2019.11.18 Monday
「モディリアーニ 夢を守りつづけたボヘミアン」(ジューン・ローズ著 宮下規久朗・橋本啓子訳 西村書店)の第9章「戦後のパリ、最後の制作活動」のまとめを行います。夭折で逸話の多い画家モディリアーニは、いよいよ短い生涯の終盤に差し掛かってきました。この章の内容によってさまざまな憶測が飛び交い、やがて伝説が生まれたのだろうと察します。酒や麻薬に溺れた天才は、1920年1月24日35歳でこの世を去りました。その時、妻ジャンヌは妊娠9ヶ月で幼い女の子がいました。「彼はほんの少ししか食べず、酒が飲みたいといった。ズボロフスキーやほかの者が、医者に行くように懇願しても、『説教はごめんだ』というありさまだった。モディリアーニは何が何でも自分の病気を無視しようとし、ジャンヌですら彼にたてつくことはできなかった。~略~三日間の間、モンパルナスはモディリアーニの重病の話で持ちきりになった。元気で快活だった頃の彼を知る若い女の子たちは、彼が不治の病を患っていることが信じられなかった。~略~二日後の1月24日土曜日、午後8時50分、モディリアーニは結核性髄膜炎のため死亡した。彼は長い間その病気におかされていたが、医者はその兆候を見逃したのだった。残された数々の逸話には多くの矛盾する点があるとはいえ、この点に関してはどの逸話も一致している。」モディリアーニの事件はここで終わらず、さらに衝撃的なことがありました。「疲れ果て、悲しみと心細さで半ば気が狂っていたジャンヌは、ついに昔の彼女の部屋で横たわっていた。彼女が家を出てから2年半しか経過していなかったが、その期間は人の一生であるほど長く感じられた。彼女が何を考えていたか定かでないが、周囲の人間たちがことばの端々にモディリアーニへの非難の意をほのめかすことには決して耐えられなかったはずである。~略~夜明けに兄がうとうとし始めると、ジャンヌは午前4時に6階の窓を開けて、そこから飛びおりた。彼女の父と兄は、そのばらばらになった小さな遺体を彼女の母に見せまいとして、遺体を馬車でグランド・ショミエールのモディリアーニのアトリエに運んだ。」モディリアーニが亡くなった2日後のことでした。こうしたことがあってモディリアーニの生涯が伝説化されたものと考えられます。最終章はモディリアーニ没後のさまざまなことを扱っています。
2019.11.17 Sunday
私が作る屏風と言っても、従来の日本画のそれとは異なり、角度のついた厚板材に陶彫部品が接合されたもので、言うなればレリーフを折り曲げて展示する立体作品です。私の陶彫表現のデビュー作が「発掘~鳥瞰~」で、屏風になったレリーフでした。その後も再三屏風に仕立てた立体作品を作ってきました。新作も幾度目かの屏風作品で、その厚板に接合する陶彫部品をどうするか、漸く考えがまとまってきました。床を這う根の陶彫部品が、床から立ち上がって壁を伝わっていく様子を、床と壁で連続して表現したいと考えていて、屏風に接合する陶彫部品を今日から作り始めました。実は新作の最初の陶彫試作品が、屏風に接合する陶彫部品だったのですが、これはイメージが固まる前の実験だったわけで、意図して作り始めるのは今日が最初なのです。試作品とは作り方を変えていて、根の陶彫部品を応用して自由にカタチを変形出来るようにしました。壁にボルトナットで接合するために蒲鉾型の陶彫部品の脇に穴を開け、そこからボルトを締められるようにもしました。屏風には矩形の窓を開けるため縦横に線を引いていますが、接合する陶彫部品によって、その窓を取捨選択して陶彫部品と適合させたり、対峙させたりするために、もう一度総合的なデザインをしなければなりません。窓を開けるための厚板への彫り込みは、さらに少し先になりそうです。これから先は屏風に接合する陶彫制作に専念する必要がありそうで、今月の制作目標としては、まず屏風をどうデザインしていくのかを決めていくことになります。今日も秋晴れの一日で、創作活動をやるのに適した気温になりました。工房には若いスタッフが一人やってきて、自分の課題に向き合っていました。誰か工房にいてくれる方が、私も張り合いがあって頑張れるなぁと思いました。それはお互いがそう思っているのかもしれません。最近は週末に集中し過ぎる傾向があって、作業終了後に私は大変な目にあってしまいますが、今日は昼ごろに近隣のスポーツ施設で水泳をして、創作の緊張感をクールダウンしてきました。来週末は私的な用事があって、陶彫制作に十分な時間が取れません。何とかウィークディの夜に工房に行かれないものか、公務員管理職としての仕事を視野に入れながら思案しているところです。
2019.11.16 Saturday
漸く週末になりました。新作の陶彫部品の制作に明け暮れる貴重な週末です。今日は秋晴れの気持ちの良い一日で、工房には若いスタッフが2人来ていて、それぞれの課題に向き合っていました。私は4点目の彫り込み加飾と、乾燥した陶彫部品のヤスリ掛けと化粧掛け、さらに明日の成形に備えてタタラを数枚準備していました。陶彫制作には段階を追った制作工程があるため、複数の部品を同時に作っていかざるを得ないのです。以前から私はこれを制作サイクルと呼んでいました。次から次へ陶彫部品を替えながら進む作業は、ホッとする暇が与えられず、濃密な時間を過ごすことになります。キャリアを積んでもフロー状態になれることは素晴らしいことだと常々思っていますが、作業が終わった後で、疲労で動けなくなるのは困ったものです。表現が定まらなかった若い時代と比べれば、失敗は最小限になり、無駄な動きもなくなりました。と言っても慣れが生じるほど技術を把握できていないので、無我夢中で取り組んでいる姿勢を今だに保っています。自分が今までに獲得した技術の範囲で作っていれば、もう少し余裕が生まれるのでしょうが、イメージ先行の新作は常に技術的な挑戦が伴い、不安や焦燥はまだ私の中に燻っている状態です。私はどのくらい成長できたのか、作品はどのくらい展開して、深遠な思索を湛えているのか、自分ではまるで分かっていないため、相変わらず自分の無力さを思い知るばかりです。ウィークディの仕事では曲がりなりにも職場のトップとして、人に指示をする立場にありながら、週末になって工房にやってくると、私はたった一人の人間として己の力の無さを曝け出しているのです。そのギャップが私自身であり、社会的に認められた優位な立場と、人間的な弱さに喘いでいる陰の自分の双方が、私という個人を形成しているのだろうと思っています。工房での作業は明日も継続です。
2019.11.15 Friday
今日は私の自家用車について書きます。私は大学生の頃に運転免許を取得し、亡父の造園業を手伝っていました。私が最初に運転した車が2トントラックで、植木や庭石の運搬をやっていました。実家にトラックがあったのは彫刻をやっている私にとって何かと重宝して便利でした。併せて乗用車もあったので、父にお願いして時折運転していました。乗用車をトラックのように雑に扱うと父に怒られました。当時はオートマチック仕様はなく、ギアチェンジをいかに巧みにに出来るか、運転の楽しみのひとつになっていました。社会人になって自分で車を購入した時は、オートマチック車が主流になっていました。最初の車は軽ワゴンでしたが、そのうち自分の趣味が反映した車に替えていきました。私は目的のないドライブがあまり好きではなく、メカニックにも興味がないことが徐々に分かってきました。車は自分の造形感覚を満たすモノという概念があって、機能よりデザイン重視になっていきました。それは昔を考えてみると、私は大学時代に彫刻科の教壇に立っていた篠田守男先生が乗っていたポルシェを遠くで眺めていて、稀有な車の美しさに憧れを持ったのに端を発していると思っています。私はクラシックなデザインが好きです。そこでクライスラー社のPTクルーザーを購入しましたが、外車は一度故障すると部品の取り寄せに時間がかかるため、次の車は国産車にしようと決めました。次に買い替えたのが光岡自動車のビュートです。これは他社の車をベースカーにしているため、点検等は日産でやってもらうことが可能です。今回は修理を含んだ点検のため、光岡自動車の横浜ショールームに車を預けることにしました。光岡自動車は風変わりな会社だなぁと思っています。工場は富山県にしかなく、車体は手作りのために納車に時間がかかります。それでも私はビュートが気に入っていて、現在は2台目です。最初のビュートの外装はブリティッシュグリーンでした。今のビュートはワインレッドです。どちらも色彩がいいなぁと思っています。光岡自動車は飛び切りな贅沢を売っている会社だろうとショールームを見ていて感じました。
2019.11.14 Thursday
「モディリアーニ 夢を守りつづけたボヘミアン」(ジューン・ローズ著 宮下規久朗・橋本啓子訳 西村書店)の第8章「南フランスで迎えた終戦」のまとめを行います。本章ではモディリアーニの妻となるジャンヌ・エビュテルヌとの出会いがあります。モディリアーニと知り合った頃の彼女はまだ十代で、国立美術工芸学校に在学していました。「モディリアーニに会うやいなや『彼女は俺(モディリアーニ)の虜になった』と誰もが認めている。ジャンヌがモディリアーニに心を引かれたのは、彼の容貌に魅せられたのと同時に、彼の才能、とりわけその画風と、彼の女性関係に興味を覚えたからであった。」ジャンヌは良家出身で無垢な面と野心家の面があったようです。ジャンヌはモディリアーニの子供を身籠り、やがて女子を出産します。「生まれた子供は女の子で、母親の名前をとってジャンヌ・エビュテルヌと名づけられた。しかし、モディリアーニは娘をジャンヌのイタリア語名であるジョヴァンナという名で呼んだ。彼は興奮し、喜んではしゃぎまくり、情熱的で忘れっぽい父親となった。赤ん坊が生まれた後、彼は興奮のあまり、市役所に行って出生届を出すのを忘れてしまったのだ。」こんな一文もありました。「モディリアーニの赤ん坊の成長に対する喜びと驚きは、彼がほかのことにも強い関心を見せていることから、突飛にも思えるが、赤ん坊に対する彼の気持ちは本物であった。」彼の画商ズボロフスキーは画家オステルリンドの家に彼を連れて行きました。「『モディリアーニは…イタリアの貴公子のごとく美しい男だったが、疲れ切って汚れていた…あたかもジェノヴァの港で引き上げられたように。彼の影のように彼に寄り添うズボロフスキーは、その親密な友情から、彼をニースの危険な生活から守ろうとしているようであった』オステルリンドとその妻ラシェルは、モディリアーニを精一杯あたたかくもてなした。」オステルリンド宅の近くに77歳の巨匠ルノワールが住んでいて、モディリアーニを紹介することになりましたが、話がお互いの作品のことになると会話に緊迫した雰囲気が流れたようです。「作風からいっても両者の違いは明らかだった。肉体そのものの美しさに魅せられていたルノワールは、素朴でありながら様式化された優美な裸婦を描くモディリアーニに反抗した。モディリアーニは明らかに、この年長の画家の挑発的な反抗心に気づいていた。」