Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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  • 週末 2月を振り返って…
    今年は閏年に当たっているため、今月は29日までありました。今日がその29日で、今月最後の日になりました。相変わらず世間では新型コロナウイルスの感染が席巻し、予断を許さない状況になっています。私はいつものように朝から工房にいました。新作の屏風は一層目が完了し、現在は二層目に入っています。屏風は厚板6枚で構成し、一層目は全体的に格子模様を刳り貫いています。その下に接着する二層目はところどころ格子模様を刳り貫いています。二層目が終わると、すぐに一層目との接着作業に入ります。今日の作業で6枚あるうちの4枚まで完了しました。このペースでいけば、明日にも屏風の木材加工は終わる予定になります。順調と思いたいところですが、創作活動は何があるか分からないので、制作工程にも懐疑的になってしまうのです。今日が今月最終日ということで、今月を振り返ってみようと思います。週末は全て木材加工に充てていて、板材刳り貫き作業に明け暮れました。完了まであと僅かというところまで辿り着きました。陶彫部品では一度窯入れを行ないました。業者が来て窯の錆や皹に対してメンテナンスをしてくれました。陶彫における焼成というプロセスは人の手が及ばない工程で、博打的な面白さを感じたのと同時に、木材加工は逆に全て人の手で賄える着実な安心感があり、それぞれの素材の特徴を改めて思い知った1ヶ月でした。鑑賞は東京上野の博物館に出かけ、2つの大きな展覧会を見てきました。「人・神・自然」展(東京国立博物館東洋館)、「出雲と大和」展(東京国立博物館平成館)で、2つとも私好みの展示内容で創作活動に大いなる刺戟をもらいました。この展覧会鑑賞の後に新型コロナウイルスの影響があって、他の美術展や映画館に行くことを躊躇ってしまい、今月はこの2つの展覧会だけになりました。RECORDは下書きだけが先行する悪癖が出てしまい、毎晩苦戦していました。仕事から帰ってくると、疲労がとれず、RECORDの下書きを描いていると睡魔に襲われる日々でした。これは何とかしたいと思っているところです。読書は仏像仏画の楽しい評論と、イサム・ノグチの生涯を綴った書籍を交互に読んでいて、比較的平易な文章のため気楽に取り組むことが出来ています。2冊とも継続です。今月は自宅の大掛かりなリフォームについての契約も行ないました。来月後半からリフォームが始まりますが、私にとっては一大決心だったことを付け加えておきます。
    新型コロナウイルスの影響
    連日、マスコミで報道されている新型コロナウイルス。職場においても影響が少なくありません。各種研修会の延期や中止が相次ぎ、人が大勢いる私の職場でも何らかの対応を迫られている状況です。私たちの職種は自宅に持ち帰られる仕事が少なく、職員の出勤制限もかけられないのです。臨事休業となれば、職員がそれぞれ自分の仕事や周囲の整理をしてからでないと休みが取れない有様です。そういう中でも管理職は連日出勤かなぁと思うところですが、今後は主幹となっている職員と話し合いながら、職場の方針を決めていこうと思っています。感染防止を行う以上は外出もままならず、美術館等の鑑賞に出かけることは当分やらない予定です。植木畑に建つ工房は、人が密集している職場より安全だと私は思っています。私を含め1人ないしは2.3人のアーティストがそれぞれ離れた場所で制作をしていることで、たっぷり空間を確保しているからです。工房の有難みを感じながら、創作活動が出来る幸せを味わっています。ここ1ヶ月が感染拡大防止の曲がり角と政府は言っていますが、オリンピック・パラリンピックへの影響はどうなるのでしょうか。私の個展開催がオリ・パラ開催時期と重なるので、横浜の工房から東京銀座のギャラりーせいほうまでの搬入搬出経路を、私は心配しています。オリ・パラ開催中でも物流を止めることは出来ないので、道路を迂回しながら何とか作品を運べるのではないかと思っていますが、問題はギャラリーに人が来てくれるかどうかです。新型コロナウイルスが夏までに終息してくれることを祈るばかりです。
    造園と彫刻との関係
    私の父は造園業を営んでいて、父が存命の頃は複数の植木職人が実家に出入りしていました。先祖代々野菜を作っていた畑には、植木が植えられ、また庭石が置かれていました。実家にはトラックの駐車スペースがあり、前日に切り落とした枝葉で職人たちが焚火をやっている光景もありました。中学生の頃から造園業を手伝っていた私は、とりわけ園芸仕事が好きというわけではなく、草花も商品として見ていたし、雑草は私が刈らなければならないものという認識があって、緑を楽しむ発想はありませんでした。「石を聴く」(ヘイデン・ヘレーラ著 北代美和子訳 みすず書房)を読んでいると、世界的な彫刻家であるイサム・ノグチが、幼い頃に神奈川県茅ヶ崎でアメリカ人の母と共に小さな家に住み、山から採取してきた草花を庭に植えている様子が描かれています。当時のノグチは園芸家になろうとしていたことも書かれていました。それがやがて木工作業になり、彫刻に発展していく様子は、私だからこそ共感を覚えるのかもしれないと思うところですが、私が歩んだ道はイサム・ノグチとは逆でした。父の造園業を見直したのは、私が彫刻を学んだことが契機だったからです。造園から発展して彫刻に辿り着いたイサム・ノグチと、彫刻を知ったが故に造園を見直した私。世界的彫刻家と比べるのは些か気が引けますが、私がイサム・ノグチの世界観に特別な親近感を抱いているのはこんな事情です。書籍の中にあった「断定的主張の欠如」というイサム・ノグチの彫刻の特徴を示した語句に、私は敏感に反応してしまいました。まさに日本庭園がもつ自然をそのまま受け入れた造形に通じるものがあるからです。庭石の肌や見え方に従って石を置く位置を少しずつ変えて、石と石の関係性を大切にする、また植木の枝ぶりを見て向きを決定する、そんな父の指示によって、若い職人たちと半端職人の私は力を振り絞っていました。何のためにそんなことをするのか、これは風景の模倣であり、象徴化された自然を再現することにあるのです。己の造形的主張より自然との融合を優先する考え方は、まさに「断定的主張の欠如」なのだろうと思っています。イサム・ノグチはそんな日本庭園の考え方を自作に取り入れた最初の芸術家だったと私は認識しています。
    イサム・ノグチ 米国へ渡る
    「石を聴く」(ヘイデン・ヘレーラ著 北代美和子訳 みすず書房)は「イサム・ノグチの芸術と生涯」を扱った評伝で、今回は第6章と第7章のまとめを行います。第6章「インターラーケン」では、いよいよノグチの渡米した様子が語られています。「ぼくが最初に見たアメリカは、松がそびえる北西部の海岸線とヴィクトリアを経てシアトルに向かう水路だった。」ノグチを最初に保護したエドワード・アレン・ラムリーの創設したインターラーケンで、彼は充実した学園生活を送っていたところ、ラムリーが親独派と見なされ、ついに逮捕され、学校は閉鎖に追い込まれたのでした。「戦争のために日本との通信は困難だった。母が恋しかったにもかかわらず、この十年間あまりにも多くの時間をひとりで過ごしてきたので、イサムは愛する人びとを必要としないすべを学んでいた。」その後、ノグチはローリング・プレイリーに移りました。「インターラーケンの自由な雰囲気とは違って、ローリング・プレイリー公立学校の子どもたちはこの異邦人を疑いの目で見た。イサムは年のわりには小柄で、その顔立ちには日本的なところがあった。もう一度イサムは自分をはずれ者と感じた。」第7章「ラ・ポート」ではラムリーが保釈され、ノグチをラ・ポートの自宅に連れ帰り、チャールズ・S・マック医師の家族に彼を預けました。「イサムはマック一家のもとで不自由なく暮らし、暖炉の掃除、芝刈り、新聞配達などで生活費を稼ぎながら高校を修了した。新しい家庭で安心感を得たにもかかわらず、心の奥深くにある不安感は残ったままだった。『ぼくは日本にいる母をたえず心配し、父親に対する道徳的な嫌悪感を育んでいった。』」高校を卒業する時期にノグチの進路に関する記述がありました。「ラ・ポート高校ではアメリカ風に『サム・ギルモア』を名乗り、好成績をおさめた。1922年にクラスの首席で卒業。絵がうまいと評判だったので、クラスの卒業記念アルバムの挿絵描きに選ばれた。~略~イサムが高校を卒業したとき、ラムリーはイサムに自分の人生をどうしたいのかと尋ねた。『ぼくは即座に答えた。アーティストだ、と。アメリカにきて以来、アートとはまったく無関係になっていたことを考えれば、これは奇妙な選択だった。ぼくはこれといった才能を示していなかった。反対に、アートに対して健全な懐疑主義といえるもの、おそらく偏見さえをも身につけていた。父がアーティストーつまり詩人ーだったからだ。~略~それでもぼくの最初の本能的な決定はアーティストになることだった。』」
    イサム・ノグチの在日生活について
    「石を聴く」(ヘイデン・ヘレーラ著 北代美和子訳 みすず書房)は「イサム・ノグチの芸術と生涯」を扱った評伝で、今回は第4章と第5章のまとめを行います。このところ「あそぶ神仏」(辻惟雄著 ちくま学芸文庫)と「石を聴く」を交互に読んでいる印象がありますが、「石を聴く」はかなり分厚い書籍で、鞄に携帯するのは辛いと思い、職場の私の部屋に置いて仕事の休憩時間に読んでいるのです。45分の決められた休憩時間にイサム・ノグチの生涯に触れることは、仕事も心機一転できて良い効果を生んでいます。第4章は「茅ヶ崎」で、ノグチが母と共に7年間暮らした海辺の村であった茅ヶ崎についての記録がありました。茅ヶ崎の小学校は地元の漁師の子が多く在籍していて、ノグチにとっては居心地の良いものではなかったのでした。「子どもたちはしばしばーとくに学校からの帰宅途中でーイサムをからかい、いじめた。罵声を浴びせかけ、石を投げたり、逃げ切れなかったときは田んぼに突き落とした。」そんなことがあって「その孤独な成長期とはみ出し者という感覚はたしかに、その機智や魅力、洗練にもかかわらずノグチがきわめて打ち解けにくい人間に成長するのに手を貸した。」という少年期の影響が、大人になっても性格を決定づけていたことが分かります。またこの章では妹アイリスの誕生にも触れていました。「ノグチは7歳。本人が回想するとおり、アイリスの誕生は『もちろん僕の全人生を、もうひとつの疑いと幻滅と混乱のなかに投げこんだ。なぜならば自分がずっと[母の]注目の唯一の中心だったのに、いま母の注目は逸らされ、ぼくの世界は同じではなかったからだ。』」第5章「セント・ジョセフ・カレッジ」では、横浜にある外国人学校に入学したノグチの生活を描いていました。ここでも学校に打ち解けることがなかったノグチでしたが、将来を考える上で重要な場面が多々ありました。「レオニーはヨネの『無抵抗という東洋的教養』を論じながら、無為をなすことの価値についてのヨネの考え方を鸚鵡のように繰り返した。この父の思想をのちのノグチも共有するようになる。~略~何年もあと、その息子の彫刻にみられる断定的主張の欠如(デイヴィッド・スミスのような同世代の他のアーティストの作品に感じられる筋肉的なダイナミズムと比較すれば)は、一部の鑑賞者の目にノグチの作品をアメリカ的というよりアジア的に見せた。~略~ノグチはまた自分が簡素を好み、純粋な構造にこだわる理由を日本で過ごした子ども時代に帰している。『日本の伝統は素材と、物がつくられる過程を大いに尊重する。それは物の触感により近い文化だ。ぼくにとって触感はとても重要だ。ぼくがそれを得たのは、物とはただ上に塗られているものだけではなく、構造もデザインの一部だと知るという子供時代の経験を通じてだ。』」日本で培われたものが彫刻表現に重要な要素を加えていることに私は注目しました。