2020.06.28 Sunday
昨日に続いて今日も朝から工房に篭り、梱包用木箱作りを行ないました。7箱作ったところで木材が足りなくなりました。昨日建材店に行って木材の追加注文をしてきたので、今日の午後3時過ぎにベニア板材を取りに行ってきました。木箱作りはすっかり慣れてきました。とりあえず20箱を作ろうと思っています。今日は建材店に行くまでに多少時間が空いたので、最新作品の彫り込み加飾をやっていました。2点目の陶彫部品は高さ50cmあって、これが一段目になります。さらに上に陶彫部品を積み上げていく予定です。最新作品は直方体に矩形模様を彫り込んだものを数多く作っていく計画でいます。今日は朝のうち雨が降っていましたが、午後になって曇りに変わりました。工房には毎週来ている美大受験生がデッサンを描きに来ていました。昼過ぎに染めのアーティストが工房に顔を出しました。工房に置いてあった染め粉や道具を取りに来たようで、作業台の下やロフトにあった道具を車に運んでいました。静岡で仕事があるとのことで、自分の技能で仕事が出来るのは幸せなことではないでしょうか。昨日来た文学系の子もそうですが、最近の工房スタッフは若返りが見られています。10代の子たちがやって来るようになるとは、俄かに信じ難いなぁと思います。これから自己表現活動を行なう子たちは、まさにスタートラインに立ったばかりで、真摯に自己発展を求める道と横道に逸れる迷いが生じて、決して安定した状態ではないはずです。ただし、工房という空間環境が迷いを遮断するものではないかと察していますが、どうでしょうか。私は創作活動にしても、今のような梱包作業にしても、コツコツ地道にやることで物事を達成してきました。彼女たちも同じかもしれません。私はまた来週末も梱包作業に追われているはずです。
2020.06.27 Saturday
週末になりました。朝から工房に篭って梱包用の木箱作りに精を出しました。昨年から木割を補強材として取り入れた木箱作りをやっていて、昨年の作り方を思い出しながら数点の木箱を作りました。工房の床に置いてある陶彫部品の数をざっと見積もると、20箱くらいは必要かなぁと思いました。ベニヤ板も木割も足りないことが分かって、今日は建材店に行ってそれらを補充してこなければなりませんでした。梱包用の木箱作りは創作活動ではありませんが、自分にとって退屈な仕事ではありません。祖父が大工、その先代も大工をやっていたおかげなのか、私はこうした仕事が苦にならず、寧ろ楽しんで出来ることを幸いに感じています。梅雨の鬱陶しい季節ですが、工房にいる間中、梱包作業に追われていました。今日は工房に若いスタッフが顔を出していました。毎週来ている美大を受験する高校生ではなく、同じ高校生でも文学をやっていきたいと考えている子で、彼女は詩や随想を書き溜めています。高校時代は私も詩人に憧れていた時期がありました。私の実家には文学的な環境が整っていなかったために、文学全集などは一冊もなく、詩に触れたのは高校の教科書を通してでしたが、授業の中で扱った詩の世界に惹かれてしまったのでした。私はコトバを操ることを途中で諦めて、美術の専門家になるべく人生の舵を切ったのでしたが、彫刻家になっても詩的な世界観がなければ創作活動は出来ないと今でも思っています。一緒に昼食をした時に、彼女のノートを見せてもらって、その初々しい感性に溢れたコトバに接しました。現在はネット社会であり、疑似体験が容易に出来ることが利点でもあり、また難しい点でもあることが分かりましたが、いずれにしても自分が感じたことを、コトバを通して表出できることは素晴らしいと思いました。この世界を継続して欲しいと願ってやみません。夕方、彼女を車で送りながら建材店に材料の買出しに行ってきました。ベニヤ板材の切断数が多いことと店が閉まる間近だったことで、ベニア板材の引き取りは明日になってしまいましたが、梱包作業は明日も継続する予定です。
2020.06.26 Friday
「石を聴く」(ヘイデン・ヘレーラ著 北代美和子訳 みすず書房)は「イサム・ノグチの芸術と生涯」を扱った評伝で、今回は第16章「社会的目的をもつアート」と第17章「メキシコ」のまとめを行います。1933年に連邦政府によるアートプロジェクトの最初のひとつである芸術計画公共事業(PWAP)は始動したけれども、ノグチの作品は認められず、名簿から外される辛い仕打ちを受けました。そんな中で社会的な意味をもつ話題作「死」が作られました。「ノグチが『ニューヨーク・タイムズ』に語ったところによれば『人間に対する人間の非人間性』に対する抗議だった《死》の輝く身体は、炎の熱を避けようとするかのように脚を曲げ、死の苦しみに身をよじっている。ドラマにさらに切迫性をあたえるために、ノグチは像を本物のロープで金属の絞首台から吊るし、それによって鑑賞者をもこの犯罪の加担者とする。」また舞踏家マーサ・グレアムの舞台装置を手がけ、新たな空間を創出しています。「グレアムと仕事をすることでノグチは空間を彫刻し、装置をダンサーの動きの一部にできた。『マーサの場合、魔法のようなその小道具の使い方は驚異的だった。マーサは小道具を自分自身の身体の延長として使った』。『彫刻だったのはロープではない。ロープが創造した空間、それが彫刻だ』」。次の章ではメキシコに旅立ったノグチが、プロパガンダ的な壁画運動に参加したことが書かれていました。「ノグチは1935年最後の2ヵ月間に壁画レリーフの仕事をし、1936年はじめに完成させた。8ヶ月間のメキシコ滞在は最近のニューヨークでの怒りと欲求不満を鎮めてくれた。」また壁画運動の旗手ディエゴ・リベラの妻フリーダ・カーロとの情事もあったようです。「カーロは当時28歳、その美しさの絶頂にあり、ふたりはすぐに情事を始めた。官能的な唇とつながった二本の眉の下の突き刺すような視線、カーロはありきたりの美女よりもはるかに強くノグチを魅了した。」メキシコでは刺激的な日々を過ごしていたようです。
2020.06.25 Thursday
「石を聴く」(ヘイデン・ヘレーラ著 北代美和子訳 みすず書房)は「イサム・ノグチの芸術と生涯」を扱った評伝で、今回は第14章「孤独な旅人、社交界の花形」と第15章「空間の彫刻に向かって」のまとめを行います。日本からアメリカに戻ったノグチは、世界的な恐慌を迎えて景気が悪くなる中で、前から取り組んできて家計を助ける唯一の手段である肖像彫刻をやっていました。注文は減っていたけれども、社交界との交流があって、ノグチは何とか著名人の肖像を作り続けていたのでした。そうした中で半抽象的なフォルムへ転回する試みが見られ、美術関係者からこんなコメントが寄せられていました。「リーヴィは、日米の血を引くことが『ノグチの作品を特徴づけるある種の両義的態度』に貢献しているのかと問いかけた。『ノグチはつねに抽象と具象、事実と意味の関連づけのあいだでうまく平衡をとろうとする一方で、はっきりいえば東洋的目的と西洋的目的の厳格な解釈を遂行する』」。次の章はノグチの求める世界がさらにモニュメンタルになっていく過程を描いていて、私には興味があるところです。「写実にあらずして人間的に意味のある彫刻、抽象的であると同時に社会的意義のある彫刻…アイデアは絶望の中で、夜、星を探しているときに生まれてきた」というノグチの言葉の通り、早くもこの時代に巨大なアースワークを模索していて、こんな文章もありました。「このモニュメントを『西部大草原のまんなか』あるいはオクラホマのどこかに建設したらどうかと提案した。『だが、ぼくはちょっと時代の先をいきすぎていた』たしかにそのとおりだった。40年後、アースワークは彫刻の分野における新たな展開としてもっともエキサイティングなものとなる。」そんな一方でノグチには母レオニーの死去という運命が降りかかります。「12月17日、ニューヨークに到着し、母親が肺炎を発症し、12月12日に人手不足で患者過剰のベルヴュー病院に入院したことを知った。2週間後、レオニーは59歳で息を引きとる。母を失うことはノグチにとって胸を張り裂かれる出来事だった。ひとつには母親の愛情をよりどころにしていたこともあって、自分が母をないがしろにしてきた、ある意味で捨て去ったのだと感じたにちがいない。」先日まで読んでいた母の伝記とは違うニュアンスが読み取れて、私には興味深く感じました。
2020.06.24 Wednesday
私は常に書籍を鞄に携帯しています。通勤途中で読むものは、比較的容易な内容のものにして、どこを開いても気軽に入っていける書籍がいいと思っています。書籍を選ぶ際に、私は癒しの時間として気軽に読める書籍と、自己研鑽として扱う書籍の2種類のものがあると思っています。現在、イサム・ノグチ関連の書籍を読んでいますが、これは国際的彫刻家が自己表現を広げていく上で、どんな空間解釈を獲得するに至ったのか、私にとっては自己研鑽に匹敵する要素もありますが、伝記の中に頻繁に出てくるエピソードには癒される面もあり、2種類の両方が存在している書籍ではないかと思っています。もうひとつは職場に置いていて、時間を決めて読んでいる論理学に関する書籍で、これには癒しの効果はありません。自分の思考を深化させるものと私は認識して、この重厚な哲学的論考に挑んでいるのです。まさに自己研鑽としての読書です。これはさらさら読めるものではなく、単元ごと、または頁ごとに行きつ戻りつしながら、論考の意図するものを把握しようとしています。こうした書籍を読破すると、私の中で部分的に印象に残るところがあり、時よりその論考が頭をもたげてくるのです。今まで読んだもので、それは人間関係の心理的な綾であったり、死生観であったり、モノの存在に纏わる基本的な考え方であったりしています。そもそも事実学ではないところが、芸術を生涯の友にしている自分にとっては必要と考えていて、自己表現を深めるべきものだろうと思っています。