Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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  • 三連休 地道な頑張り
    今日は朝7時から工房に行きました。朝の涼しいうちに少しでも陶彫制作を進めたいと思ったからですが、40キロの土練りを行い、明日の成形準備になるタタラを数枚用意しました。陶土を掌で叩いて座布団大のタタラを複数枚作っていると、涼しい朝にも関わらず汗が噴出してきました。昨日作業していた彫り込み加飾の続きを行なっているうちに、若いスタッフがやってきました。スタッフは現在高校生で、美大受験を視野に入れて基礎デッサンをやっているのです。一日7時間も工房でデッサンが出来るのは、彼女は美術の専門家になる資質はあるのだろうと思っています。私は昼ごろ工房を空けて、近隣のスポーツ施設に水泳をやりに行ってきました。年齢を気にしているわけではなく、定期的にスポーツをしなければならないなぁと常々感じていて、創作活動を末永く続けるために体力を保持したいと考えているのです。退職したら私はスポーツ三昧になる可能性もあるのですが、あくまでも創作活動のためにスポーツをやっているんだと自分に言い聞かせています。今日は夕方4時まで陶彫制作をやっていました。現在は第2ステーションの陶彫部品が2個出来たところです。第2ステーションは残り8個が必要です。今月これが終わるかどうか分かりませんが、明日は2個の成形を計画しています。秋風が立てばウィークディの夜に工房通いも出来ます。制作工程では、今は地道な作業で、螺旋階段を一段ずつ登っているようなものです。詩人黒田三郎の詩に、手にランプをぶら下げながら坦々と螺旋階段を登っていく詩があります。登った先に水平線が見えるはずだと綴ってありましたが、私の気持ちは今まさに螺旋階段を登っている心境です。デッサンをやりに工房に来ている彼女は、まだ螺旋階段の入り口にも到着していません。これから大変だよと昼食を頬張りながら彼女と話をしました。自分が好きな道ならば多少の苦労も厭わないとでもいうように瞳がキラキラしていました。
    三連休 母の通院&陶彫加飾
    三連休の初日です。今日は介護施設に入居している母の通院に家内と付き合いました。施設から病院まで車椅子を押していくのが私の役目で、検査は家内が付き添ってくれました。とくに母には異常がなかったので安心しましたが、90代の母は何があってもおかしくないと思っているのです。母は食欲はあるし、会話も問題なく出来るので、当分大丈夫かなぁと感じますが、部屋にいても車椅子に乗っている最中でも眠っていることが多く、この歳になれば人間はそうなるのかもしれないと思った次第です。私自身はこの歳まで生きていられるのか、生きていられれば創作意欲はどうなっているのか、葛飾北斎のようにさらに高みを目指すようでありたいと、私は願ってやみません。母の付き添いの後、工房に出かけ、成形が終わった陶彫部品に彫り込み加飾を施していましたが、この制作姿勢をいつまでも保ちたいと思いつつ、陶土に向かい合っていました。凌ぎ易い気温になったおかげで、集中力が増し、あっという間に夕方5時を回っていました。本来なら土曜日はウィークディの疲れが残り、なかなか作業が進まないところですが、母を見るにつけ、残された人生を感じ取り、夏の暑さも一段落したことも相俟って、陶彫制作に気持ちが入ってしまい、久しぶりに前後の見境なく集中した状態になりました。今夏は一心不乱に創作に打ち込んだ記憶がないため、6月個展用撮影前の状態に心が戻った気がしました。創作活動はこうでなくっちゃいけないと思いながら自宅に帰ってきました。三連休初日はいいスタートを切れたのではないかと思います。明日から若いスタッフもやってくるので、一日1回は集中状態が作れれば幸いと思っています。
    「モディリアーニ」第3章のまとめ
    「モディリアーニ 夢を守りつづけたボヘミアン」(ジューン・ローズ著 宮下規久朗・橋本啓子訳 西村書店)の第3章「パリでの苛立ち」のまとめを行います。冒頭の文章に「アメデオはパリに着いたとき、21歳とはいえ、まだ経済的にも精神的にも母に頼っている少年であった。」とありました。ここから親の保護下で裕福に過ごした時代と別離し、次第に荒廃した生活になっていくモディリアーニの状況を、パリの芸術運動と絡ませて述べている箇所を引用いたします。「彼がパリに着いた1906年初頭は、芸術は空前の興奮状態にあった。世界中からやってきた若い画家たち、ピカソ、マチス、ブラックといった俊英がこの街に集まり、印象派や後期印象派のめざましい成果に引かれ、あるいは反発した。~略~ピカソとその追随者に先導された前衛芸術は、モディリアーニが絶賛していたアール・ヌーヴォーや後期印象派を嘲笑した。」次にモディリアーニの生活について述べている箇所を拾っていきます。「モディリアーニは高級ホテルに長く滞在する余裕はなかった。ピカソの助言がなくとも、どのみち彼はつい最近までロートレックが通いつめていたモンマントルの歓楽街にたどり着き、その周辺のサーカス小屋をのぞいたであろう。~略~浮浪者、乞食、数人の芸術家はマキ地区に掘っ建て小屋やバラックを建てており、つい最近まで街を闊歩する上品な男であったモディリアーニは、ここで波打つトタン板を葺いた無人の木造小屋を見つけ、掃除し、修繕して、パリにおける彼の最初の住居として整備した。~略~一般の人の理解する日常生活や日課というものは、モディリアーニにとってはほとんど不可解であった。彼にはまったく仕事をしない日というものがあり、そんな日にはカフェからカフェへと流れ歩くか、友人たちを訪ねるのであった。~略~彼はしばらくの間『バトー・ラヴォワール(洗濯船)』に住んだ。これはラヴィニャン広場にある木造アパートで、風が吹くとセーヌ川の洗濯婦の船のようにきしむところからこの名で呼ばれた。ゴーギャンの時代以来、芸術家たちは小部屋が集まったアトリエを借りるようになった。建物は老朽化しており、暖房も水も電気もないので、彼らはランプや蝋燭の光で仕事をしなければならなかった。訪問客の大半は広い部屋に住んでいるピカソに会いにきた。」モディリアーニの生活ぶりが伺える箇所ですが、こんな底辺の生活の中から彼の表現の方向性が示されてきます。そこは別稿でまとめたいと思います。
    応挙の絶筆「保津川図」について
    東京芸術大学美術館で開催されている「円山応挙から近代京都画壇へ」展は、応挙の写実性に富んだ画風から展開した軽妙洒脱な呉春や、近代京都画壇を彩った様々な画家の代表作品が展示されていて、ひとつひとつに深みのある世界があって大変見応えのある内容になっていました。私にとって馴染みがあるのは長澤芦雪、川合玉堂、竹内栖鳳、上村松園くらいでしたが、まだまだ力のある画家が他にも控えていて、思わず足を止めてじっくり見入ってしまいました。全作品を回覧して印象的だったのはやはり円山応挙で、絶筆作品として知られる大作「保津川図」でした。ただし、応挙の故郷である亀岡から流れる川が保津川であるため、この作品は保津川を描いたものだろうと推定されるだけで確証はないようです。その対象がどうであれ、私は切り立った岩の間を飛沫を立てながら流れる川の動きに快さを感じていました。岩と水のコントラストを形成する墨色が美しく、岩肌に翻弄されながら渦を巻く川の流れに、隅々までコントロールされたリズムを感じ取っていました。迸る水に目がいきがちですが、ふと見ると鮎の姿が何気なく描かれていて、実は細かい部分まで計算されて丁寧に処理されているのが分かりました。何というデッサン力だろうと惚れ惚れしていましたが、解説によると「保津川図」は応挙が亡くなる1ヶ月前に描いたとのこと、それが本当だとすればこの力強さはどこからくるものか、私には到底理解できるものではありません。絶筆作品は芸術家として生涯を全うした人には必ず存在するもので、その人らしさを物語っていると私は常々感じています。彼方へ消えてしまいそうな作品もあれば、「保津川図」のような力の篭った大作もあります。その人の置かれた健康状態や精神状況にもよるものかもしれませんが、展覧会に絶筆作品が展示されていると、思わず足を止めて見てしまうのは私だけではないでしょう。「お疲れさまでした。」と私は作品を見て呟いてしまいますが、私自身はまだ絶筆作品のイメージが持てません。創作活動をやっていると10年、20年はあっという間に過ぎ去って、私もいつかこれが最後かもしれないと思える彫刻を作るのでしょうか。制作中にその意識があるものなのでしょうか。現在の私には見当がつきません。ただ眼の前にある「保津川図」が絶筆作品ならば、円山応挙という画家はとんでもない力量を持っていたと改めて認識するしかないと思いました。
    上野の「円山応挙から近代京都画壇へ」展
    先日、東京上野にある東京芸術大学美術館で開催されている「円山応挙から近代京都画壇へ」展に行ってきました。隣にある大学の大学祭(芸祭)があったせいか大変混雑していましたが、前から見たいと思っていた大乗寺にある有名な屏風はしっかり堪能することが出来ました。私は20代の頃は西洋彫刻しか視野に入らなかったので、日本美術を扱った展覧会にはほとんど足を運びませんでした。それでも応挙の世界は知っていて、応挙が描く動植物の写生は目を凝らして見た記憶があります。応挙の絵画は、狩野派や土佐派にある様式的な絵画ではなく、まさに西洋の科学的な形態を踏まえた描写に近かったので、興味関心が湧いたのではないかと述懐しています。本展では応挙と呉春、さらにその流れを汲む画家を網羅していて、円山・四条派と呼ばれる系譜を知ることが出来ました。図録には応挙と呉春の特徴を述べた箇所がありました。まず応挙。「応挙は絵画一筋の画家であったと筆者は考えている。作家には様々なタイプがある。普段は制作とは関係なく好奇心のままに過ごし、その経験を活かして着想を得る者もいれば、常に作品と向き合い、作品との対話の中から新たな展開を見出す者もいる。~略~応挙の場合は、写生したものを活かしていかに画面を作り上げるかということを、観る人の視点を考慮しながら綿密に考え尽くす必要があり、おそらく旅に出ている時間がなかったと想像される。」次に呉春。「呉春は蕪村に学んだことで、画技の基礎として俳画や文人画を培っており、応挙の写生の精神を学んだ後も画風が全く応挙風になるということはなく、叙情性のある独自の画風を生み出した。」(引用は全て平井啓修著)今回の企画展で私は応挙のリアルな世界ではなく、呉春の軽妙洒脱な世界を楽しむことも出来ました。呉春は四条派を形成していきますが、門弟たちが京都の四条に住んでいたことからこの名称になったようです。それぞれの絵画世界については別稿を起こしたいと思っています。