2019.12.26 Thursday
先日、ドイツの菓子シュトレンを長野県に住む彫刻家池田宗弘先生に郵送しました。そのお礼を兼ねた電話があったそうで、私が仕事で不在だったため家内が電話を受けました。私とも長電話になる池田先生ですが、私のことを気遣っていただいていることが家内に分かったようで、先生から言づけられた長い伝言を家内から聞きました。それは創作活動に関することで、私の作品を見ている鑑賞者から頑張っているという評価があったとしても、その言葉に左右されて、さらに頑張り通して心身ともに燃え尽きないようにという助言でした。創作活動はもっと自由なものなので、人からの評価で生真面目な私が苦しめられていないか、そこが心配だと先生は言うのです。マイナス評価ではないところが今回の助言の主訴で、作品の質がどうであれ温かい助言をいただいたものと私は理解しました。今までの14回の個展を見ていて、昔から馴染のある池田先生とギャラリーせいほうの田中さんが私について話し合っているようです。漏れ伝わった話では、アイツはこのままで大丈夫かということになっているようで、先輩たちの関心事に有難い気持ちにもなりました。私にとって父が亡くなって以来、池田先生が父親代わりになっている錯覚を持っていて、それは池田先生にとっても同様で、私を息子のように思ってくれていることが、今回の助言に表れていると感じました。でも私はこう見えても結構クールで人に左右されません。自分で考えを決めている結果として、毎回個展をやらせていただいております。外圧ではなく、内面から迸るものがあるから創作をやめられないのです。でもいつかはイメージが枯渇する時があるのかなぁと不安にもなりますが、イメージの限界はどこにあるのか分からない今は、只管将来を信じて進んでいくかしないと思っています。あと10年先、20年先の自作はどうなっているのか、考えたところで仕方がないので、とりあえず今は来年夏に発表する新作に没頭するだけです。
2019.12.25 Wednesday
今日はイエス・キリスト降誕の日であるクリスマスです。キリスト教信者でない者にとっては、西洋の宗教を絡めた洒落たイベントがあるくらいの印象で、ロマンチックなイルミネーションに彩られた街に気分が高揚しています。本来の意味から離れて楽しんでしまう傾向が日本人にはあって、どなたかが「雑種文化」と称していました。確かに日本には世界各地の食が集まっていて、さながら首都圏は雑種文化都市とも言えそうです。私の職場では私が全職員に料理を振る舞う「大鍋コミュニケーション」をやりました。作ったのは山梨県のほうとう鍋で、昨晩は近隣のスーパーマーケットに材料の買い出しに出かけました。最近はほうとうの麺を売っている店もあって、かぼちゃが入った温まる汁物を提供させていただきました。私は転勤する時に、大きな寸胴鍋を持っていきます。全職員が仲良くなるために同じ鍋を囲むというのが、私の経営スタイルのひとつです。もう何年も前から「大鍋コミュニケーション」をやっているので既に定番になっています。作る時に手伝ってくれる職員がいないと時間内に調理するのは難しいのですが、どこの職場でも快く手伝ってくれる人がいて助かっています。キリスト教文化の中でもパンやワインを皆で分けて神に感謝を述べつつ食事する場面があります。宗教とは無関係でも皆がひとつのものを分けて食事する機会は、人と人との関わりの中で大切なものだろうと思っています。私自身の創作的料理の楽しみも「大鍋コミュニケーション」にはあって、職員にとっては私の趣味の押し付けかもしれないと思っているところです。
2019.12.24 Tuesday
昨年のNOTE(ブログ)を見ると、この時期に年賀状の宛名印刷をしていたことが分かりました。今年もNOTE(ブログ)に宛名印刷した日を記録しておこうと思います。年賀状は今月のRECORDから絵柄をとりました。テーマとしている円環にネズミがちょこんと座っているデザインを採用しました。葉書の周囲の模様は郵便局発行のパターン集で決めて、厚手の葉書に260枚の印刷をお願いしました。今年は可愛らしいものに仕上がったと自負しています。今晩宛名印刷をしたので、元旦には年賀状が届かず、例年の如く正月三が日の間にはお手元に年賀状が届くのではないかと思っています。年賀状は年々投函する人が減っているというニュースを聞きました。ネットで済ませる人が増えているのかもしれません。ところが私は年賀状支持派です。面倒なことは重々承知で、師走の多忙な時期に大変なことだと思っていますが、年賀状はご無沙汰している人に挨拶を交わす絶好の機会と捉えています。年賀状であればどんなに会わない人でも、どうしているのか問うことは怪しいことではありません。私の場合は7月に個展の案内状発送、8月に個展に来ていただいた方々にお礼状発送があって、この年賀状との3点セットになっていて、比較的にマメに葉書を出しているのではないかと思っているのですが、いかがでしょうか。そういう意味で夏の個展には本当に久しぶりな方がお見えになってくれて感激することもあります。人と人とが繋がるアイテムとして年賀状の価値は十分あると考えています。
2019.12.23 Monday
「呪術としてのデザインー芸術民俗学の旅」(中嶋斉著 彩流社)の第2章の4「火と水による演能」についてのまとめを行います。この章は「茶の湯」についての考察です。「茶の湯」について私は書籍による概略しか知りません。家内は裏千家に通じていた叔母によって、幾度か茶会に呼ばれたことがあるのですが、私にはそんな機会がなく、知識に頼って「茶の湯」のイメージを持っているだけです。千利休によって独特な文化形成をした「茶の湯」は、そもそもどんな起源があったのか、改めて本書から紐解いてみようと思います。「修験道は山にこもり、即身成仏して生まれ清まることを念ずる山獄宗教である。酒は蔵にこもり醸成して新たに人びとを恍惚に誘う霊水となり、神と人をつなぎ神事と芸能をわたす橋となる。そしてその本質は火と水である。茶も酒に似て、古く日本に伝えられて以来、聖と俗、貴人と町衆をつなぐ役目を果たしてきた。異国から伝えられた貴族間の喫茶の風習や禅院での施茶や茶礼にかわり、中途にはバサラ大名たちの闘茶の無礼講を展開したが、ついには賓主の交わりという精神性と喫茶団らんの娯楽性をあわせもつ草庵の茶を案出した。~略~遊芸として成立した草庵の茶の湯=わび茶は、こうして市中にうつされた山居にこもって主客が相対して、古来の神祀りの儀礼をなぞりながら茶を点て、茶を喫する芸能である。」茶の湯も神霊や祖霊を祀ったところに起因している芸能であることを知りました。次に太陽と月の関係から茶の湯を述べた文章に目が留まりました。「月は太陽の伴侶であるが、太陽が昼や夏を支配するのに対して月は夜の女王であった。月の叡智は、思弁的・抽象的精神という父権的性格を有していないが、そこには柔らかで眩しくない光があって、運命と共に生きる現実性がある。幻想ではなく、現実を愛し、死をこえて新たな転生と生命誕生へと導く力をもっている。~略~そして火と水によって演じられる太陽と月との聖なる結婚を待ち、再生の奇蹟の完成を祝うことに古代祭祀の時間が、また空間があったとすれば、それは茶の湯の時空を最もよく解説してくれるように思われるのである。」最後に茶の湯の芸術性に触れた文章でこの章をまとめます。「いわば日常茶飯の道具をとりあわせて茶を飲むことにすぎない茶の湯が高度な芸術性を獲得しうるためには、かえって茶室が最も簡素な庶民の住宅をかたどることがふさわしかったように、道具もそれ自身が自律性をもった芸術品であるよりは、あくまで素朴な品々をとりあわせること、そしてそれらを何かに見たてることが必要であった。」
2019.12.22 Sunday
今日も昨日に続いて朝から工房にいました。今日は基礎デッサンを学ぶ若いスタッフも来ていました。相変わらず寒い一日で、ストーブで暖を取りながら作業に勤しんでいました。制作サイクルの中で昨日出来なかった工程を、今日は網羅していこうと意気込んでいて、成形2点、彫り込み加飾の仕上げ、乾燥した陶彫部品のヤスリがけと化粧掛け6点をやっていました。作業時間は通算9時間になりました。途中若いスタッフを車で送り、それから2時間あまり作業に没頭したことで疲労はピークに達しました。新作の佳境はまだこれからですが、今週末はその前段階のような按配になりました。今月末にある休庁期間で何をやるべきか見通しは立っていて、そこまで制作工程を進めておくのが今週末だったわけです。来週から休庁期間が始まります。休庁期間中は制作を優先するため窯を焚きません。そのため今週はどうしても2回の焼成が必要で、大小取り混ぜて陶彫部品を3点ずつ窯に入れるために計6点の仕上げを強行したのでした。おかげで手はガサガサになり、ハンドクリームが欠かせない季節になったなぁと思います。昨日は彫刻についての思索をぼんやり思い巡らす時間がありましたが、今日は作業一辺倒で、何かを考える余裕はありませんでした。夜になって制作にキリがついた時、工房の周囲は真っ暗になっていました。うぅ、腰や肩が痛いなぁと思いつつ、自宅に戻りました。明日からもう一つの仕事が待っています。なかなか手強い日常ですが、生きている価値は十分に感じています。