2020.01.10 Friday
「呪術としてのデザインー芸術民俗学の旅」(中嶋斉著 彩流社)の第3章の2「映像に見るヒューマニズムの変貌」についてのまとめを行います。この章ではフォト・ジャーナリズムについての考察が述べられていて、報道写真が多くの人に与えた影響も窺い知ることが出来ました。私も時折、写真展に出かけることがあり、そこで切り取られた瞬間の映像化に感銘を受けることもありました。ニューヨーク近代美術館で開催された「人間家族」展は、私が生まれた年に日本にも巡回してきたらしく、人種や国境を超えて人類が一つの家族になって絆を深めていこうとする企画は、後世に語り継がれていった展覧会だったようです。その源泉ともなった技法に関して述べられた文章がありました。「ルポルタージュと呼ばれるものが、表現効果をねらうあまりに写真を単なる素材として技術的に処理してしまう傾向が強く見られたのに対して、(ドキュメンタリー・フォトは)映像の独自の表現力をより尊重しながら、事件の原因を追究し、テーマを深めていく方向を打ち出そうとしたのである。~略~写真を組み合わせたピクチュア・ストーリーは、分かり易い的確なメッセージを伝えるという利点があり、映像の事実らしさと具体性は、言語の抽象性にまして数倍の説得力をもち、国境をこえた共通の言語となり得る点が高く評価されたのである。」さらに現代に至っては事件の目撃というリアリズムに対する別の視点が設けられることになります。「フォト・ジャーナリズムは、今まで知られることなく認められることもなかったものを探り出し、それらに価値と栄光を与え、逆に奢れるものに対しては自ら善意の告発者となろうとしてきた。そしてかつては言語が負っていた役割の一部を引き受けて、更に言語が語りえなかった雄弁術を開発してきたが、その最大の原因は忠実な目撃者としての確からしさへの信頼をかちとったことであった。しかし映像言語が自立の道を模索するとき、次第にリアリズムを離れ、確からしさを裏切る。その過程をいち早く知って論じたのはモホリ=ナギであっただろう。」
2020.01.09 Thursday
「呪術としてのデザインー芸術民俗学の旅」(中嶋斉著 彩流社)の第3章の1「ヴィクトリア朝の映像」についてのまとめを行います。副題として「ポルノグラフィー&フォトグラフィー」とあって、近代になって性文化に関する媒体の時代変遷があり、小説や写真術が齎せた影響などが述べられています。「ポルノグラフィーは17世紀におこり、19世紀に隆盛を見る。その歴史的現象は、巨大な近代産業社会を作り上げた過程と切り離すことができない。そして何よりも小説の普及と深く結びついている筈である。特に19世紀に入って読書という私的で孤独な経験が増加するにつれて、小説という表現形態が大きく普及していくが、それは都市社会の落とし子であり、中産階級社会のニーズの証であった。そうした私的経験の可能性の増大するにつれて、性に対する意識もまた大きく変化していく。しかも資本主義社会はそうした性の意識の目覚めを圧迫し、私的な性生活を分離し隠ぺいしようとし、公的文化が健全であるべき性の重要性を過小評価しようとすればするほどポルノグラフィーはセクシュアリティの重要性を強調し、またつぶやきながら夥しい生産をつづけていくことになったのである。」現代にも通じる性文化の媒体に関する内容があって、私はその変遷に興味を持ちました。最後にポルノグラフィーとは何か、著者の考えを述べた箇所を引用いたします。「ポルノグラフィーは、いわば死と抑圧の所産である。それは永生不死を求めた煉丹術や錬金術に通底する。錬金術では死は存在物が解体して、母の胎内に帰ることだと考え、それによって新しい生命がよみがえるという死と再生の観念に貫かれている。そして仙界を探訪する男性のポルノグラフィックな解説は、子宮という仙界に死んで新生児を誕生させることであり、暗闇の世界において陽転するのは、光を暗箱にとじこめることによって映像を作りだすフォトグラフィーの考え方とも共通している。」
2020.01.08 Wednesday
「呪術としてのデザインー芸術民俗学の旅」(中嶋斉著 彩流社)の第2章の5「延方相撲」についてのまとめを行います。副題に「鎮魂儀礼の原型」とあるように相撲もまた祭祀に纏わる芸能の一つです。相撲はよくテレビ観戦をしているので、私にとって身近なスポーツです。幼い頃から親しんできた相撲ですが、これは国際的な競技とは言えず、外人力士が増えてもそこには独特な様式があって、海外の人から見れば異国情緒に富んだスポーツだろうと思います。「相撲」というコトバの起源について触れた箇所がありました。「相撲には相舞、あるいは素舞に帰せられる舞の要素を含んでいて、肉弾相うつ格闘技としての相撲は、むしろ後世において発達したとみられている。」とある通り、当初は水神に供養するための舞が起源と言われています。また「延方相撲」の意味として「上代において鹿嶋の神・タケミカヅチと諏訪の神・タケミナカタとの間で土地をめぐって行われたこの儀式は、近世における延方で再現されたのである。『勝ち相撲』は土地争いの決着を喜んで農民たちが感謝のしるしとして鎮守の杜頭に奉納したのが始まりであったと伝えているが、その鎮守の杜とは鹿嶋吉田神社である。」という文章がありました。相撲における儀式は祭祀に基づくものであったと改めて確認した次第です。「祭りは祭祀と祭礼、つまり神祀りとなおらいの二つの時空間をもっていて、その陰陽の世界の転換によって祭りが進行する。延方相撲祭でいえば、大別して地取祭は陰の世界であり、例祭当日は陽の世界である。従ってこの祭の本義は地取祭にあることはいうまでもないが、なおらいの時空間を欠くことはできない。~略~相撲とは神の芸能である。神の意向を人間に知らせる芸能である。神とは空なる存在であり、同時に人間が想像の裡に描いた宇宙の創造者であり、また天地自然を貫く普遍的な道理そのものといってよい。上代の人びとは宇宙の中に天地を象り、陰陽二気の存在を思った。鹿嶋の神と諏訪の神は、それぞれに火(陽)と水(陰)の象徴である。彼らが出雲の岬に会したとき、相撲をとることによって国土生成の秘密をひもといてみせたのである。」
2020.01.07 Tuesday
昨日のNOTE(ブログ)で、今年のRECORDの方向性を書きましたが、今年の元旦から挑んでいるテーマについて述べたいと思います。今年は色彩を年間テーマに掲げてRECORDを作っています。今月は無彩色の「白」に決めました。色彩には幅があります。同じ「白」の中で微妙に変化する色合いがあって、そこに絵画性があると私は思っています。私は真っ新な白よりも暗い色彩を覆っていく白に惹かれます。白が塗られている下地に何かが隠れていくのを暗示したいのです。また何か物体が置かれることで、周囲の白が一層輝きを放つこともあると思います。白は何かを始める原点でもあります。白い紙に何かを描こうとして、なかなか描き出せない怖れを感じたこともあります。白い紙にちょっとした汚れがついていることで、妙に安心して絵が描けることもありました。白は私にとって重要なニュアンスを持つ色彩であることは間違いありません。白の解釈は今後の空間を捉える意味で良い学習課題になりそうです。RECORD用紙は白いケント厚紙ですが、何も塗られていない紙そのものを白として使おうとは思っていません。私には白はあくまでも色彩の一つで、何も塗られていないのは空白でしかないという解釈です。もちろん空白を取り入れるデザインもあっていいと思います。ただし、今月のテーマは空白ではなく白色です。白を塗って白の在り方を表現する方法を取っていこうと思っています。
2020.01.06 Monday
2020年も一日1点ずつポストカード大の平面作品を作っていくRECORDを頑張っていこうと思っています。このところNOTE(ブログ)の話題は陶彫制作に偏っていますが、元旦からRECORDもやっていて、試行錯誤を繰り返していました。今までにない方向性を打ち出そうとあれこれ考えているうちに、私が一番苦手とする色彩を中心に据えたデザインを思いつきました。高校生の頃、大学受験用の色彩構成が思うようにいかず、私には色彩感覚がないという諦念があって、それならまだ形態の方がマシだと思っていました。ただ、形態も人より優れていたわけではなく、色彩に比べれば何とかなりそうだというレベルでした。これは決して謙遜で言っているのでなく、本当に美術が好きという以外は、色彩や形態に対して才能を自覚したことは一度もありません。今でも美術の専門家になろうとスタートを切った頃の、十代の鬱蒼とした気分を覚えているのです。それでも私が長い間彫刻を続けていられるのは、何十年もブレなかった姿勢によるもので、平凡な能力の上に造形の学習をコツコツと積み上げて膨らませていった結果ではないかと思います。RECORDはその最たるもので10年以上も毎日休むことなく一日1点ずつ描き貯めてきています。そのRECORDを使って今年は苦手な色彩に挑みます。年間12ヶ月のうち、それぞれ月毎に一色を選んでいきますが、色相環の定番になった色彩12色ではなく、無彩色も含めて12色を決めていきます。色彩は具体的なイメージと結びつくケースもあり、日本的色彩も選んでいこうと思っています。