2020.06.18 Thursday
「レオニー・ギルモア」(エドワード・マークス著 羽田美也子 田村七重 中地幸訳 彩流社)を読み終えました。世界的に有名になった彫刻家イサム・ノグチの母であり、詩人野口米次郎の妻であったレオニー・ギルモアとはどんな人物だったのか、イサム・ノグチの伝記から読み取れるレオニー・ギルモアは、常に脇役であり、運命に翻弄されるままの女性という印象を私は持っていましたが、どうもそれだけでは語れないところがあるように思えました。運命を受け入れても自立した人生観を持ち、自発的行動力が伴っていることに、私は驚きました。また、イサム・ノグチの彫刻作品に対し、息子に信頼を寄せつつ、的確な批評をしていることも特筆できます。「訳者後書き」にこんな文章がありました。「実際、レオニーの受けてきた教育を知り、彼女が人生の節目、節目に自ら決断し、行動し、人生を自らの手で作りあげてきたことを知るにつれ、わたしたちはレオニー・ギルモアが、単に献身的で犠牲的な女性であったという考えは全面的に改めなくてはならないことに気がつく。~略~また、母としてのレオニーが、イサムを芸術家にするために、いかに強い目的意識をもってあたったかを知るにつれ、彼女の意志の強さに驚かざるを得ないのである。レオニーと野口米次郎との関係はある意味、悲劇的な結末を迎えたといえるが、案外そこに悲壮感がないことも興味深い。シングルマザーとして子どもを育てるレオニーの生活は、経済的には切迫していたものの、彼女はいつも前向きで、希望と活力に溢れている。」(羽田美也子・田村七重・中地幸 著)イサム・ノグチの芸術家としての出発に欠かせない母の存在、レオニー・ギルモアを知れば知るほど、彼女の生き様を通して芸術家の母としての揺るがない意志力に、私には頷けるものがあると感じました。
2020.06.17 Wednesday
昨日、東京板橋にある板橋区立美術館で開催中の「深井隆ー物語の庭ー」展に行ってきました。板橋区立美術館は過去に数回訪れたことのある美術館で、規模は大きくないけれど美しい空間をもつ美術館です。ただし、私の住む横浜からはかなり遠くて、嘗ては公共交通機関を使ったので電車を乗り継ぐのが大変でしたが、車で行くと割とすんなりと行ける美術館だったことが分かりました。彫刻家深井隆氏は私より5歳上の木彫家で、同じ世代と言ってもいいと私は勝手に思っています。経歴を見ると、藝大のアトリエで制作していた彼の方が恵まれた環境にあったように思いましたが、樟を使い、椅子や馬を象徴的に扱っている作品は、どこかの機会で拝見したことがありました。重厚感のある木彫の椅子に翼があったり、馬の上半身が彫られていて、これは何を意味するのか考えたこともあり、ただ、これは単体として彫刻を見せるのではなく、周囲の空間を意識して詩的なイメージを掻き立てるものではないかと察していました。何しろ空間の捉えが美しく、彩色した彫刻に自然な美を見て取れるのは、作家本人のイメージや考え方がしっかりしているためだろうと思いました。私がやっている陶彫もそうですが、自分の中で技術も含めて充分実材を咀嚼しておかないと、実材ばかりが目立ってしまい、何が作りたいのか分からなくなる傾向があるのです。作家のイメージが優先して見られるのは、長年にわたって樟という素材に、作家が正面から真摯に取り組んできた証と言ってもいいと感じました。質が高く、緊張した空間に私自身も活力をもらった展覧会でした。最後に図録にあった言葉を引用いたします。「『人間の存在とは何か、これを椅子、馬、柱といった形をかりて表現したい』という言葉からも明らかなように、深井が40年以上にわたる制作の中で作り続けたのは、人間の存在である。深井が人間の存在をテーマとしながら、作品の中に人間の形が認められないということは、ある特定の時代の人物ではなく普遍的な人間の姿を追求しているからであろう。」(弘中智子著)
2020.06.16 Tuesday
今日は職場を休んで亡母の用事を済ませてきました。母は東京都大田区蒲田に生まれています。そのため戸籍謄本を取るのに大田区役所に行く必要があり、家内と蒲田駅前にある大田区役所に自家用車で行ってきたのでした。母は大正15年生まれで、18歳まで蒲田に暮らしていました。母が生まれた時の住所は荏原郡蒲田町大字で、実家は和菓子屋を営んでいたようです。母は川崎にある高等女学校を卒業し、横浜の父の元に嫁いできました。戦前の横浜市保土ヶ谷区(旭区)は、鬱蒼とした雑木林に田畑が広がり、車は滅多に見かけず、道の舗装もない片田舎でした。相原の家は所有している田圃からコメを収穫し、それを保存して自給自足の生活をやっていました。戦後になって私が生まれた頃の相原の実家にはまだ土間があり、そこに大きなコメ蔵がありました。台所は薪で火を起こしていて、台所の裏には五右衛門風呂もありました。今でこそ懐古趣味を擽りますが、当時の私はそんな実家の構造が嫌いでした。母も都会育ちだったので私と同じような気持ちになっていたでしょう。私や妹が学生になり、母は育児から解放されるとさまざまな稽古事に手を出し、青春を取り戻そうとしていたように見えました。大田区役所では古い記録を探すのに手間がかかっていたようでした。昼ごろに書類が整い、私たちは大田区から板橋区へ向かいました。東京都をほぼ横断するように首都高速を走りぬけ、板橋区立美術館に辿り着きました。多くの美術館の展示が始まっていない中で、板橋区立美術館が現代彫刻家の個展を開催していたので、久しぶりに美術館に足を運びました。「物語の庭 深井隆」展は5月10日に閉幕していたはずがコロナ渦の影響で会期を延長していたので、詩想に溢れた木彫の大作を見ることが出来たのでした。今まで外出自粛が続いていたため、美術館という空間に改めて新鮮さを感じ、彫刻という実材を伴う立体表現を実際に見ることは、何て素晴らしいことなのだろうと思いました。空間の中に点在する彫刻の凛々しさに私の気持ちもストンと落ちて、自分もこの世界の端くれにいることに誇りを持ちました。「物語の庭 深井隆」展の詳しい感想は後日改めますが、とても快い時間を過ごせました。
2020.06.15 Monday
「レオニー・ギルモア」(エドワード・マークス著 羽田美也子 田村七重 中地幸訳 彩流社)の「第6章 帰国」についてのまとめを行います。世界的彫刻家イサム・ノグチの母であるレオニー・ギルモアはどんな生涯を送ったのか、本書の頁を捲りながら彼女の人となりを考えていきたいと思います。「レオニーとアイレスは横浜港を1920年1月25日に中国郵船会社の南京号で出港し、2月11日にサンフランシスコに到着した。」東京や神奈川で過ごした日本に別れを告げ、母子はアメリカに帰りました。イサムは先にアメリカにいて、当時を振り返ってこんな文章を書いています。「この頃母はどうにかしてアメリカに戻ってきた。サンフランシスコに着き、間もなくニューヨークに到着した。母は多色刷りの版画や真珠、そのほか細々した物など、日本の物品を専門に輸入しようと考えていた。彼女はニューヨークのイースト10丁目にアパートを借り、私はそこに一緒に住んだ。~略~この頃私はまだイサム・ギルモアという名前で通っていて、完全にアメリカ人として順応していた。私には全く日本を醸し出すものはなかった。しかし自分が彫刻家であることを意識し始めると、私は心ならずも自分の名前を変えた。自分にはおそらく名乗る権利のない名前を名乗ったのだ。母は狼狽したが、反対はしなかった。そうしてむしろ私が母を離れ、日本を苦しみの中で選ぶのを黙認したのだった。」レオニーはイサムに芸術家としての人生を歩ませるために学校を探してきました。「イサムを芸術的運命へと引き戻すための最初のステップは、彼をアートスクールに入れることだった。1924年、レオニーはイサムが興味を持ちそうなアートスクールの噂を聞いた。前年12月に開校したばかりの、レオナルド・ダ・ヴィンチ・アートスクールである。~略~1924年にイサムは尊敬すべきオノリオ・ルオトロの下で学び始めたが、すぐにルオトロの推薦で、地域の芸術家グループの会員にもなっている。イサムの初期の肖像彫刻は主として友人のものであり、ラムリー博士は義父である故エメット・スコットの胸像を注文してくれた。ニューヨークに来て以来、イサムは父親の日本人の友人二人ー舞踏家の伊藤道郎と細菌学者の野口英世ー庇護の下にあったが、両者ともに、医学の道は捨てて、芸術家になれと励ましてくれた。」イサムは1927年に奨学金を得てパリに旅立っています。その後のイサム・ノグチの活躍はよく知られていますが、レオニーとイサムは手紙のやり取りをしていて相手を気遣う様子が伺い知れます。「イサムが12月17日(1933年)ニューヨークに戻ったときには、レオニーはすでに1週間近く入院していた。実は、かなり長い間レオニーの健康はすぐれなかった。心臓に問題があったのだが、動脈硬化がそれを悪化させていた。クリスマスが近づき、過ぎてしまっても、病状は回復しなかった。そして12月31日夕方6時30分に心臓発作を起こして、亡くなった。」レオニー逝去をもって第6章はここまでにいたします。
2020.06.14 Sunday
昨日、「発掘~聚景~」の屏風裏面の塗装が完了し、塗料は一日で乾いていました。そこで今日から作品の梱包を始めることにしました。屏風になっている厚板6点は、それぞれ別々に梱包することにしました。ビニールシートにエアキャップを貼って、砂マチエールを保護するように包みました。6点もあるので思ったより時間がかかり、午前中いっぱいかかりました。砂マチエールが厚板についているため重量はかなりあって、包んだ厚板を工房の端に運ぶのに一苦労でした。これで屏風は全て梱包されて工房の作業空間から姿を消しました。来週末は陶彫部品を収納するため木箱を作らなければならないなぁと思っています。午後は最新作品に取り組みました。一日中梱包をやっていると、創作意欲が失せるので同時並行して最新作品に取り組むことにしたのでした。陶彫部品の1点目は既に成形と彫り込み加飾が終わっていて乾燥を待っている状態です。今日から作り始めた2点目は高さが50cmくらいあって、少々手間がかかります。実はこれは一段目でさらに高くしていこうと思っています。午前と午後で梱包と制作を分けてやっていますが、なかなか手強い作業になって疲労が溜まります。一日工房で過ごしているとヘトヘトになります。今日も先週に続き、美大受験を考えている高校生がデッサンを描きに工房に顔を出しました。彼女は先週より調子が良さそうで、だいぶデッサン力が戻ってきたように思いました。夕方になって完成したデッサンに満足していました。高校はまだ通常通りになっていないようで、半日で帰る日が続いていると言っていました。梅雨になり、雨が降ったり止んだりしていました。昨日もNOTE(ブログ)に書きましたが、周囲の木々は潤っていて美しいと感じますが、身体を使う作業には鬱陶しい季節になって体調がおかしくなりそうです。また来週末もこの作業の継続です。