠を知ったのはいつごろだったのか、そんなに昔のことではないように思っています。白隠の達磨像を見て、今風の漫画のように描かれていて、しかも伸び伸びとした自由闊達な運筆に、不思議な迫力とともにかなり奇異な感じを持ったことで印象に残っているのです。文中に「彼の画や書の力作には、隣に並んだ一流の画家や書家の技巧を吹きとばしてしまうような恐るべき破壊力が秘められている。『白隠の絵には私とても美を感じません。エタイの知れぬ力丈を感じます』とは、白隠の蒐集家として有名な故山本発次郎氏の言葉である。」とありました。まさにその通りで、白隠の作品は一見して記憶に刻まれてしまう特異な作風があると思っています。白隠の生涯を紐解くと、貞享2年(1685)12月25日に駿河国原(沼津市原)に生まれています。「11歳のとき、母に伴われ日蓮宗の僧が地獄の苦しみをつぶさに語る説法を聞いて大きな衝撃を受け、母と風呂に入ったとき薪の火を見て焦熱地獄を思い出し泣き叫んだという、異常に感受性の鋭敏な子であったらしい。以来、地獄に対し恐怖心抜けやらず、それから逃れるには出家以外にないと思いつめ、両親に願い出て15歳のとき出家し、時の松蔭寺の住職単嶺のもとで禅を学び慧鶴と名づけられた。」その後、正受老人の薫陶を受けて「白隠が得た教訓は、一度や二度の悟りの体験で自己満足せず徹底を求め不断の修行をつみ、禅定力、いいかえれば信念の精神力を不動のものにすることの必要性であった。」白隠は84歳で生涯を閉じていますが、弟子によって年譜が2つに分けられています。「白隠のくわしい年譜をつくったその後継者の東嶺はこれまでの白隠の42年間を『因行格』すなわち彼が自己の向上を求めて修行を重ねた時期とし、以後の42年を『果行格』すなわち彼が利他行ーそれまでの修行の結果として得たものを人に伝えひろめることーのために全力を投入した時期としている。」とありました。「隻手の声」は一般人が悟りを開く公案として有名になりました。白隠の絵画として有名なものは達磨を描いた祖師像ですが、戯画も多くあって、なかなか愉快な世界を形成しています。「白隠の禅画の中で数の上では最も大きな割合を占め、かつ親しまれているのが、市井の風俗や擬人化された動物などを画題とした戯画である。ただの戯画でなく、画にかこつけて禅の思想を民衆に対しておもしろおかしく説いた寓意戯画であり、布袋のような禅機図上の人物もこれに加わって画題を賑わす。」とあり、老いてますます盛んになるエネルギッシュな画風は最晩年まで続きます。「龍沢寺の自画像は恐らく白隠の絶筆に近い作品であろう。最晩年の特徴であるプロポーションのくずれがここにも目立ち、手は異常に大きい。指には爪が長くのびていて、維摩像のそれを思わせる。もはやこの世の人とは思えない風体なのだが、ひきつけられるのはその前方に注がれた『雲一点もない青空のような空虚の瞳』(草森紳一)である。」
2020.02.17 Monday
「石を聴く」(ヘイデン・ヘレーラ著 北代美和子訳 みすず書房)は「イサム・ノグチの芸術と生涯」を扱った評伝で、第2章と第3章のまとめを行います。第2章「ディア・ベイビー」はイサム誕生のことが書かれていました。「イサム・ノグチは1904年11月17日、ロサンジェルス群立病院で生まれた。これは慈善病院で、レオニーにはそれ以上の余裕がなかった。~略~『ロサンジェルス・ヘラルド』紙が『ヨネ・ノグチの赤ちゃん、病院の誇り、作家の白人妻、夫に息子を贈る』の見出しで記事を掲載した。~略~ノグチは自分の誕生についてこう考えをめぐらせている。『ぼくは偶発的な事故であり、不慮の出来事であり、迷惑だったのではないかと疑っている』」。両親の事情を知るにつけ、イサムの誕生は喜ばれてはいないことを本人も知っていたのでした。次にレオニーが日本行きを決めた理由が当時の社会動向にあったことが書かれていました。「レオニーが日本行きを決意したきっかけは、日本人移民に対するカルフォルニアの考え方が変わったことだろう。日露戦争中、アメリカ人は親日的だった。しかし戦後、日本が中国大陸でとった拡張主義はアメリカ側から非難を浴びており、とくにカルフォルニアにおいてはそれが顕著だった。~略~息子に荒々しい誇りを抱き、人種差別の棘から守ろうとする母親にとって、こういった変化はたしかに落胆を誘った。」第3章「東京」にイサムが2歳の時に母子は船で日本に渡ったことが書かれていました。出迎えた野口米次郎がイサムという名を付けたようですが、日本での母子の立場も微妙で、とりわけ文化の違いに戸惑っている様子が伺えました。こんな文章が目に留まりました。「レオニーとヨネ(米次郎)はイサムの文化的混乱を悪化させたかもしれない。『あなたは日本のベイビー?』とレオニーが尋ねると、イサムは父親のほうを向き、イエスと言った。ヨネがアメリカ人のままでいたいかと尋ねると、母親のほうを向き、イエスと言った。」イサムの創作への契機はどんなところにあったのか、イサムは自伝にこんなことを書いています。「『最初のうれしい思い出は、新設の実験的な幼稚園にいくことだった。園には動物園があり、園児たちは手を使ってものをつくることを教えられた。ぼくの最初の彫刻はそこでつくられた。粘土を波の形にし、青い釉薬を使った。』イサムの波の彫刻は『幼稚園でかなり話題になり、母はそのことを決して忘れず、ぼくがいつの日かアーティストになることを期待しつづけた。』」この幼稚園は今も現存する森村学園です。世界的彫刻家の初めの一歩はこんなところにあったのかと思いました。