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  • 「芸術空間としての曲輪」について
    「呪術としてのデザインー芸術民俗学の旅」(中嶋斉著 彩流社)の第2章の3「芸術空間としての曲輪」についてのまとめを行います。この章は能や歌舞伎の発生から、それら芸能が齎した意義までを述べていて、能や歌舞伎に対してあまり造詣の深くない自分には、改めて学ぶところが大きかったと思っています。山中に入り、そこで祖霊や神霊と交わることで修験道を極めた山伏が、日本独自の芸能の興りを促したと考えて間違えなさそうで、私は興味を抱きつつ、こんな文章に気を留めました。「山が祭祀空間であり、演劇空間でありうるためには、そこが同時に生活空間でなければならない。先にふれたことだが、これらの山ふところに入り修行する山伏は、山中の生活にくわしく、間道をよく知っていて情報集めや伝達に敏であったと同時に、武器製造にも長じていて、中世動乱期に武士階級と結んで軍事生活を援けたことは周知のことである。~略~こうした歩きの集団、つまり鉱山業に従う技術者集団や漁撈民と砂金採集者、諸国を遊行する宗教者たち、そして地方の武士階級、これらの結びつきこそが、能や歌舞伎を大成した原動力であった。例えば能は、山伏の祭儀を軸に、さまざまな音曲をたずさえ白拍子をも含めて地方の武士階級によりつく猿楽師たちの出あいであった。~略~歌舞伎は、出雲大社の巫女であった阿国が、社殿修復のための勧進に遊行したのがその始まりとされている。」古い時代に祖霊や神霊との結びつきが能や歌舞伎の土台にあったことが分かりました。江戸時代になり定住の生活を送るようになった庶民社会は、公的街道が整備され、また階級組織による社会が確立されてきて、歩きの生活者がもっていた武術や芸能も家元等の統制をされるようになったようです。「神の通い路としての道に代わって、地上の権力が道を支配するとき、やがて曲輪を孤立させ、その閉鎖的な性格が顕著になっていく。そして隔離された曲輪は、遊里に代表されるように、裏街道や私的な通路によってひそかにつながれて、そこからかつての道に代わる『通』の観念が生まれ幅をきかせるようになった。」さて、近代になって日本の芸能はどうなっていくのか、こんな文章もありました。「近代が招いた神の喪失は、西欧においてリアリズム演劇が主流となり、また一方ではバロックやロココを経て世紀末の装飾芸術へとつながっていくが、日本の芸能も鎖国政策が一層の拍車をかけて、遊興の里に頽廃の美を競う。そしてそこに通う人びとは全体より部分に興味をつのらせ、死と再生の祈りにつながった演能とは無関係な、より現世の感覚に対する刺戟を求めていく。」
    創作を最優先に考える理由
    12月になってウィークディの仕事が立て込んでいます。師走とはよく言ったもので、昼間の仕事をやっていると精神的な疲労が重なり、慌ただしい毎日を過ごしていると実感しています。帰宅後にやっているRECORDやNOTE(ブログ)が滞ることもあります。夕食後に居間で寛いでいると、このまま眠ってしまいたくなる誘惑に駆られ、飼い猫トラ吉の幸せそうな寝姿をみていると羨ましくもなります。それでも創作活動をやらねばならないと自分に言い聞かせて、いざRECORD用紙を取り出してみるのですが、鉛筆を持ちながらうつらうつらしています。昼間の仕事は自分の事情とは関係なく否応なしにやってきて、組織的に取り組む事案が数多くあるため、優先順位としては当然の如く一番なのです。それも一難去ってまた一難の繰り返しです。それを良しとして私は今も再任用管理職をやっているわけで、そこに言い訳はしませんが、私の中だけでも創作活動を最優先にしておかなければ、社会的にニーズのない創作活動をやらなくなってしまう恐れがあるのも事実です。そうなれば昼間の仕事を退いた時に、きっと後悔するだろうと私には分かっているのですが…。20代の若い頃からやりたいと願っていた創作活動は、現在は工房も完備し、発表の場として東京銀座の画廊が個展を企画していただいている環境があります。それを日常の慌ただしさのせいにして簡単に手放すわけにはいかないのです。創作を最優先に考える理由は、とても明確で、それが私を突き動かしている要因なのです。充分自分は分かっていながら、毎晩睡魔に勝てない甘さがあって、少しずつ積みあがっていくRECORDの下書きを見ながら、何とかしたいと焦っているこの頃なのです。今日はグチを呟いてしまいました。
    師匠の絵による「人生の選択」
    昨日、長野県の山里に住む師匠の池田宗弘先生から一冊の絵本が送られてきました。「人生の選択 デーケン少年のナチへの抵抗」というタイトルがつけられた絵本で、これは明らかに子供向けではなく、大人を対象とする絵本でした。ナチスドイツが台頭した時代を生きた神父アルフォンス・デーケンの実話を基に、本書は堀妙子・文、池田宗弘・画で作られ、藤原書店から発行されたものでした。デーケン氏は1932年ドイツ生まれで、上智大学で死生学を教えていた経歴を持っています。「わたしのライフワークは人びとに、生きるとは何か、死とは何かを伝えることでした。死を考える出発点になったのは、4歳の妹パウラの死でした。さらに、戦争の時、焼夷弾で亡くなった友人一家の不条理な死、同時期に、わたし自身も連合軍の飛行機から機銃掃射で狙われ、間一髪で命拾いをした経験もあります。常に死は、身近にありました。わたしは、肉体の死より恐ろしいと思った体験があります。それはナチのエリート養成学校に行くことを断った時です。この学校に入ることは精神的な死を意味していました。真理は、熱狂する民衆の中にはありません。もし、入学していたら、わたしの命はなかったでしょう。戦後、ナチのエリートたちは皆、殺されましたから。その後、わたしは自分が司祭への道を歩みたいと決心した時、日本26聖人殉教者、ルドビコ茨木の影響を受けました。本格的に司祭の道を志した時に、聖フランシスコ・ザビエルの書簡を読み、宣教師になって日本に派遣されるようにと願いました。わたしはザビエルと同じイエズス会に入会しました。」これは絵本の最後に書かれていたデーケン氏の言葉です。絵本は天使ガブリエルが、神から啓示を受け、猫に変身して少年デーケンのもとに使わされるところから始まります。池田先生にしてみれば、彫刻のモチーフのひとつである猫とキリスト教が本書の主題であり、最も得意とする分野だったはずで、楽しんで描いていた様子が伝わってきました。丹念に丁寧に描かれた絵画の背景ひとつ一つに思いが込められていました。
    ヨーロッパを懐かしむシュトレン
    この時期になると、神奈川県川崎にある菓子店「マリアツェル」に出かけます。20代の頃、オーストリアのウィーンに暮らしていた自分は、日本人パティシエと仲良くなり、よく遊んでいました。彼は菓子修行でホテルに勤務、私は美術学校の学生だったため、よく私に食事を振舞ってくれました。当時私は収入があった彼を羨ましく思っていました。12月になるとウィーンの店ではシュトレンを売っていました。シュトレンはドイツ語で「坑道」という意味です。文字通りトンネル状をした菓子パンを指しますが、自分がウィーンから帰ってきた30数年前は、日本でのシュトレンの知名度はありませんでした。ドイツ語圏の国々ではクリスマスの時期になるとシュトレンを売り出すベーカリーが増えて、この季節の保存食として楽しんでいます。シュトレンはドイツのドレスデン発祥と言われていますが、1329年ナウムブルグの司祭へのクリスマスの贈り物が最古の記録としてあるようです。イエスのお包みにカタチを似せていることで、キリスト教絡みの行事にも使われています。ヨーロッパ以来の知り合いであるパティシエが経営する「マリアツェル」で、シュトレンをまとめて購入するのが、我が家の恒例行事になっていて、今年も多量に頂いてきました。彼が作るドイツ系菓子やシュトレンはヨーロッパに出回るものと比べても遜色はありません。寧ろ日本人に合った趣向を凝らせているので、シュトレンの美味しさは抜群です。ドライフルーツ等の材料を海外から仕入れていて、これで収益があるのかどうか疑わしいのですが、あまり商売に肩入れしない彼は、材料に比べて安価で菓子を売っているのです。それでも「マリアツェル」を始めた頃は、多忙を極めていて、本場ヨーロッパ仕込みの菓子は飛ぶように売れたようです。今年大量に仕入れてきたシュトレンは、長野県に住む彫刻家の師匠や山形県に住む画家の先輩、親戚の学者や声楽家に送っています。ヨーロッパに関わりがある人であれば懐かしさでいっぱいになるはずです。
    映画「シュヴァルの理想宮」雑感
    先日、横浜市中区にあるミニシアターに「シュヴァルの理想宮」を観に行きました。私自身は深い感銘を受けて、主人公が後半生を費やした宮殿作りのことが頭から離れずにいます。人は何を生きがいにしていくのか、この映画は武骨で不器用な主人公が生涯をかけて幸福を掴んだ話として私は理解しています。図録に「ひたすら頑固に信念を貫く夫と周囲の人々との間に生じる軋轢の中で、それでも彼を見放さず生涯にわたってそばで見守り支えた妻」という一文がありました。主人公のみならず、その妻の夫への接し方にも私は感銘を受けました。また主演インタビューの中に「彼は無欲で、誰かを魅了するためでもなく、そして一瞬たりとも疑いを持つこともなく、長い間宮殿の建設に身を捧げたんです。」というコトバもありました。これは映画として見れば、愛娘のために、そして妻に支えられ、郵便配達員をしながら、たった一人で巨大な宮殿を作り上げた男の家族愛の物語になるわけですが、昨日もNOTE(ブログ)に書いた通り、シュヴァルの創作活動への情熱はどこからくるのか、私の頭を離れない理由はそこにあります。作り上げた結果より、苦しみながら作っていく制作過程において、彼は幸福だったのではないかと私は思うところですが、いかがでしょうか。最後に現在フランスの観光スポットになっている「シュヴァルの理想宮」についてのインフォメーションを掲載しておきます。「シュヴァルの理想宮は、郵便配達員のジョセフ=フェルディナン・シュヴァル(1836-1924)がたった一人で石を拾い集め、すべて手作業で築き上げた、フランス南東部ドローム県のオートリーヴ村に現存する理想宮。1879年から1912年の33年間、9万3000時間を費やし完成した。スケールは東西26m、北14m、南12m、高さ8~10m。古今東西の様々な建築様式やモチーフが混在し、雑誌や絵葉書を情報源に空想癖の強いシュヴァルが思い描いた夢想が表現されている。」理想宮は芸術家ピカソやシュルレアリスムの旗手ブルトンらが高い評価をしたようで、2017年の調査では年間17万5000人が訪れているそうです。P・コンスタンという専属の修復家もいて、彼はまるでシュヴァルのような人物だと図録にありました。一度は訪れてみたい造形建造物かなぁと思っています。