2020.02.01 Saturday
やっと週末になりました。今日から2月です。中国の武漢から発生した新型ウイルスによる肺炎が、毎日マスコミで取り上げられていて、また恒例となったインフルエンザも猛威を振るう季節になりました。私も基礎体力を心配する年齢になったのか、足がもたつく時があります。私は長く創作活動に携わっていきたいので、何か自分でも出来そうな健康維持、体力維持の方法を考えていこうと思っています。創作活動に関する今月の制作目標は機会を改めるとして、今日のことについて触れていきます。今日の午前中は工房で屏風の厚板の刳り貫き作業をやっていました。やはり土曜日は昨日までのウィークディの疲れが残っていて、作業を行う身体の動きが緩慢でした。休息を兼ねて、午後から家内を誘って東京の博物館に展覧会を見に行くことにしました。東京上野にある東京国立博物館平成館で開催中の「出雲と大和」展、同博物館東洋館で開催中の「人・神・自然」展は、あちらこちらで見かけるポスターの面白さで目を留めていました。「人・神・自然」展のポスターは、地中海からアジア・アフリカ・中南米の古代文化に由来する工芸品の仮面を画面にぐるりと配置して、それだけで私の関心は高まりました。「出雲と大和」展のポスターは、出雲を象徴する銅鐸、大和を象徴する画文帯神獣鏡を左右に配置して、神の世と人の世を比べてみるような働きかけが感じられて興味が湧きました。「出雲と大和」展にしろ「人・神・自然」展にしろ、双方とも古代文化を焦点化していて、私にとってはまさに自己表現に反映できる要素が満載でした。のんびり疲れを癒されに行った展覧会でしたが、内容は思索的で、自分の創作活動に何かを与えてくれる刺戟が詰まったものでした。展覧会を見て、疲れた身体に鞭を打たれた按配になり、明日からの創作活動に闘志が出ました。これで良かったのかどうか…ともあれ今日は充実した時間を過ごせました。今日は前述した新型ウイルスやインフルエンザのこともあって、人が多く集まる東京上野にはマスクを着用して出かけました。最近マスクが売り切れているそうですが、家内が早めに購入していたので、当面マスクは常備してあります。「出雲と大和」展と「人・神・自然」展に関しては後日改めて詳しい感想を書こうと思います。
2020.01.31 Friday
1月はあっという間に過ぎた感じがします。昨年暮れから続いていた休庁期間(閉庁日)があったため、陶彫制作はかなり頑張れたように思っています。新作は屏風と床を繋ぐ陶彫部品を残すのみとなり、今月の週末は朝から夕方まで制作三昧でした。床置きの陶彫部品が焼成まで完了し、屏風に接合する陶彫部品も乾燥を待って窯入れするだけになっていて、このところ調子がいいのかなぁと思っている次第です。このままいけば良かったと思えたところを、屏風の厚板の刳り貫き作業に手強さを感じています。そう易々と完成できないのが創作活動で、今回も苦労苦心が精神性という魂を呼び込むかもしれません。毎回のことなので気構えは出来ていますが、先行きの心配は尽きません。今月の鑑賞は美術館に行けず、敢えて挙げれば美大の卒業制作展に行ったくらいでした。映画鑑賞は「ゴッホとヘレーネの森」、「台湾、街かどの人形劇」(2本ともシネマジャック&ベティ)に行きました。両方ともドキュメンタリーで見応えのある映画でした。RECORDは下書きがやや溜まってきています。このNOTE(ブログ)にしろRECORDにしろ、また夜の工房通いも考えていましたが、仕事から帰ってくると、夜の時間帯は睡魔に勝てず日々の制作が滞ります。加齢のせいか気力が湧かない日もあって、これはどうしたものだろうと思う時もあります。創作は精神の産物なので心の持ちようで変わるはずです。読書は芸術民俗学の書籍を読み終えて、次はどれにしようか思案しています。自宅に関してはリニューアルが始まる予定で、ここで気分転換が図れるかもしれないと期待しています。来月も頑張りたいと思います。
2020.01.30 Thursday
「呪術としてのデザインー芸術民俗学の旅」(中嶋斉著 彩流社)を読み終えました。あとがきに代わるものとして「旅の終わりにー沈黙のデザイン」という最終章がありました。そこには日本独特の宗教観やら、そこから導き出されるデザインが論じられていて、本書は最後まで私自身のツボにハマる話題に事欠きませんでした。私も若い頃に東欧で遭遇した祭りに不思議な親しみを感じていて、旧家に育った自分に馴染み深かった昔の匂いのようなものを重ねていたところがありました。その頃は本書にある時間軸や空間軸を縦横に走る論考はなく、今から思えば己の予感に頼った感覚でしかなかったなぁと振り返っているところです。「日本の宗教の特色は、底に流れるシャマニズムであるといわれている。一口にいえば巫覡の術であって、それを最もよく反映しているのは修験道である。~略~日本人が古来からうけついだ自然崇拝と外来の仏教や道教とが結びついて成り立ったもので、山野に臥して苦行の末に霊界に参入し、体得した霊力によって神霊祖霊を操ることが可能になるという信仰である。」岡倉天心は東京美術学校(現東京藝術大学)を創立した人物ですが、著書「茶の本」の中で茶を巡る哲理を説いていて、つまり創作に纏わることにも考えが及んでいます。「天心には19世紀末のヨーロッパに出会った明治期の人びとの喪失した神を芸術に探し求めた姿が読みとれるのであるが、同時にすぐれたデザインの思想をきくことができる。つまり虚の世界にあってこそ心の自由が許されて宇宙の気を感じることができるのであって、逆にいえば、あるべきデザインとは虚なる時空間の創造であるということである。」また、こんなことも述べられていました。「祭りの本義は明かりが消え、闇につつまれた世界が再び明けそめる幽玄の時空にかくされていたように、デザインもまた形なりその組み合わせがなされる以前に発想の不思議があって、それは個性的でありながら普遍性をもったデザインであり、自然の循環の理と共にあったのである。」以上で本書を閉じることにします。
2020.01.29 Wednesday
石材に自分の氏名印を彫ることは、創作活動を始めた頃から継続してやってきています。私の立体作品は陶彫部品を組み合わせる集合彫刻なので、部品ひとつひとつの隠れた場所に印を貼っています。具体的には和紙に捺印し番号を付けたものを接着しているのです。そうすることで年代別、作品別の区別がつくようにしていて、数多い陶彫部品が混乱することを避けています。長い間に自作の印がかなり増えてきたなぁと思っています。大きい印面であれば、氏名そのものをデザイン化して彫ることも可能ですが、小さい場合はイニシャルだったり、さらに抽象化したシンボル・マークだったりしています。一日1点ずつ制作しているRECORDも1点ずつ印を押して日付をスタンプしています。もう文具店で見かけないアナログな数字スタンプを10年以上も使っているのです。RECORDの印は毎年彫っていて、2020年の新作を漸く彫り終えました。印材も小さなサイズのものを使用するため、近隣の画材店で扱っていないことも多く、印材を求めて東京の大手画材店に出かけていき、まとめ買いをしてきました。以前にNOTE(ブログ)にも書きましたが、印は伝統的な篆刻もあれば、ほとんど抽象絵画のようなデザイン化されたものまで、私は幅広く作っていて、書道家が作られているような拘りが自分にはありません。印に小宇宙を感じ、それを楽しんでいるのは私だけではないと思っています。便宜上作っている印ですが、ひとつの作品として成り立つこともあるかなぁと思っています。
2020.01.28 Tuesday
「呪術としてのデザインー芸術民俗学の旅」(中嶋斉著 彩流社)の第3章の4「フォークロアの意匠」についてのまとめを行います。本書も終盤に差し掛かり、洋の東西を問わず芸術民俗学としての事象が露見されるさまざまな場面を取り上げていて、論考が盛りだくさんになっています。祭祀空間として相撲から始まり、土俵から占星術に繋がるくだりは興味津々でした。さらにギリシャの時代にあった円形の闘技場も宗教に絡んだ意匠であり、こうした祭祀空間は洋の東西において存在し、また巡礼に関する象徴的な意味合いや、それに纏わる杖や水の解釈にも惹かれました。その中で私は蹲踞(つくばい)に関する箇所が目に留まりました。私の父が造園業を営んでいたおかげで、私は庭に蹲踞を据えた体験があるのです。「安土桃山時代にはキリスト教が伝来し、その影響が茶の作法に及んでいると思われる。~略~茶事はミサででもあろうから、織部灯篭をかくれキリシタンたちが拝んでいたであろうということも充分に察せられる。しかし蹲踞は滝の信仰のうつしである。その形式がととのうのは江戸中期だろうが、蹲踞が手水鉢を中心にして左右に湯桶石と手燈台を配した形になっているのは三山信仰を形象したもので、前石につくばって拝むのはこの御(霊)山である。」さらに水に関するこんな一文もありました。「水はかくて現世利益の効験あらたかな観音であり、死せるキリストを抱く聖母に重なる。大慈大悲のマリア観音を生む素地は水の信仰である。」また心の御柱についても触れた箇所がありました。「神と共に遊ぶことが芸能であって、相撲の横綱は仕切られた空間の中央に柱をたて神の座を定める儀礼の立役者であった。また茶の湯も一座建立して茶をすするが、茶を点てるというのは一椀の中に仏性を観ずることであって、それ故に茶は立つというのである。」巡礼に関する箇所で目に留まったのは「巡礼はある聖地への単一の聖地への巡礼型と、多くの霊場をめぐる円周型巡礼があるといわれ、熊野詣は一応前者に属し、西国三十三ヶ所めぐりや四国遍路は後者のものであろう。~略~むしろ長い苦行を重ね、さまざまな変身をとげながら、地霊の世界に降りついて、再び新しい生へと辿ることが巡礼である。」というところで、師匠の池田宗弘先生も辿ったスペインのサンティアゴ・デ・コンポステラに触れた部分もありました。私はキリスト教信者ではありませんが、イエスの磔刑図は身近な存在で、嘗て磔刑像を彫っている夢を見たことがありました。それを鑑みると次の文章が気になりました。「十字(架)は樹木に吊るされたキリスト像によってキリスト教そのものの象徴となってしまった感があるが、元来はきわめて土俗の信仰の表れであって、樹木のもつ永遠不滅の生命力や精神性の象徴として用いられていた。そのすっくと立つ巨木の垂直軸は天と地をつなぎ、根は深く冥界に達して生命のよみがえりを約束する。そして幹からは樹液に養われた枝が四方に延びて大地をおおい、星の世界に及んでいる。この樹木を側面から抽象すれば十字(架)となり、上(下)から俯(仰)看すれば円環または車輪のイメージを作る。」第3章の4「フォークロアの意匠」についてのまとめを行なうつもりで、多義に亘る論考に接して私の考えも二転三転してしまいました。ついにまとまらなかったにも関わらず、この章は楽しすぎて自分の考えを散らかしたまま終わらせることになってしまいました。