Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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  • 週末 板材刳り貫き作業&自宅リフォーム注文
    週末になりました。朝から工房に篭って新作の陶彫制作に明け暮れていました。今日から屏風になる厚板材の加工を始めました。まず鑿による彫りの前に、板材に格子窓を刳り貫く作業があります。これはなかなか手間がかかります。屏風は全部で6枚ありますが、今日は手始めに最初の1枚に取り掛かりました。一日中作業をしても今日で終わらず、刳り貫き作業は明日に持ち越しになりました。下書きをした段階で大変な作業になることは分かっていましたが、案の定今後の制作工程が心配になりました。明日も刳り貫き作業は継続ですが、あるいはウィークディの夜も作業をしないと間に合わなくなるかもしれません。電動工具を使用すると騒音が出るため、工房周辺の近所迷惑も考えて、出来るだけ夜の作業は避けたいと思っているのですが、ちょっと厳しい状況になっていきそうで、今後の工程を睨みながら頑張っていこうと思っています。新作を作る上で、今までも何回となく壁に当たりましたが、今年も手強いところに差し掛かっています。木材加工は陶彫制作の時と身体の筋肉の使うところが異なり、今日は辛い一日を過ごしましたが、これも徐々に慣れていくでしょう。夕方自宅に戻って休憩を取っていると、夜になって自宅リフォームの業者がやってきました。前回打合せをして、今回が2回目になりました。今年こそ断捨離をしながら自宅の改装工事をしようと思っているので、これも生涯一度のビッグイベントに違いありません。自宅をリフォームしたら、これが私たち夫婦の終の住まいになるのかもしれず、多少費用がかかってもやっていこうと決めているのです。昼間の作業でヘトヘトになっていたにも関わらず、業者との打合せが始まったら疲労はどこかへ飛んでいってしまいました。業者が用意した注文書に記入し捺印して、3月から始まる改装工事に向けて室内の片づけを行なう予定です。
    HPに18’RECORD10月~12月をアップ
    私のホームページに2018年のRECORDの10月分から12月分までの3ヶ月をアップしました。一日1点ずつ作り続けているRECORDは、文字通り毎日の記録ですが、日記と言うより創作活動をするためのイメージトレーニングになっていて、5日間で絵柄が展開していくように設定しています。公務員との二足の草鞋生活を送っている自分は、RECORD制作について充分な時間が取れず、苦肉の策として5日間を通じたデザインを考えたわけです。RECORDをホームページに載せるためにはデジタル画像にする必要があり、1年間で1回カメラマンに来ていただいて、1年間分をまとめて撮影していただいています。その1回の撮影日を毎年9月末から10月初めくらいに設定してあって、今回アップした画像は昨年の9月末に撮影したものです。ですから現在デジタル画像化されているのは2018年10月分から2019年9月分になっています。そのうちの3ヶ月くらいを折を見てアップしていくことになりますが、問題はアップの際に載せる私のコトバです。私は高校生の頃から詩人に憧れていましたが、コトバによる心象の吐露が巧くできず、視覚的(触覚的)な表現の方がマシなことが分かりました。彫刻家になったのはそんな理由もひとつありますが、それでも詩人になる夢は捨てきれず、未練がましく稚拙なコトバを添えているのです。高校生の頃に書き殴っていた自我ノートは、やがてこのNOTE(ブログ)になり、またRECORDの末端に添えるコトバになっています。今回アップした2018年の10月分から12月分までのRECORDをご覧になっていただけるのなら、私のホームページの左上にある本サイトをクリックしてください。ホームページの扉にRECORDの表示が出てきますので、そこをクリックすれば今回アップした画像を見ることが出来ます。ご高覧いただけると幸いです。
    「木喰と東北・上越」について
    「あそぶ神仏」(辻惟雄著 ちくま学芸文庫)のⅡ「木喰と東北・上越」についてのまとめを行います。文章の冒頭に「木喰行道は、大正12年(1923)、柳宗悦によって文字通り『発掘』された。」とありました。円空と木喰、この2人の僧が残した多くの仏像群を展示した企画展を見て、私は彫刻家魂が震えた覚えがあります。柳宗悦は民藝運動を起こした思想家で、「工芸」として生活の中に美を見出した人です。「木喰85歳に書いた自伝風の『四国堂 心願鏡』や27年間にわたる『納経帳』『国々御宿帳』などを発見できたときのかれ(柳宗悦)の喜びは大きかった。」木喰は郷土史などに名が残っていなくて、知人の教えで生誕地が山梨県下部町丸畑であることが分かったようです。さらに「45歳のとき、日本廻国の大願をおこし、常陸の木喰観海上人のもとで、木喰戒を継いで、『木喰行道』と名乗った。」とありました。「56歳に当たる安永2年(1773)、木喰は大山不動の近くにある伊勢原市から旅立つ。北は北海道、南は九州にいたる日本六十余州をあまねく行脚し、おびただしい仏像を刻んだ。寛政12年(1800)、83歳で郷里丸畑に帰るまでの間にかれは『日本国々山々嶽々嶋々の修行を心に掛けて、日本粗々成就に至る』と、前の『心願鏡』に書いている。」とあり、彼は凄まじい修行を経て作仏しているようです。東北や越後での作仏も詳しく解説されていて、「木喰が、円空仏に触発されたということは、確かにあったかもしれない。だがそれにしても、木喰が蝦夷に残した作品は、同地に残る円空仏とあまりに違った趣である。」とありました。さらに越後での作仏は老齢にも関わらず、多作を極めています。「86歳にあたる享和3年(1803)から、88歳の文化2年にかけて、二年余りの同地滞在の間の、信じられない旺盛な制作ぶりである。」とあり、その中で私は「奪衣婆」の解説が気に留まりました。「三途の河で亡者から衣服をはぎ取られるこの老婆の哄笑に、木喰は一見忘れ難い表現を与えている。『蓋し宗教芸術に現れた奇醜の作品として最も優れたものの一つ』と宗悦はこの作品を評しているが、グロテスクななかに、庶民のたくましいユーモアと生命力が含まれていることを見逃せない。」木喰は円空に勝るとも劣らぬ凄い人だったと言えます。
    「謎多い遊行僧円空にひかれて」について
    「あそぶ神仏」(辻惟雄著 ちくま学芸文庫)のⅡ「謎多い遊行僧円空にひかれて」についてのまとめを行います。著者の出身が岐阜で円空に縁のある土地だったために、著者は折に触れて円空の歩いた道のりを辿り、そこで出会った円空仏について感想を書き記しています。私が円空仏を知ったのはいつの頃だったか記憶にありませんが、大きな展覧会が開催されるとよく出かけて行きました。円空が生涯で彫った仏像の数に圧倒されてもいましたが、私はその独特なフォルムに魅了されてきました。著者のように北国の寺を円空仏を求めて旅したい欲求にも駆られています。本文にある寺を書き出してみると、松島の瑞巌寺、大湊の常楽寺、恐山の円通寺、佐井の長福寺、油川の浄満寺、蓬田の正法院、三厩の義経寺、平舘の福昌寺、田舎館の弁天堂、弘前の西福寺、能代の竜泉寺、門前の五社堂、立川町の見政寺という具合で、私も松島と恐山に行ったことはありますが、円空仏に注目して訪ねたことはなく、本当に羨ましい限りです。円空の生地を求める旅では、岐阜県の美濃の洞戸村・高賀神社と美並村の円空仏を訪ねています。「高賀神社には立派な円空記念館が建っていた。中で迎えてくれたのは、まず、温かな微笑をたたえたほぼ等身大の『虚空菩薩像』、これは円空中期の鑿の冴えを伝える秀作である。有名な『十一面観音・善女龍王・善財童子三尊像』はひょろりと丈の長い、すこし歪んだ奇妙なかたちで、一本の丸木を三つに割ってそのまま彫ったためという。~略~これも有名な阿吽の『狛犬像』は、高賀神社の本殿の回廊に置かれていたもので、雲気文の崩れとおぼしい、風変わりで力強い文様が胴体を覆っている。~略~この像もまた、丸木を二つ割りしたものだということが、二体を向き合わせにくっつけた写真から知られるのだが、抱き合ってキスしたようなそのくっつき具合には、楽しみながら像のいのちを木から彫りだす円空の遊戯心が感じ取れる。」本書の図版で見て私も「狛犬像」の面白さに、現代彫刻の父ブランクーシの石彫「接吻」を連想してしまいました。円空仏の表情にも私は癒しを感じています。
    「変容する神仏たち」について
    昨年12月から「あそぶ神仏」(辻惟雄著 ちくま学芸文庫)を読んでいます。本書のⅡ「変容する神仏たち」についてのまとめを行います。近世宗教美術の世界を網羅した文章の冒頭に、仏教の世俗化の経緯が書かれていました。僧の堕落の実態を挙げ、精神史における仏教の衰退を意味するくだりはかなり納得がいくもので、江戸時代から明治維新に至る廃仏毀釈がどうして起こったのか、時代背景を探りながらその動機が論じられていました。「僧の堕落と幕府の宗教統制~略~僧の堕落が批判される一方で、人びとの敬愛を集める清僧、傑僧が各地にあらわれ、大衆の教化、布教に成果を挙げたことをまずあげねばならない。そうした地方の名僧の活動のなかで美術に関し特記されるのは禅画である。」白隠や仙厓が登場したのはこんな時代だったのかと改めて知ることが出来ました。その一方で「恵心僧都の説く地獄のイメージは、民衆の日常感覚に合わせてよりわかりやすく親しみやすいものに改めなければならない。と同時にかれらに恐怖を与え改心を迫るため、強烈な印象を与えるものでなくてはならない。そうした新たな要請が、地獄絵のような、宗教画というよりむしろ劇画調に誇張されたキッチュな表現を生み出した。」とありました。曽我蕭白や葛飾北斎の摩訶不思議な世界は、伝統的な仏画の定型から離れた異界としての仏世界を描いたものだったのでしょう。さらにこんな文章もありました。「数へのこだわり、あるいは数によって信仰の深さ強さを証し立てることー江戸時代の美術家が共通して持っていたのはこうした意識であった。円空や木喰の超人的な活動もその一環である。各地の寺院に残る石彫の五百羅漢像は、多く個人の発願によってつくられたものである。」五百羅漢像では京都にある石峰寺にある伊藤若冲の石像や、豆粒ほどの文字を繋げて輪郭にして阿弥陀三尊像を描いた加藤信清のことが述べられていました。世俗化され衰退したと言われる仏教において、江戸時代の人々によって現代にも通じるイメージ豊かな美術作品が創出されることになった契機が分かりやすく論じられていました。