2020.06.23 Tuesday
「形式論理学と超越論的論理学」(エトムント・フッサール著 立松弘孝訳 みすず書房)を先日から読み始めています。本書は本論に入る前に「序論」があります。ここでは本書を執筆するに至った動機が述べられていますが、これについて到底私は簡単にまとめることが出来ず、その都度気になった文章を拾い上げることにしました。まず、学問とは何かについてです。「新しい意味での学問はプラトンによる論理学の基礎づけによって初めて成立するのであり、そしてその論理学とは、《真の》知識と《真の》学問の本質的な諸要求を究明し、そうすることによって学問の諸規範を明示する場であった。」諸科学の隆盛が論理学との相互関係を逆転させてしまっていることを憂いたフッサールは、こんなことも書いています。「論理学は、学問の純粋な本質的諸規範をそれらすべての本質形態について考察することによって、諸学を原理的に指導し、諸学が自ら真の方法を形成して、その進路のすべての段階で自らその責務を果たしうるようにすべきであるのに、今や論理学は論理学自身の学の理想と問題提起においても、事実学に、とりわけ人々が驚嘆する自然科学に導かれることに甘んじている。」また本書の目的として「真の学問の理念を学問の規範である論理学へ歴史的に回帰させることによって喚起させる一つの道」と述べています。論理学自身はどうかと言えば「この論理学の課題自身も、学問一般の真の意味を明らかにして、それを明確に理論的に開明することでなければならない。」としています。これについては「形式論理学本来の意味の志向的開明」であるとして「この開明は歴史的な経験が概観的にわれわれに提供してくれる理論的な形成物〔=概念や判断〕から、すなわち形式論理学の伝統的な客観的内容を組成している事物から出発して、それらの形成物を〈意味形成物として成立させた論理学者たちの生き生きとした志向〉の中へ引き戻すのである。」本書は第一篇「形式論理学の基本的概念の三層構造」と第二篇の「主観的ー論理学的な事柄」で成り立っています。加えて第二篇では「主観の側にかかわる意味の諸問題はすべて、自然な人間の主観性の諸問題すなわち心理学的な諸問題ではなく、超越論的な主観性の諸問題、しかも(私が導入した)超越論的現象学の意味での諸問題だ」と述べられています。うーん、頭を論理学とは何たるものかに切り替えていかないと、これは容易に読破できないかなぁと思いつつ、本書を閉じました。今日はここまでです。
2020.06.22 Monday
「石を聴く」(ヘイデン・ヘレーラ著 北代美和子訳 みすず書房)は「イサム・ノグチの芸術と生涯」を扱った評伝で、今回は第12章「自然に理由を見つけるために」と第13章「大地との固い抱擁」のまとめを行います。本書は2ヶ月読書を控えていて、久しぶりに戻ってきたのでした。というのはイサム・ノグチの母の伝記「レオニー・ギルモア」(エドワード・マークス著 羽田美也子 田村七重 中地幸訳 彩流社)を先に読んでいたためです。芸術家が誕生する契機とはどんなものか、母の生涯を通して私はその背景を探りたかったのでした。そこを踏まえてノグチの東洋への旅をまとめてみたいと思います。第12章の舞台は中国です。奨学金を得て、ノグチはまず中国の北京に滞在しています。「北京で過ごした日々、ノグチはできるかぎりすべての中国美術をむさぼるように吸収した。15世紀の寺院『天壇』に魅了された。ノグチによれば、そのフォルムは宇宙と地球の関係観念を表現した宇宙論を意味する。広大な寺院群のなかでノグチにもっとも強い印象をあたえたのは、円と正方形を組み合わせた段状の木造建築だった。」後年、ノグチの制作した公共的な彫刻作品に、円と正方形が象徴的な意味をもって登場してくるのは、この時期の影響かもしれません。次の第13章では日本への旅が綴られています。父野口米次郎との確執で微妙な関係だったにも関わらず、ノグチは京都を訪れています。「ノグチは京都で暮らした4、5ヶ月を『大いなる内省と沈黙の時期』と呼ぶ。『なにか原始の素材でアイデンティティを求めながら』『大地との固い抱擁』を楽しんだ時期だった。」この時期は陶芸に親しんでいたようです。「子ども時代に母から手ほどきをうけた仏教庭園の再発見は、彫刻のとりくみについて新たな考え方を促した。ひとつの彫刻が自己規定されたオブジェである必要はなかった。それは空間や庭園でもあるうるし、大地もまたアートの素材たりえた。」ここには重要な空間解釈があって、共感と共に私の心を打ちます。「日本に対するノグチの感情は曖昧なままにとどまった。わが目で見た外国人排斥と軍国主義はノグチにとって嫌悪の的ではあったが、それでも日本文化に対する情熱は消えなかった。」
2020.06.21 Sunday
梱包用木箱は東京銀座での個展が始まった当初から、陶彫部品を収めるために作っていますが、昨年から美術品運送業者の指導を受けて、木割を合板の補強として使った木箱を製作しています。昨年作った木箱の余り材料があったので、作り方を思い出しながら、今日から実際に木箱を作り始めました。今回個展に展示する陶彫部品も数が多く、幾つくらい木箱が必要なのか見当がつきませんが、搬入までの残りの週末は全て木箱作りと収納に費やします。昨年は電動タッカーを購入して作業効率を上げたことも思い出しました。昨年の木箱は全てロフトに上げているため、それらを一時保管していた場所が空いているので、今年もそこに収納が終わった木箱を積んでいこうと思っています。幸い今年の陶彫部品は昨年に比べるとやや小さめなので、規格の木箱からはみ出る心配はなさそうです。まず余り材料で5つくらいの木箱は用意できそうですが、今年も合板や木割材を補充しなければならず、それは来週末に建材店に行こうと思っています。今月中に何とか目途が立つでしょうか。合板をどのくらい使ったのか、木割材がどのくらい必要なのか、昨年の記録が残っていたので助かりました。今日も午前中は梱包用木箱作りに充てて、午後からは最新作品の彫り込み加飾を行ないました。最新作品2点目の陶彫部品は大き目の作品なので、なかなか手間がかかります。半日しか制作できないので、思うように進みませんが、梱包だけで一日を過ごすよりは、多少なりとも創作活動に関われた方が精神的な充実が図れて満足できます。今日も先週に続き、美大受験を考える高校生がデッサンを描きに工房に来ていました。描写の調子を上げつつある彼女は、デザイン系の構成をやりたいと言っていました。このデッサンが完成すれば、平面構成をやらせようかと思っています。工房に出入りしている先輩大学生の受験の時の平面構成があるので、それを参考に平塗りを教えていこうと思っています。私は高校時代に色彩が駄目で工業デザイン進学を諦めた過去があり、平面構成に関しては複雑な心境ですが、工房に出入りしている子たちは皆んな色感があり、私よりも優れたデザイン適性を持っていると思っています。そんなことを考えながら彼女のデッサンを見ていました。
2020.06.20 Saturday
週末になりました。個展の搬入まで数えるくらいしか週末がない中で、出展作品の梱包を最優先していますが、つい作りかけの最新作品が気になってしまい、今日も梱包の後で、創作的な仕事を入れてしまいました。梱包は「発掘~突景~」の3本柱を1本ずつ包みました。ビニールシートにエアキャップを貼って、作品が傷まないように配慮しているのです。次の梱包は数多くある陶彫部品になるので、いよいよ木箱を用意しなければなりません。明日からの梱包は陶彫部品になります。午後からは最新作品に取り組みました。現在作っている最新作品は50センチの高さがある直方体で、幅は30センチあります。先週末に成形が終わっているので、彫り込み加飾の下書きをやっていました。この時期は梅雨とはいえ、陽が照ってくると夏本番の暑さになります。雨が降ると一転して涼しくなるため、どうも体調が思わしくなく、今日も工房で6時間ほど作業をしていましたが、身体に妙なダルさがあって、気持ちよく作業は進みませんでした。最新作品はイメージが見えているようで、曖昧なところが多く、彫り込み加飾の下書きも陶板の表面に鉄針であたりをつけてみたものの、気に入らないので全てやり直しました。彫り込み加飾は工芸的な作業ですが、実は手間も時間もかかります。彫り込み加飾は明日も継続になりました。1点ずつ陶彫部品を丁寧に作って、それを集めてひとつの世界を創出させる計画は、始めたばかりのこの段階ではまだ先が遠くて、全体図はぼんやりとした霧に覆われています。1点ずつ近視眼的に部品を作っていく作業は、精神的には楽な反面、最終的にはどんなものになるのかハッキリと見えず、多少の不安を抱えています。創作の面白さはまだこれから起こってくるもので、今は我慢を重ねていく制作工程にあります。一気呵成に出来ない集合彫刻の生真面目な歩みこそ、自分らしさが出ると私は思っていて、焦らず休まずをモットーにして頑張っていこうと思っています。
2020.06.19 Friday
私は久しぶりに難解な思考に網羅された専門書を読もうとしているのですが、今までもなかなかそれに手が出せず、若い頃のように途中放棄をしたくないため、これから読んでいく書籍には慎重にならざるを得ません。自分の頭脳を一定時間それに費やさないと解読が出来ないので、今の職場の立場で休憩時間が取れる時に、自分を追い込んでいくのが得策と考えることにしました。自宅でゆっくりしている時は絶対に頭に入ってこない領域のひとつだからです。職場での休憩時間は45分なので、それ以上その日は読まないこととして日々取り組んでまいります。「形式論理学と超越論的論理学」の著者であるエトムント・フッサールは現代に至る現象学の体系を創始したオーストリアの学者として知られた存在です。フッサールは最初数学者として出発しましたが、現象学を提唱にするに至って20世紀哲学の流れを作ったという情報もあります。嘗て私が読んだ「存在と時間」を著したマルティン・ハイデガーは、フッサールの弟子でした。フッサールとハイデガーは論理の齟齬から袂を分かつことになりますが、双方とも自分が興味のある論理を展開したため、今回の読書に繋がりました。本書は現象学を紐解くために傍らに置いた方がよい書籍とされているので、フッサールの思考を考える上で重要なものだろうと思います。私が本書にどのくらい食らいついていけるのか、NOTE(ブログ)では小さなまとめを掲載したいと思っています。今までも専門書のまとめを掲載してきましたが、これは読者への語り口というより、私が自らのために行っているメモと思っています。読者には迷惑なことですが、ご容赦ください。