Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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  • 週末 1ヶ月ぶりの陶彫制作
    今日は朝から工房に篭りました。先週末で1ヶ月以上に及んだ板材刳り貫き作業が完了しました。次の制作工程は砂に硬化剤を混ぜて板材に貼っていく作業ですが、工房に出入りしているスタッフを集めて、数人がかりで一気にやってしまいたいと思っています。そのための時間調整が必要になり、来週末はどうだろうと何人かに声をかけています。同時に砂マチエールと硬化剤が充分あるのかどうかも確認しなくてはなりません。東京神田にある老舗の画材店から砂マチエールと硬化剤を例年取り寄せていて、在庫があるのか連絡もしたいと思っています。今日は1ヶ月ぶりになる陶彫制作を進めていくことにしました。陶土を混ぜ合わせるための土錬機を久しぶりに動かしました。好調に土錬機が動いてくれたので、内心ホッとしました。座布団大のタタラも数枚掌で叩いて準備しました。明日は陶彫の成形を行ないます。陶彫部品は屏風に接合する陶彫部品と床に置く陶彫部品は出来ていますが、それらを繋ぐものをまだ作っていないのです。砂マチエールの工程が始まるまでは、陶彫制作に没頭するつもりです。仕事が木から陶へ変わり、技法に対する意識も変えていきました。陶土は可塑性があって柔らかく、板状にしても重力に耐えられないことがあります。少々乾燥させて陶板を立ち上げていきますが、土錬機から陶土を出した状態では何もすることができません。タタラにして一晩放置する必要があるのです。木材はそんな待ちの時間など必要ないのですが、削りを間違えると取り返しがつかなくなります。木と陶は一長一短で作業の段取りがまるで異なり、私にしてみればそれもまた楽しいと感じます。今日は染めをやっている若いアーティストが午後になって顔を出しました。午前中は展覧会の搬出で茨城県に行っていたとのこと、こちらに帰ってきて間髪入れずに新作に取り組んでいました。なかなかのバイタリティで、可憐な女性に見える彼女のどこにそんな力が潜んでいるのかちょっとびっくりしました。陶彫制作は明日も継続です。
    ブランクーシの制作環境
    ルーマニアの彫刻家コンスタンティン・ブランクーシとアメリカの日系彫刻家イサム・ノグチ。師弟関係であった2人に私は強い興味関心を抱いていて、それぞれのアトリエを訪ねています。20代の頃、ヨーロッパにいた私はパリにあるブランクーシのアトリエを見てきました。もう40年も前のことなので、微かな記憶しかありませんが、憧れの彫刻家が制作した場所は、その張り詰めた空間だけが印象に残っています。同時期にルーマニアにも足をのばし、民俗的な建造物に装飾された文様にブランクーシの原点を探ったこともありました。イサム・ノグチは、四国の高松にあるイサム・ノグチ庭園美術館を訪ねていて、そこにあったスト-ンサークルに感激し、それらしい空間を自分の工房にも作ろうと思い、規模的には小さいけれど、工房に隣接する野外工房を私は持ちました。私を駆り立てているのは、まさにこの2人の巨匠です。「石を聴く」(ヘイデン・ヘレーラ著 北代美和子訳 みすず書房)の中に、ブランクーシの制作環境を描いた箇所があって、そこの部分を取り出します。「ノグチのようにブランクーシもまた少年時代、カルパチアの山中で羊飼いをしていたときに木彫を学んでいた。その後使用人として働きながら一丁のヴァイオリンを彫り、才能を認められて土地の美術工芸学校に入れられた。ブカレストとミュンヘンでいくらかアカデミックな修業をしたあと、1904年にパリまで徒歩でいき、エコール・デ・ボザールのクラスに出席した。しかしルーマニア民俗芸術の記憶ゆえに、結局はアカデミックなアートに背を向け、写実主義的な肖像表現を『ビフテキ』と呼んで揶揄するようになった。ロダンを称賛はしていたが、『大樹の陰ではなにも育たない』と言って弟子にならないことを選んだ。~略~ノグチはブランクーシのアトリエを『基本的な形態を抽出するための実験室』と呼んだ。アトリエの空間とその備品の荒削りの簡素さは、ブランクーシという人間の純粋性と活力の反映に思われた。~略~ブランクーシは一種のオアシスをつくりあげ、そこではその彫刻と生活とが一体化していた。ノグチのつくりだす空間もまた、そこを訪れる者が時の外へと運ばれていく安息所となるだろう。~略~このルーマニア人彫刻家はおそろしく規律正しい人だった。アトリエ内では『すべてがつねに清潔だった』とノグチは回想する。『そこらじゅう石だらけだったにもかかわらず』ブランクーシはいつも『たいへんこざっぱりした人物』だった。やがてノグチもまたアトリエ内の道具の置き場所にはほとんど強迫観念的にこだわり、またブランクーシ同様に自分の彫刻作品の展示法を大いに気にかけるようになる。」
    イサム・ノグチ 師との出会い
    「石を聴く」(ヘイデン・ヘレーラ著 北代美和子訳 みすず書房)は「イサム・ノグチの芸術と生涯」を扱った評伝で、今回は第9章「ぼくは不滅の人びとと並び立つでしょう」のまとめを行います。ノグチはフランスのパリに旅立ち、そこで現代彫刻の父と称されるルーマニア人彫刻家コンスタンティン・ブランクーシと出会い、助手を務めることになります。「ノグチが1927年3月31日のパリ到着からおよそ1ヶ月後にブランクーシの助手になったことは否定出来ない。」という一文があり、パリ滞在の様々な憶測の中で、意外にも早くブランクーシの下で働けたことは事実のようです。渡仏後もラムリーはノグチを支援し続け、交友関係や読書にも意見を述べていました。ノグチからの手紙の中でこんな箇所がありました。「時間!ぼくに時間を、だが中断されることなき時間をください。そうすればぼくは不滅の人びとと並び立つでしょう。」パリでノグチと付き合い始めた女流画家ルランはこんなことを言っています。「イサムはブランクーシと同じルーマニア製の木靴を履いていたほどブランクーシに傾倒していましたわ。ブランクーシの仕事一途の生活を、繰り返し話していました」また敬愛していた師匠のブランクーシにノグチはこんなことも感じていたようです。「ブランクーシを絶賛はしていたものの、ノグチはブランクーシはもはや新しい分野を切り開いているのではないかと感じた。」つまり実質的には既に新しいことをブランクーシはやり尽くしていて、完璧にするため磨きをかけるくらいしかないのではないかと思っていたことも確かだったようです。それでもブランクーシに学んだことはとても多く、その後のノグチの彫刻家の生きざまを決定づけたとも言えます。「ブランクーシと過ごした数ヶ月のあいだノグチがやっていたのは、ブランクーシの方法と思想とを吸収することによって自分自身にモダニズムへの準備をさせることだった。~略~ブランクーシはノグチに教えた。『捨て去るべき習作としてものをつくっては絶対にいけない。いまある自分よりも先に進みつつあると考えては絶対にいけないーなぜならばこの一瞬に全力を尽くすことで、きみは将来なりうるのと同じほどに優れたものとなれるからだ。きみがいましていること、それがすべてなのだ』。~略~ノグチとブランクーシの両方にとって彫刻は起源への回帰、原始のフォルムの追求を意味した。ノグチは、ブランクーシが『ほんとうの彫刻の起源、それがどのようにして思いつかれ、つくられたのか、その起源にもどることを望んでいた』と語っている。」この章にはブランクーシの制作環境に触れた部分がありました。それは別稿を改めたいと思います。
    イサム・ノグチ 彫刻家への道
    「石を聴く」(ヘイデン・ヘレーラ著 北代美和子訳 みすず書房)は「イサム・ノグチの芸術と生涯」を扱った評伝で、今回は第8章「ぼくは彫刻家になった」のまとめを行います。今まで2章ずつまとめていましたが、第8章と第9章に関しては、ノグチの生涯のエポックとなった出来事を扱っているため、1章ごとのまとめを行います。「イサムは1923年1月に医学の勉強を始めた。~略~イサムはコロンビア大学医学予科コース在学中に野口英世博士と出会う。~略~イサムが野口博士に忠告を求めたとき、博士は父親と同じように芸術家になるほうがよいだろうし、より正直だろうと言った。」ノグチは支援者だったラムリーの勧めで医学の道へ進もうとしましたが、医学には馴染めず、母の勧めでレオナルド・ダ・ヴィンチ美術学校の扉を叩いたようです。校長のオノリオ・ルオトロの援助でいよいよ彫刻家への第一歩を踏み出したノグチ自身の言葉が掲載してありました。「ぼくは夜学に通いはじめた。でも、そのあと続けてはいかれない、仕事があるし大学にもいっているからと告げた。ルオトロは、私のために働いたらどうだ、レストランの仕事はやめなさい、同額を支払おうともちかけてきた。抵抗のしようがあろうか?自分の意志に反してではあったけれど、それでもぼくは彫刻家になった。」さらにノグチは名前にも拘りました。「アーティストという新たな役割を主張するために、イサムはふたたび父親の名を名乗った。より散文的な『ギルモア』より『ノグチ』のほうがアーティストには好ましい名前だと考えたのである。」入学後すぐにノグチは頭角を現しました。「イサムは学校で初の個展を開いた。石膏とテラコッタ22点が展示された。ルオトロは若き愛弟子の天才を広く宣伝したいと考え、イサムを『新たなるミケランジェロ』と呼んだ。~略~イサムはすぐに、ナショナル・アカデミー・オブ・デザインや建築家同盟のような権威ある団体の会員に選ばれる栄誉を得た。」ここで初期具象の代表作が登場してきます。「ナディアはバレリーナで、1926年にイサムのモデルになり、長時間無料でポーズをとってくれたので、イサムは作品の売値のパーセンテージを払うことになったほどである。初期のアカデミックな彫刻のなかでもっとも有名なこの作品は《ウンディーヌ(ナジャ)》と題され、その制作には八ヵ月かかった。」さて、イサムはいつ頃モダニズムの潮流を浴びたのか、こんな文章がありました。「イサムがモダニズム彫刻家に変身するきっかけとなった出来事は、1926年にダダ・アーティストのマルセル・デュシャンがブラマー画廊で企画したブランクーシ展を見たことだった。~略~日本的な簡潔さの重視と素材の尊重に親しんでいたこともまた引き金となって、ノグチはブランクーシの作品にたちまち魅了された。」その後、ノグチはグッゲンハイム奨学金を得てパリに旅立ちます。第9章ではブランクーシとの出会いが待っています。
    3月RECORDは「藍」
    今年のRECORDのテーマを色彩にしています。1月は「白」、2月は「灰」にしてきましたが、今月から有彩色にしていこうと思います。考え方としては基本となる色相環の色彩ではなく、RECORDとして絵画的またはデザイン的にもイメージし易い色彩を選ぶ方法をとっていこうと思っています。3月の色彩を「藍」に決めました。藍は藍染めとして広く使われる色彩で、濃淡や色味に幅があります。外国人化学者より「ジャパンブルー」と命名された通り、暖簾や手ぬぐい、風呂敷などに使われ、日本の伝統に根ざした色彩という意識があります。工房に通ってくるアーティストは、藍染めを多用した現代的な表現を追求していて、彼女の仕事を身近に見ている私は、日常的に藍がイメージし易いのです。藍はタデアイという自然染料を使うこともありますが、大量生産にはインド発祥のインディゴ染料が多く使われているようです。世界的には紀元前3000年頃のインダス文明の遺跡から藍染め染色槽跡が発見されたので、人類史から見れば古くから愛用されてきた染料だったと言えます。日本には飛鳥時代から奈良時代に入ってきて、近代に一時生産を中断したこともあったけれども、現在は日本を代表する色彩の一つになっていると言えるでしょう。諺に「藍より出でて藍より青し」という名言があります。教えを受けた者が教えた師よりも優れるという意味ですが、工房に行くと若いアーティストの作品が、まさに「藍より青し」だなぁと思わせるところがあり、私も背中を押される気分になります。今月は「藍」で頑張っていきたいと思っています。