2019.10.19 Saturday
週末になりました。朝から工房に篭りました。今日は若いスタッフが来ていて基礎デッサンをやっていました。スタッフがいると張り合いがあって作業が進みます。彼女は肌理の細かい感覚を持っていて、技術が向上すれば緻密な世界が描けそうな気がしています。来週は美術系大学の学園祭(芸祭)に行こうかと話をしていました。私は先日から取り組んでいる新作の第2ステーションの成形と彫り込み加飾が何とか完了しました。陶彫は最後に焼成という制作工程が控えているため、窯入れしなければ、完成には至りません。今日完了した陶彫部品は、いずれも乾燥するのを待って窯に入れる予定です。第2ステーションは10個の陶彫部品で成り立つもので、10個を並べると楕円形になります。第1ステーションも4個で円形になるように配置するので、床に円を成す一塊の集合彫刻が2ヶ所できるのです。2ヶ所のステーションは蒲鉾型の陶彫部品で結ばれる計画です。蒲鉾型の陶彫部品は網の目のように伸びていき、屏風にも立ち上げって壁に貼りついていくイメージです。とりあえず床に置かれる2ヶ所のステーションの成形と彫り込み加飾が終わり、これが上手く焼成できれば、床置きの見せ場は何とかなりそうです。今月中には第2ステーションの成形と彫り込み加飾を終わらせる目標を立てましたが、これは達成しました。第1ステーションと第2ステーションの連結は、今年ギャラリーせいほうで発表した「発掘~双景~」を応用したもので、新作はさらに屏風に陶彫部品が伸びていき、屏風に蔦が這うように絡んでいく世界を創り出そうとしています。いずれ新作に関するイメージの源泉をNOTE(ブログ)に書いていきますが、私は雑駁なイメージが作る過程で具体化していき、時に立ち止まって思索しながら、茫洋としたものがはっきり見て取れるものになっていくのが常なのです。今回完了した第2ステーションも蓮の葉が寄せ集まったイメージでしたが、カタチが出来てきて漸く次なる展開が可能になったと思っています。完成図のエスキースをしないのが私の流儀で、下図があるとそれに左右されてしまい、それ以上の世界が期待できなくなる怖れがあります。降って湧いたイメージはそのまま心に仕舞っておいて、イメージの上書きを具体化とともにしていくのです。明日は職場のある地域の行事があって、丸一日を創作活動に当てられないのが残念ですが、そろそろ屏風の下書きをやってみたいと思っています。
2019.10.18 Friday
「見えないものを見る カンディンスキー論」(ミシェル・アンリ著 青木研二訳 法政大学出版局)を漸く読み終えました。本書は職場の私の部屋に置いたまま、時には数か月も放ってありました。前の職場から現在の職場へ移動した書籍の一つでもあります。NOTE(ブログ)によると、初めに手に取ったのが2017年11月29日だったので、ほぼ2年がかりで読破したことになります。著者のミシェル・アンリは「精神分析の系譜」等を著した現象学者で、読み進めていくうちに哲学書全般に見られる周到に用意された語彙の理解が必要になってくるのを感じていました。途中で挫折するかもしれないと思ったことは数知れず、それでもその危機感を救ったのは、本書が私の大好きなカンディンスキーの絵画理論に基づいていることが大きかったと振り返っています。内容を一言で言えば、訳者があとがきで書いている通り「写実主義の絵画を初めとしてあらゆる絵画は抽象絵画に包摂されるという点」にあります。カンディンスキーが生きた時代は、新しい芸術が理論と共に生まれた時代と理解していますが、今読んでいる画家モディリアーニの生涯を考えてみると、不思議な感覚に陥ってしまいます。カンディンスキーは1866年生まれ、モディリアーニは1884年生まれで、カンディンスキーの方が18年も前に生まれているのです。もちろん、ピカソのキュビズムやフジタたちのエコール・ド・パリもあって、欧州芸術界は百花繚乱の雰囲気がありましたが、それにしてもカンディンスキーの「芸術における精神的なもの」を初めとした絵画理論の数々は、この時代にすれば飛び切り新しいと言わざるを得ません。造形美術が哲学を纏うようになった最初の人がこのカンディンスキーではないかと思うのですが、いかがでしょうか。因みにモンドリアンは1872年生まれ。同時代と言えばその通りで、エコール・ド・パリの時代に次の時代を予感させる抽象絵画が始まっていたのでした。
2019.10.17 Thursday
「見えないものを見る カンディンスキー論」(ミシェル・アンリ著 青木研二訳 法政大学出版局)の最終章「芸術と宇宙」のまとめを行います。本書は、カンディンスキーの著書「芸術における精神的なもの」を著者の視点で読み取り、そこに深い学殖に裏づけられた論考があって、全章を通して平易とは言い切れないものがありました。「十八世紀以降、宗教的感情が消滅したあと、具象絵画が提供したものといったら、脆弱ないわば二流の作品ぐらいしかないこと、絵画の領域における創造的な力の一般的な退潮は、生の衰弱の、生が有していたおのれの不屈性への確信が失われたことの正確かつ直接的な帰結であること、おそらくこうしたことこそが、ここ三世紀の美的動向を決定しているのであり、それゆえに内部の力を失ったその動向は、諸物を頼みとして、もはや信頼の中に、生それ自体への信頼の中に見出せない支えを諸物のもとで探し求めることになったのである。」これがこの論考を始める契機となったものだろうと思います。そこにカンディンスキーのこんな発想を引用しています。日常環境に属する平凡な諸物にしても、内部の音響をもっていると。さらに「芸術家によって使用されるフォルムは、現実的なフォルムであるとか抽象的なものであるとか、といった問題は、全然意味のないことである。その理由は、いずれのフォルムも内面的には等しいからである。」論考を抽象に導く中で、こんな疑問も提示しています。「絵画における抽象の理論は、客観的具象化にさからって、したがって自然にさからって定義されたのではないだろうか?」それに対する解答は次の通りです。「客観的世界を構成する意味の観念的基準から、色と線的なフォルムをひき離すことによって、指示的でない絵画性の中でこれらをとらえることによって、カンディンスキーの抽象は自然を遠ざけるどころか、自然の内的な本質を回復させているのだ。この本来の主観的で動的で印象的で情念的な自然、〈生〉という本質をもつこの本当の自然、それは宇宙である。」カンディンスキーが携わった冊子「青騎士」の中では、彼のこんな主張も見られます。「世界は響きを発する。世界は精神的に作用する諸存在の宇宙。かくして、生命なき物質も実は生命ある精神にほかならぬ。」
2019.10.16 Wednesday
「見えないものを見る カンディンスキー論」(ミシェル・アンリ著 青木研二訳 法政大学出版局)の「絵画はすべて抽象的である」という章のまとめを行います。本書は、カンディンスキーの著書「芸術における精神的なもの」を基盤にフランスの現象学者が著したもので、芸術の中の絵画についての考察が大変面白いと思っていますが、なかなか難しい箇所も多く、論考にも哲学的な側面が見受けられます。カンディンスキー自身も抽象絵画の裏づけとなる哲学を構築し、フォルムや色彩を論じてきました。現代は芸術行為そのものを哲学として扱う場面も多く見受けられ、その発端がカンディンスキーだったのではないかと私は思っています。表題にある一文は本書全体の中核を成すもので、これを主張するために論考を積み重ねてきたように感じています。「芸術の最初のテーマ、その真の関心とは、生である。元来、あらゆる芸術は神聖であって、それがもっぱら気にかけているのは超自然的なものなのである。それはまさしく、芸術が気にかけているのは生であるー目に見えるものではなく目に見えないものであるーことを意味する。なぜ生は神聖なのか。なぜなら、われわれが設定したわけでも望んだわけでもないものとして、われわれがその出どころではないのにわれわれをつきぬけて行くものとして、内部に生を体験するからである。生によって支えられているからこそ、われわれは存在し、どんなことでもやろうとするのだ。生自体に対する、われわれの内部にある生の受動性とは、われわれの情念的な主観性ー不変の芸術の、絵画の目に見えない抽象的な内容ーなのである。」そのあとに具体的なキリスト教の宗教画を取り上げて、誰も見たことのない宗教的場面や行為を具現化する際に、主観的組み合わせから生まれる情念への合致という言い回しを使って、絵画にある抽象性を導き出しています。最後に抽象絵画の原則に従った鑑賞について触れている箇所がありました。「見るとは、抽象の原則によれば、眺められている色の情念を感受することを、その情念が実在となっていること、〈生〉となっていることを意味する。」
2019.10.15 Tuesday
自分の若い頃は、ゲイカルチャーをまるで受け入れることが出来ず、現在ほどジェンダーに対する意識があったわけではないので、美術界のこうした動きに反応することはありませんでした。同性愛者がアートや芸能界で活躍していても、特段関心を寄せることはなかったと振り返っています。ヨーロッパで暮らしていた時にゲイの知り合いはいました。日常生活の美に対する彼の執着に、漸く私の心が動きました。芸術は性差や人種を超えて成り立つことに感覚的理解を得たのは、あれから随分経ってからです。映画「トム オブ フィンランド」は、ゲイカルチャーのアイコンになっている逞しい男性像を描いた最初の画家として、その苦悩や社会的差別を扱った内容になっていました。図録から紹介文を拾うと、「同性愛が厳しく罰せられた第二次世界大戦後のフィンランド。帰還兵のトウコ・ラークソネン(別称トム オブ フィンランド)は、昼間は広告会社で働き、夜は鍵のかかった自室で己の欲望をドローイングとして表現していた。スケッチブックの中で奔放に性を謳歌しているのは、レザーの上下に身を包み、ワイルドな髭をたくわえた筋骨隆々の男たち。」というのがありました。ゲイカルチャーに登場するレザージャケットにピタリとしたパンツでナチス党員のような帽子を被った男性像は、アメリカンカルチャーとばかり私は思っていましたが、フィンランドの画家が先駆者だったとは知りませんでした。フィンランドと言えばムーミン等の可愛いキャラクターしか知らなかった私には衝撃的な文化の一面を垣間見た感じがしました。図録の解説を拾います。「現代でもたまに見られることだが、男性同性愛者を描いた当時の表象は、えてして『女性的』であったり『中性的』なものに偏っていた。トムの描く男たちは、それら当時のステレオタイプな描写に対してのカウンターとなった。そしてその男たちは、作品の中でいつも楽しそうにセックスをしている。これに関してトムは、『現実では辛い思いをしているゲイたちのためにも、自分の作品の中では常に彼らを幸せであるように描く』といった意の言葉を残している。」(田亀源五郎著)