2019.11.16 Saturday
漸く週末になりました。新作の陶彫部品の制作に明け暮れる貴重な週末です。今日は秋晴れの気持ちの良い一日で、工房には若いスタッフが2人来ていて、それぞれの課題に向き合っていました。私は4点目の彫り込み加飾と、乾燥した陶彫部品のヤスリ掛けと化粧掛け、さらに明日の成形に備えてタタラを数枚準備していました。陶彫制作には段階を追った制作工程があるため、複数の部品を同時に作っていかざるを得ないのです。以前から私はこれを制作サイクルと呼んでいました。次から次へ陶彫部品を替えながら進む作業は、ホッとする暇が与えられず、濃密な時間を過ごすことになります。キャリアを積んでもフロー状態になれることは素晴らしいことだと常々思っていますが、作業が終わった後で、疲労で動けなくなるのは困ったものです。表現が定まらなかった若い時代と比べれば、失敗は最小限になり、無駄な動きもなくなりました。と言っても慣れが生じるほど技術を把握できていないので、無我夢中で取り組んでいる姿勢を今だに保っています。自分が今までに獲得した技術の範囲で作っていれば、もう少し余裕が生まれるのでしょうが、イメージ先行の新作は常に技術的な挑戦が伴い、不安や焦燥はまだ私の中に燻っている状態です。私はどのくらい成長できたのか、作品はどのくらい展開して、深遠な思索を湛えているのか、自分ではまるで分かっていないため、相変わらず自分の無力さを思い知るばかりです。ウィークディの仕事では曲がりなりにも職場のトップとして、人に指示をする立場にありながら、週末になって工房にやってくると、私はたった一人の人間として己の力の無さを曝け出しているのです。そのギャップが私自身であり、社会的に認められた優位な立場と、人間的な弱さに喘いでいる陰の自分の双方が、私という個人を形成しているのだろうと思っています。工房での作業は明日も継続です。
2019.11.15 Friday
今日は私の自家用車について書きます。私は大学生の頃に運転免許を取得し、亡父の造園業を手伝っていました。私が最初に運転した車が2トントラックで、植木や庭石の運搬をやっていました。実家にトラックがあったのは彫刻をやっている私にとって何かと重宝して便利でした。併せて乗用車もあったので、父にお願いして時折運転していました。乗用車をトラックのように雑に扱うと父に怒られました。当時はオートマチック仕様はなく、ギアチェンジをいかに巧みにに出来るか、運転の楽しみのひとつになっていました。社会人になって自分で車を購入した時は、オートマチック車が主流になっていました。最初の車は軽ワゴンでしたが、そのうち自分の趣味が反映した車に替えていきました。私は目的のないドライブがあまり好きではなく、メカニックにも興味がないことが徐々に分かってきました。車は自分の造形感覚を満たすモノという概念があって、機能よりデザイン重視になっていきました。それは昔を考えてみると、私は大学時代に彫刻科の教壇に立っていた篠田守男先生が乗っていたポルシェを遠くで眺めていて、稀有な車の美しさに憧れを持ったのに端を発していると思っています。私はクラシックなデザインが好きです。そこでクライスラー社のPTクルーザーを購入しましたが、外車は一度故障すると部品の取り寄せに時間がかかるため、次の車は国産車にしようと決めました。次に買い替えたのが光岡自動車のビュートです。これは他社の車をベースカーにしているため、点検等は日産でやってもらうことが可能です。今回は修理を含んだ点検のため、光岡自動車の横浜ショールームに車を預けることにしました。光岡自動車は風変わりな会社だなぁと思っています。工場は富山県にしかなく、車体は手作りのために納車に時間がかかります。それでも私はビュートが気に入っていて、現在は2台目です。最初のビュートの外装はブリティッシュグリーンでした。今のビュートはワインレッドです。どちらも色彩がいいなぁと思っています。光岡自動車は飛び切りな贅沢を売っている会社だろうとショールームを見ていて感じました。
2019.11.14 Thursday
「モディリアーニ 夢を守りつづけたボヘミアン」(ジューン・ローズ著 宮下規久朗・橋本啓子訳 西村書店)の第8章「南フランスで迎えた終戦」のまとめを行います。本章ではモディリアーニの妻となるジャンヌ・エビュテルヌとの出会いがあります。モディリアーニと知り合った頃の彼女はまだ十代で、国立美術工芸学校に在学していました。「モディリアーニに会うやいなや『彼女は俺(モディリアーニ)の虜になった』と誰もが認めている。ジャンヌがモディリアーニに心を引かれたのは、彼の容貌に魅せられたのと同時に、彼の才能、とりわけその画風と、彼の女性関係に興味を覚えたからであった。」ジャンヌは良家出身で無垢な面と野心家の面があったようです。ジャンヌはモディリアーニの子供を身籠り、やがて女子を出産します。「生まれた子供は女の子で、母親の名前をとってジャンヌ・エビュテルヌと名づけられた。しかし、モディリアーニは娘をジャンヌのイタリア語名であるジョヴァンナという名で呼んだ。彼は興奮し、喜んではしゃぎまくり、情熱的で忘れっぽい父親となった。赤ん坊が生まれた後、彼は興奮のあまり、市役所に行って出生届を出すのを忘れてしまったのだ。」こんな一文もありました。「モディリアーニの赤ん坊の成長に対する喜びと驚きは、彼がほかのことにも強い関心を見せていることから、突飛にも思えるが、赤ん坊に対する彼の気持ちは本物であった。」彼の画商ズボロフスキーは画家オステルリンドの家に彼を連れて行きました。「『モディリアーニは…イタリアの貴公子のごとく美しい男だったが、疲れ切って汚れていた…あたかもジェノヴァの港で引き上げられたように。彼の影のように彼に寄り添うズボロフスキーは、その親密な友情から、彼をニースの危険な生活から守ろうとしているようであった』オステルリンドとその妻ラシェルは、モディリアーニを精一杯あたたかくもてなした。」オステルリンド宅の近くに77歳の巨匠ルノワールが住んでいて、モディリアーニを紹介することになりましたが、話がお互いの作品のことになると会話に緊迫した雰囲気が流れたようです。「作風からいっても両者の違いは明らかだった。肉体そのものの美しさに魅せられていたルノワールは、素朴でありながら様式化された優美な裸婦を描くモディリアーニに反抗した。モディリアーニは明らかに、この年長の画家の挑発的な反抗心に気づいていた。」
2019.11.13 Wednesday
横浜美術館で開催中の「ルノアールとパリに恋した12人の画家たち」展の図録の中で、20世紀初頭のパリに集った芸術家たちが、アフリカ芸術に感銘を受けて、自らの表現の中にプリミティヴな生命を宿した造形を取り入れたことが書かれていました。私も近代西洋美術史の中で、当時の画家や彫刻家を通してアフリカ芸術に触れ、その生命力の強さに惹かれてしまったのでした。私は日本にあるアフリカ系の雑貨店に時々立ち寄り、気に入った仮面等を購入して自宅の壁に掛けて楽しんでいます。そのうち工房にも仮面コーナーを作ろうと思っています。素朴で呪術的な造形が前衛芸術を牽引することになった動機は何か、図録から紐解いてみたいと思います。「19世紀半ば以降のヨーロッパでは、アフリカの植民地化が進むにつれて、同地に関する調査研究も進展した。~略~まずは民族誌的な資料として受容されたアフリカの器物であるが、やがて前衛芸術家たちがその美的価値を見出し、芸術としての側面を発見していく。~略~ピカソが《アヴィニヨンの娘たち》の制作に先立つ数か月前、すなわち1907年6月頃に、トロカデロ民族誌博物館でアフリカやオセアニア美術から啓示を受けたことはよく知られる。」(片多祐子著)そうしたことの動機となるコトバがフランスの美術評論家によって語られています。「われわれは公的なサロンの出品作にはうんざりしている。何か違うものを求めているのだが、それが何であるか確信は持てない。~略~この種の刺激を求めてわれわれはニグロ彫刻を、その迫真性、独創性、生命力といった質ゆえに称賛するようになった。」(アンドレ・ワルノー)画商ギヨームは非西洋の持つ力に共鳴して芸術家たちの橋渡しをやっていたのでした。「ポール・ギヨームの1910年代の活動を振り返ると、そこには、同時代の美術を擁護した姿だけでなく、ハイアートとしての絵画とサブカルチャーとしての〈ニグロ芸術〉の混淆を標榜し、時代を先駆けた文化の発信者としての姿も立ちあらわれる。彼にとっての〈ニグロ〉は、アフリカやオセアニアのオブジェという存在を超えて、『時代の精神』であり『新たな美学』であり、一つの思想であった。~略~モダンアートと〈ニグロ芸術〉は、相互に補完し合いながら、アンドレ・ブルトンが『最も早く近代の啓示を受けた者のひとり』として賞賛した、ポール・ギヨームの先見の明を物語っている。」(片多祐子著)
2019.11.12 Tuesday
先日、開館延長の金曜日に横浜美術館の「ルノアールとパリに恋した12人の画家たち」展に行ってきました。ルノアールを含む13人の画家はA・シスレー、C・モネ、A・ルノアール、P・セザンヌ、H・ルソー、H・マティス、P・ピカソ、A・モディリアーニ、K・ドンゲン、A・ドラン、M・ローランサン、M・ユトリロ、C・スーティンで、錚々たるメンバーの作品が出品されていました。これはパリのオランジュリー美術館所蔵の作品で、この時代の西洋絵画が好きな鑑賞者にとっては嬉しい内容ではないかと感じました。13人に共通しているのは全て画商ポール・ギヨームによる収集品で、時代を読む先見の明があった人の業績を讃える展覧会にもなっていました。図録から引用すると「ルノワールからスーティンまで、このコレクションは印象派から表現主義に至るまでの具象美術の系譜を際立たせている。~略~パリの前衛を好んだ創設者ギヨームの趣味に根ざすものである。一方で、ルノワールからピカソまでの貴重な傑作品によって特徴付けられる世界でもユニークなこの作品群には、どちらかというと古典的な部分を強調したいと願ったドメニカ(ギヨームの妻)の趣味とが、混ざり合ってもいるのである。」(S・ジラルドー著)とありました。コレクションの中でも今回はルノワールに主軸があるように思えて、改めてルノワールに対しての認識を新たにしました。「戦争がもたらした混乱や社会不安に対して人々は安定や秩序を求め、美術においても戦前のキュビズムやフォーヴィズムなどの前衛芸術の『行き過ぎ』に対する反動として、創作の源泉を古典に求め、人間性を回復しようとする動きが現れたのである。このような状況を背景に、女性の肉体美をおおらかに描くルノワールの後期作品に注目が集まるようになっていた。」(沼田英子著)今回の企画展に関するものはこれだけではなく、ギヨームの前衛美術に対する出発点が非西洋にあったことに私は注目しました。「ギヨームは、早くからアフリカ彫刻の芸術性に注目し、西洋と非西洋の美意識の融合のもとに前衛美術を牽引しようとしたのだが、彼のコレクションはそうした芸術観により構築され、この展覧会(1922年)はそれを端的に示したものだったと考えられよう。」(沼田英子著)私はアフリカ彫刻がこの時期の画家たちに影響した形跡に興味関心を持っていて、これに関しては別稿を起こそうと思います。