Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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  • 週末 自宅外壁工事&陶彫制作
    台風19号の影響で雨樋が壊れ、また雨漏りがあったために先月中旬ごろに施工業者と打ち合わせを行いました。先週から自宅は足場の鉄骨で覆われています。今日はベランダの修繕塗装をするために自宅に入らせてほしいと施工業者から申し出があったために、私は工房へは行かず自宅で待機していましたが、雨のために施工業者は来ませんでした。今日は結局工房に行くことになりましたが、私にとって自宅でじっとしているより、工房に行って少しでも新作を先に進める方が良いのです。自宅は台風の被害に遭ったものの、築30年の間に一度もメンテナンスをしていなかったので、被害で損壊したものとは別に、全体の外壁を塗りなおす工事をすることにしました。被害損壊はひょっとして災害保険で賄えるとして、外壁工事は持ち出しになるため、私がまだ現職のうちに行った方が良いのではないかと判断したのでした。外壁が終わったら次の段階として断捨離を含めて内装をリフォームする予定ですが、果たしてどうなるのでしょうか。今日は寒々とした一日で、終日雨が降っていました。工房には染織で表現活動をしている若いアーティストがやってきていました。彼女のドローイングは細密で独特な雰囲気があって私は刺激されます。私も彫り込み加飾1点と仕上げと化粧掛け4点を一気に行い、4点のうち2点を窯に入れました。実際の焼成は明日の夕方から始めますが、来週も2回の焼成を行います。明日は東京の美術展に久しぶりに行ってみようと思っているので、新たな成形はやめました。順調に回っていた制作サイクルがちょっと緩みますが、鑑賞も大切なことなので、明日は先輩画家の個展やら美術館に出かけることにしました。
    「マン島のクロス」について
    「呪術としてのデザインー芸術民俗学の旅」(中嶋斉著 彩流社)の第1章の1「マン島のクロス」についてのまとめを行います。職場の私の部屋に本書を暫く置いていたのですが、「モディリアーニ」を読み終えた後、鞄に携帯するようになりました。職場にあってもなかなか読める機会が少なく、通勤中の方が読書に向いていると思ったのです。本書で最初に取り上げられていたのがアイルランドやスコットランドに残るケルト文化に関するもので、実は最近になって私は大変な関心を寄せています。ケルト高十字架や石碑(クロス)の図版を見て、私はこの地を訪ねたい欲求に駆られました。マン島は英国とアイルランドの間にある島で、ヴァイキングの遺跡の宝庫だそうですが、素朴なケルト文化も残っています。「現在この丘(ティンワルド)には新しいケルト高十字架が立っている。頭部の十字を円環でつなぐ車輪十字のそれである。しかしマン島には高十字架よりも、聖地や墓所にたてられていた特異なクロスが残っていて、素朴な時代の信仰のあとを刻んでいる。」クロスに刻まれた文様で私が興味を持ったのは組紐文様です。「ここで最も注目をひく特徴は、組紐文様の多様さであり、また綿密で精巧なことであろう。人物や動物の描写よりも、三つ編みに仕上げ、また長く輪をつなぎあわせて、それらの文様が石碑の表面を覆いつくすのである。」ケルト文化がキリスト教と同化し、ケルト系修道士が広めた宗教組織の中で、マン島のそれは純朴さを残したものであったことが最後に語られていました。「見上げるようなアイルランドの高十字架が、体系と組織をもった宗教のシンボルであるのに比して、マン島のクロスはしみじみとした人性のそれのように見える。キリスト教が華々しい西欧文化の先導者としてヒューマニズムに踏みこんでいくとき、アニミズムは常に決断を躊躇しながら、その深い情念の故に、宗教よりも限りなく芸術に近づいていく、マン島のクロスは、そうした心の象徴であるように思えるのである。」
    ウィークディ夜の窯の出し入れ
    昨晩、仕事帰りに工房に立ち寄りました。工房にある窯に陶彫部品を入れたのが日曜日の夕方だったので、水曜日には温度が下降し、窯の出し入れが出来ると判断しました。水曜日の夜に次の窯入れをすると、土曜日には窯出しが出来ます。1週間のうちに2回の焼成を行うことが可能で、そうなれば週末は焼成をしていない期間になり、陶彫制作を行うことが出来るのです。これは工房の電気の関係で、窯を稼働している時は照明等のブレーカーを落として、電気が窯だけに流れるようにしておく必要があるためで、これはウィークディには陶彫制作をしないことを前提にしています。私がウィークディの昼間は公務員として仕事をしているために、こうした処置は理に適っていると思っています。焼成準備をするために週末は窯2回分の仕上げと化粧掛けをしなければならず、新しい陶彫制作と合わせて焼成準備のために時間を使わなければなりません。陶彫制作だけやっている今までもかなり厳しい制作内容になっているにも関わらず、これからの週末は窯入れも考えて、さらに時間的には切迫した厳しい作業になると思っています。ただし、窯入れするには完全に乾燥した陶彫部品を選んでいくので、週2回の焼成は長くは続きません。焼成が途切れた時がウィークディの夜間制作が可能な時なのです。今まで幾度となく言ってきたように陶彫の醍醐味は焼成にあります。窯を開けた時、目に飛び込んでくる作品は焼き締められて石化したモノで、炎神に洗礼を受けた勇姿がそこにあります。私が窯に入れる前に作っていたモノとは別のモノが存在しているといっても過言ではありません。昨晩もそんな印象を持ちました。自作に感動するのは他の鑑賞者ではなく、まずは窯出しをする作者自身なのです。
    「モディリアーニ 夢を守りつづけたボヘミアン」読後感
    「モディリアーニ 夢を守りつづけたボヘミアン」(ジューン・ローズ著 宮下規久朗・橋本啓子訳 西村書店)を読み終えました。ボヘミアンとしての芸術家の代名詞ともなっているモディリアーニ。確かに物語として脚色するのに事欠かないエピソードがあって、斬新な絵画だけではなく、モディリアーニその人にも注目される要素が満載です。私は前から縦長の首の彫刻に惹かれてきましたが、健康が芳しくない中で石彫を諦めざるを得なかったモディリアーニの生涯が本書によって分かったように思います。「モディリアーニは生涯を通じて懸命に目的をもって制作したが、脆弱で、成功せず、評価もされなかった。彼は女性を愛し、女性に愛された。酒を飲み、麻薬に手をつけた。しかし、それは彼の人間を決定するわけではない。また、彼の作品、特に、官能的なヌードは別にして、曖昧な背景をもつ室内の単身像にほぼ作品が限定されて以降の作品が、一貫して高い密度を保っていたことも、それでは説明できない。彼は作品の中で、時代の潮流に背を向け、流れるような独創的な線描を用いて、過去のさまざまな芸術の中から自分の様式を発見した。」著者であるジューン・ローズが綴ったこの文章にモディリアーニの芸術が凝縮されているように思います。翻訳の担当者があとがきで述べている文章で「モディリアーニ 夢を守りつづけたボヘミアン」を締め括りたいと思います。「英雄でもならず者でもない、矛盾に満ちた一人の繊細で純粋な男の生きざまと、それをいろどる人間模様のあやが、当時のパリの時代相の中できわめてリアルに塑形されているのである。悲劇の天才芸術家というより、俗なる『ボヘミアン』としての人間モディリアーニの伝記の決定版といっても過言ではないだろう。」(宮下規久朗著)
    「モディリアーニ」第10章のまとめ
    「モディリアーニ 夢を守りつづけたボヘミアン」(ジューン・ローズ著 宮下規久朗・橋本啓子訳 西村書店)の第10章「モディリアーニ神話とその後」のまとめを行います。享年35歳で世を去った天才画家、妊娠中の妻も飛び降り自殺をしたことで、モディリアーニはその衝撃性ゆえにさまざまな伝説が生まれ、物語化、映画化をされてきました。「モディリアーニは自由放縦に生き、亡くなるとすぐに友人や同時代の人々はその喪失を実感し始めた。向こうみずで美しく、傲慢不遜で貧しい彼はその短い生涯のうちに時代の理想と成果を集約していた。~略~『セックスに耽溺し、酒浸りで、不道徳で、危険な魅力にきらめいている存在として画家たちのことを表現するのがはやった』頃には、この街の作家やレストランの主人たちはモディリアーニの神話と魔力を風化させないでおく必要性を感じた。彼らはモディリアーニについての誤った風説によって豊かになり、モンパルナスはヨーロッパの中心的な観光地に発展していった。」私は40年前の20代の時にパリを訪れていました。モンパルナスという地名や「エコール・ド・パリ」という名で集まった画家たちの足跡を辿っていました。その頃は既に観光地になった場所で、土産用の絵を売る人たちが野外に出店していて、とりわけ興味を引くものがありませんでしたが、時代を遡れば前衛芸術家と称された彼らが、そこで必死に足掻いて生きていたことに、私は敬意を払ったことを思い出しました。モディリアーニについての誤った風説が罷り通っていたにしても、モンパルナスは観光客を引きつける魅惑的な土地になったことは確かでした。モディリアーニと妻ジャンヌの葬儀に触れた箇所に注目しました。「兄のエマヌエーレはリヴォルノから『彼を花で包んでください』と電報を打った。そしてモディリアーニの柩は彼の愛したみずみずしい花でいっぱいにされた。~略~ジャンヌはモディリアーニの葬式の前日に自殺し、友人たちは合同葬儀を望んだが、ジャンヌの父親はこの提案に恐れをなした。彼女の葬式はモディリアーニの葬式の翌日、注目を避けるために朝の8時にとり行われ、ジャンヌの友人たちにはこないでくれと頼まれた。『十分なスキャンダルだったのです』」モディリアーニと妻ジャンヌが同じ墓地に眠るようになるのには、それから10年という歳月が必要だったのでした。