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  • 上野の「奈良大和四寺のみほとけ」展
    先日、東京上野にある東京国立博物館本館で開催している「奈良大和四寺のみほとけ」展に行ってきました。奈良県にある岡寺、室生寺、長谷寺、安倍文珠院の4つの寺は、古刹の寺として一度は訪れてみたい場所です。その寺から仏像や文書が出品されていると知って、東京国立博物館にやってきたのでした。その日は六本木や銀座を歩き回って疲れていましたが、仏像の静かな佇まいに触れると不思議な安らぎに満たされて、暫し疲れを忘れました。図録からの文章を引用いたします。「このヤマトとその南の飛鳥が、八世紀初頭の平城京遷都まで、古代政治の舞台となった。ここに、安倍文珠院、岡寺、長谷寺と、その少し東に室生寺が所在する。いずれも創建は、七世紀から八世紀にさかのぼり、仏教が伝来して以降、受容発展した日本仏教の足跡を今に伝える古刹がある。」この4つの寺のうち成立が最も古いのは安倍文珠院で、本展には文珠菩薩像内納入品という文書が出品されていました。岡寺から出品されていた義淵僧正坐像を、私は肖像彫刻として写実性に注目しつつ、僧正の風貌が大変面白いと感じていました。図録には「行基はじめ多くの弟子を育てた高僧義淵が、天智天皇から寺地を賜って龍蓋寺とした。」とあって、これが岡寺の発祥と思われます。長谷寺からは小さめの十一面観音菩薩立像が出品されていました。深さを湛えた良い菩薩立像だなぁと思いました。長谷寺には十一面観音菩薩立像の巨大な本尊があり、このエピソードが図録にありました。「この聖なる像は、ある霊木から造られた伝承をもつ。すなわちその昔、近江国から流出した巨木が、漂着した各地で災いを起こしながら、やがて当地にたどり着いたという。この祟りをなす霊木を御衣木として造られたのが本像だった。」最後に室生寺の釈迦如来坐像の佇まいに触れます。一木彫像の真骨頂と図録にありましたが、着衣に見られる襞の美しさに、私は一木の彫り跡の巧みさを見取りました。室生寺は山林修行の場でもあったらしく、図録にはこんな文章がありました。「当時、政治との癒着がすすんだ奈良時代の仏教の在り方を反省し、その反動として戒律を保ち、山林修行を通して聖なる力を得た浄行僧が尊ばれた。こうした新しい風潮のなか、都から遠く離れた、独特な地形をもつ室生の地が修行の場として見出されたのだろう。」(引用は全て皿井舞著)こうした仏像は寺を巡って訪ね歩くのがいいと思いますが、博物館の計算された照明の中で鑑賞するのもまた格別で、宗教を離れた芸術作品としての価値が際立つと私は考えています。
    最大級の台風が夜半に通過
    今日の明け方は自宅全体を揺らす暴風と横殴りの雨によって目が覚めました。と言うより夜半過ぎから風と雨の音がうるさくて眠りが浅くなり、頭の中でぼんやりと我が家は大丈夫かと思いを巡らせていました。私の自宅は横浜市の郊外にあり、近隣は雑木林が残る地帯で、横浜の都会的なイメージとかけ離れたところにあります。小高い丘に建っている一戸建てですが、周囲の風景は展望が開けて美しいと思う反面、風の力を真正面に受ける嫌いがあって、暴風の時は窓のシャッターを閉めていないと危険と思えるほど大変な環境なのです。自宅から農道を5分程度歩くと工房があり、そこも風が強く当たるところにあります。工房は窓を開けておくと爽やかな風が入ってくる良さがあって、季節によっては居心地の良い場所です。明け方、関東地方を襲った台風15号は最大級の規模だったようで、鉄道の運休が相次いで発表され、私は自家用車で職場に向いましたが、あちらこちらで渋滞していました。私の職場では通常の仕事は停止し、会議を前倒しして行ないました。台風一過で今日は気温が上昇し、蒸し暑くなりました。日本に住んでいる以上、災害に備えていかなくてはならず、明け方の台風はもとより地震も身近な自然現象です。防災をどうするか、ことあるごとに考えてしまいます。災害は過ぎ去った後も現場復旧に時間がかかります。私の自宅の近隣に住む人々も道に落ちた枝や葉をせっせと掃除していました。日本人は勤勉だなぁと思うところです。
    週末 第2ステーション制作
    新作の陶彫作品は、屏風と床の双方を使って表現するもので、そこに陶彫部品が数多く設置される集合彫刻です。先月から床置きになる陶彫部品を作っていて、蒲鉾型の部品を連結させて網のように床を這っていくイメージを私は持っています。その這っていく根茎のような部品の中に、中心となる集合体が2箇所あります。それを私はステーションと呼ぶことにしました。一つ目の第1ステーションは4個の陶彫部品で構成しています。既に4個とも成形と彫り込み加飾を終えて、乾燥を待っている最中です。先日から第2ステーションを作り始めていますが、第2ステーションは10個の陶彫部品で構成する予定です。第1ステーションよりやや低めに設定しており、部品のサイズも小さめです。今日は朝から工房に篭り、第2ステーションの2個目の陶彫部品の成形を行いました。成形は陶土を立体にしていくので、私にとって最高に楽しい作業で無我夢中になって取り組んでしまう工程ですが、迫り来る台風の影響なのか今日は湿度が高く、いつもより汗が噴出してきました。シャツと頭に巻いた手ぬぐいを2回替え、それでも滴る汗を止めることが出来ませんでした。今日は朝から若いスタッフが2人来ていて、それぞれの課題に取り組んでいましたが、各人の体調を考えて昼ごろには近隣にあるファミリーレストランに涼を取りに行きました。9月に入ってもこの暑さには辟易しています。陶土の乾燥が早いため表面があっという間に硬くなり、彫り込み加飾がやり難くなります。加飾が終わらなければ、濡らした布を作品にかけて、さらにビニールで包まないと、次の週末までいい具合に陶土を保つことが出来ません。他の素材に比べると陶彫制作は陶土の管理が大変です。制作工程の最後に焼成があるため、陶土の乾燥具合を常にコントロールしなければならないのです。木彫や石彫を扱う作家は多いのに陶彫を扱う作家が少ないのは、こうした陶土の管理に問題があるのではないかと思うところです。ただし、最後に窯に入れて上手く焼きあがった時の喜びは格別で、陶彫は鎧を身につけた戦士のようになって私の手許に戻ってくるのです。それが味わいたくて、面倒な工程を粛々とやっているようなものです。今日は夕方4時に工房を後にして、スタッフを車で送りました。秋の涼しさが待ち遠しいこの頃です。
    週末 六本木・銀座・上野を渡り歩く
    今日は東京の博物館、美術館、画廊を回ろうと決めていました。後輩の彫刻家が二科展出品、同僚の画家がグループ展参加、その他見たい展覧会があって、二科展とグループ展の日程が合うのが今日しかなかったのでした。とは言え陶彫制作をしないわけにもいかず、朝8時に工房に出かけました。明日の成形準備のために大き目のタタラを4枚、陶土を掌で叩いて作りました。9時過ぎに自宅に戻り、汗になったシャツを着替えて、東京に出かけました。まず向ったのは六本木の国立新美術館。ここで二科展が開催されていて、私は後輩の彫刻家から招待状を頂いていました。彼の作品は合板を重ねた積層を利用した立体作品で、今年の新作は2m以上もある直方体を基本としていましたが、寧ろ曲面で構成された多面体と言える流動感のある柱でした。極めて彫刻的な造形で、シンプルにして豊かな空間を創出していました。昨年までの彼は工芸的な要素が目立つ作品を作っていましたが、今年は吹っ切れたような立体になっていて、彫刻として訴えてくるものがありました。今後の彼の活躍に期待したいと思っています。次に向ったのは銀座です。日本美術家連盟画廊で開催されていたグループ展に、私と同じ二足の草鞋生活を送る同僚が絵画を出品していました。青と白を使った抽象絵画ですが、描写行為のない平面作品は、絵画と言うより平面を媒体にした空間作品と、私は思っていました。とりわけ新作は絵の具を垂らしたり、滴らせたりしていて、彼は何か別の方向を探っているようでした。昨年まで次第に簡潔になっていく画面を見ていて、この先はどうなってしまうのだろうと思っていましたが、模索を繰り返すうちに、彼は新しい世界を開拓したのかなぁと感じました。次に向ったのは上野でした。全て地下鉄銀座線の途中下車の旅で、最後の上野に到着した時はクタクタに疲れていました。まず東京国立博物館本館へ。先日は平成館の「三国志」展を見たばかりでしたが、再びトーハクに戻って来ました。今日見たのは「奈良大和四寺のみほとけ」展。日本の仏像に接するのは久しぶりで、7月に見た魂漲る石川雲蝶の木彫群とも異なる世界は、奈良時代や鎌倉時代に奉納安置された仏像ゆえに、静かな佇まいが空間を支配していました。「奈良大和四寺のみほとけ」展に関しては後日改めて詳しい感想を書きたいと思います。最後に訪れた東京芸術大学美術館の「円山応挙から近代京都画壇へ」展は、かなり混雑していました。というのは芸大が大学祭(芸祭)をやっている最中で、模擬店やら出し物を見にくる人の往来が激しく、その影響もあったのかもしれません。日本画家円山応挙は写実に長けた人で、その流れを汲む画家も、それぞれが確かな描写力があって、西洋技法が日本画に巧みに取り入れられているところが面白いと感じました。「円山応挙から近代京都画壇へ」展も詳しい感想は後日に改めます。今日のNOTE(ブログ)のタイトルを普通に東京の展覧会巡りにしようと思っていたのですが、展覧会の場所がアートが集まる三大地域ということもあって、敢えてこのタイトルにしました。
    「モディリアーニ」第2章のまとめ
    「モディリアーニ 夢を守りつづけたボヘミアン」(ジューン・ローズ著 宮下規久朗・橋本啓子訳 西村書店)の第2章「旅からの霊感」のまとめを行ないます。第1章でモディリアーニは、スペイン系ユダヤ人としてイタリアの裕福な家庭に生まれたこと、病弱で生死の境を彷徨い、その都度母親のエウジェニアの献身的な看病を受けたこと、その折に読書や夢想に耽って芸術家としての下地が作られたこと等、モディリアーニの幼少期から少年期に到る生育歴が綴られていました。第2章ではイタリア各地を旅するモディリアーニが描かれていますが、まだ母親の保護下にあって、着実に画家への道を歩み始めていたのはよく分かりました。私が注目したところはモディリアーニが画家になる前に彫刻家を志していたことがあって、その箇所も引用したいと思います。まずは前章の確認のような文章を引用します。「エウジェニアは彼を甘やかし、不安定きわまりない将来に生きる望みを抱かせようとした。彼女は彼が健康になってくれさえすればよかったのである。~略~エウジェニアが驚いたのは、彼は普段移り気で落ち着きがない子だったのに、ギリシャやローマの美しい彫像に感嘆しながら何時間でもじっと立ち尽くすことであった。」モディリアーニはオーストリアに登山に行く予定もあったようですが、結局都市から離れることはありませんでした。「生涯を通じて彼に最良の作品を生む霊感を与えたのは都市の喧騒であった。彼は健康と自信を回復するにつれ、芸術家として感性と、療養による制約やエウジェニアの息苦しいほどの献身的態度との相剋が明瞭になってきた。」ここで彫刻制作についての文章がありました。「彼は暑い夏にリヴォルノに帰り、彫刻家になるという野望を大胆にも実行に移そうと努力をした。~略~彼は有名な大理石の石切り場カラーラから5マイル下がったところにある小さな美しい街ピエトラサンタに宿をとり、三点の素朴な彫刻、二点は頭部で一点は胴体、を制作した。~略~石のほこりは彼の喉を害して咳をさせ、また制作はきつくて退屈であったが、こうした人生の早い時期にのみと槌を使って制作したために、モディリアーニは素材を尊重し、石を用いる芸術家だけでなく職人にも敬意を抱くようになったのである。」モディリアーニの数少ない彫刻は私に感動を齎せてくれました。アフリカの民族彫刻に見られるようなプリミティヴな力が宿っていると感じたからです。パリに旅立つ前のモディリアーニの外見を描いた一文がありました。第3章に入る前にこれを引用いたします。「(画家兼文筆家)ソッフィーナはモディリアーニの『優美な容貌と優雅な外見』に感銘を受け、少ししか食べず、ワインを水で割り、『偉大なる平静心』を持つ優しく行儀のよい少年としてこの画家を記憶している。後半生のモディリアーニは、苦悩に満ち、取り乱した男として登場するが、これは初期の彼は穏やかで落ち着いた若者というイメージと興味深い対照をなしている。」