2019.07.27 Saturday
個展終了から早くも1週間が経ちました。間を開けずに新作を作り始めるのが私の流儀です。ちょっと休みたい気分になりますが、休息を入れるのは新作を作り始めてからと決めているのです。実際、新作の陶彫部品のひとつが出来ています。私の場合、制作に苦しんでいる最中に次作のイメージが天から降ってきます。自分を追い詰めているにもかかわらず、これは現実逃避なのかなぁとも思っているのですが、次作のぼんやりとしたカタチが見えてきます。それは根の陶彫部品の連結したものが縦横無尽に網のように走っているイメージでした。床から壁に立ち上がり、血管のようにところどころが太くなっている動的な世界でした。先週までギャラリーに展示してあった「発掘~双景~」に植物的または動物的な生命を感じ取っていただいた鑑賞者も多く、その感想に勇気づけられて、生命体の発展形とも言える次作が朧気なものから次第にカタチを現してきたのでした。壁なら角度のある屏風にしようと思っています。まだ雑駁なイメージですが、制作を進めていくうちに具体的なイメージが次第に決まっていくのです。私にはそういう思索と技法とが行ったり来たりする傾向があります。今日は工房で考える時間が多く、なかなか制作に手が出せない状態でしたが、明日から迷いなく進めていける気がしています。既に作ってあるひとつの陶彫部品は、どこかに組み込んでいこうと思っています。夕方は職場のある地域で祭礼があり、来賓として出席して来ました。昨日から台風が心配されていましたが、何とか盛大な祭礼が出来て喜ばしく思っています。実際は明日から新作を開始します。
2019.07.26 Friday
国立新美術館で開催中の「ウィーン・モダン」展には、「クリムト、シーレ 世紀末への道」という副題がつけられています。オーストリアの首都であるウィーンの都市としての変遷を展覧会前半で取り上げていて、後半は専ら世紀末から20世紀初頭に興ったウィーン分離派やウィーン工房の作品が中心になっていました。図録には「1897年、グスタフ・クリムトに率いられた若い画家たちのグループは『時代にはその芸術を、芸術には自由を』という理念の下に、オーストリア造形芸術家協会を結成した。いわゆるウィーン分離派である。」とありました。クリムトの分離派以降の作品はよく知られていますが、私が注目したのは素描を含む初期作品で、古典的な寓意画を描いていたクリムトは「アレゴリー:新連作」あたりからクリムトらしさが出てきたように感じました。時を同じくして登場したウィーン工房は、図録によると「1903年、工芸美術学校出身の芸術家たちを主要メンバーとして、ウィーン工房が設立された。彼らは[アーツ・アンド・クラフツ運動に代表される]英国のやり方を手本にしながら、趣味が良く上品な日用品の生産を目指した。創設されるや否や、ウィーン工房はユニークで印象的なウィーン・スタイルを発展させ、国際的なセンセーションを巻き起こしたのだった。」とありました。機能性と美観を兼ね備えた日用品やポスター等に、私は改めて感銘を受けました。展覧会場に多くの日用品が並ぶ光景は、日常生活の中に新しい美意識が入り込んだ事例が示されていました。さて、次に控えていたのはエゴン・シーレの絵画やデッサンでした。ウィーンを総括する中でシーレを見ると、明らかにシーレの特異な世界観は、現代に近いものとして認識出来ました。次世代の、つまり表現主義的な作風の上に彷徨う悲劇性は、今日まで続いている芸術家のテーマとも言えます。度々彼のテーマとなっている死とエロスも、芸術家本人の自己告発を視覚化する試みであって、それは現代に通じるものだろうと感じました。シーレは28歳で夭折した画家でしたが、短い人生の中で強烈で斬新な足跡を残したためにオーストリア美術史に刻まれる芸術家になったのでした。
2019.07.25 Thursday
今年は日本とオーストリア交流150周年にあたる記念すべき年で、とりわけクリムトを初めとする大掛かりな美術展が開かれています。私は先月、東京都美術館で開催されていた「クリムト展」に行ったばかりだったのですが、先日は六本木の国立新美術館で開催されていた「ウィーン・モダン」展にも足を運びました。「ウィーン・モダン」展は18世紀の啓蒙主義時代からビーダーマイアーの時代への変遷をたどる総括的な歴史を垣間見せる展示がありました。そうした時代を経て、ウィーンの外壁が取り壊され、そこに大通り(リンク)が完備され、近代都市へ生まれ変わるウィーンの姿が映し出されていました。「クリムト、シーレ 世紀末への道」と本展の副題にありましたが、ウィーンはいきなり近代化が行われたわけではなく、時代的必然があって、皇帝文化から市民文化へ社会が進んでいく過程で新しい価値観が芽生えていったように思います。それでも図録にある通り「都市の開発は50年以上におよび、第一次世界大戦が勃発する直前になっても完成していなかった。~略~建築家が目指したのは、歴史的な形式だったのである。~略~歴史主義建築の仰々しい発展性とその限界とを、一度に、これほどわかりやすく白日の下にさらけ出してみせた場所は、ほかにはないだろう。そればかりかリンク通りは、オットー・ヴァーグナーやアドルフ・ロースに代表される機能主義的な新しい建築の基礎をつくりだし、歴史主義の束縛からの開放をもたらすことにもなった。」とあるのはどういうことなのでしょうか。懐古趣味的な建築に対するアンチテーゼとして、新しい美観が登場したということでしょうか。若い頃に5年間をウィーンに暮らした自分には、疑似古典主義の建造物とシャープな近代的建造物が共存するウィーンの街は、それだけ刺激的で楽しい場所でした。時代が変わっても建築や美術工芸や音楽は、新旧どちらにしてもあらゆるものが西欧的な捉えであって、東洋からきた自分にはそれら全てが異国情緒に思えたものでした。美術作品については稿を改めます。
2019.07.24 Wednesday
個展を見に来られた人の中で、文筆業をやっていらっしゃる方がいます。彼は書籍を何冊か出版されていますが、私にとっては恩師とも思える人です。時間が合えば貴重なお話を伺えるのですが、今回は私がいない時間に来廊されたようで、芳名帳に名前がありました。数日後にお手紙をいただいて感謝に耐えません。ご高齢にも関わらず横浜から東京銀座まで足を運んでいただいて恐縮しておりますが、先生の思考の冴えは相変わらずで、心より驚嘆いたしております。昨年はゴーギャンの大作「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」に託けて、私の作品を論じてくれました。今年は図録に掲載した「重層空間」の考え方を私の作品に投影して、お言葉を頂きました。「貴君の提示された『重層』という意識は、結果でしょうか、それとも過程でしょうか。後者の方に思え、その視点でみると、今回の作品はしっかりと大地に根を張った大樹のイメージが浮かんできます。『発掘』はその原点を求めて努力する真摯な姿勢の瞬時の自己認識でしょうか。人間とは…、何処から…、と言った宿命的な命題に迫る重い活動。ゴーギャンがタヒチに求めたノアノアの精神にも通じるような取り組みと受けとめました。これに気づくと、作品を形作る硬質な物体が、親しみ易い柔軟性を帯びてきました。静的なものの中に動的な暖かさが開花するようでした。つまり、重層柔構造の世界がみごとに構築されていると思いました。老妄虚言にて御容赦。」凄いお言葉を頂いて、暫し呆然としましたが、多大な励ましと感じて、力が湧いてきました。とりわけ私は「作品を形作る硬質な物体が、親しみ易い柔軟性を帯びてきました。静的なものの中に動的な暖かさが開花するようでした。」というくだりが大好きで、この一文を他にも使わせていただこうと思っています。
2019.07.23 Tuesday
サミュエル・イェスルン・デ・メスキータは20世紀初頭に活躍したオランダの画家・版画家・デザイナーで、ユダヤ人だったためにナチスドイツの強制収容所で家族諸共処刑されています。彼がオランダの美術学校で教壇に立っていた折、在籍していた生徒に騙し絵で有名になったM・C・エッシャーがいました。メスキータとの師弟関係はずっと続き、メスキータが処刑された時に、残された遺作をいち早く保管したのは他ならぬエッシャーだったようです。日本で初めてとなる「メスキータ展」は東京駅ステーションギャラリーで開催されました。私は初めてメスキータの作品群に触れて、木版画のモノクロが齎す力強い印象に圧倒されました。会場は多くの鑑賞者で混みあっていて、遅ればせながらメスキータの作品が確実に日本人の心を捉えていた様子を見ることができました。数ある作品群の中で、私は人物を彫った木版画に興味を持ちました。量感に線彫りでハッチングをつけた人物像は、彫塑的であり、その輪郭の単純化にプリミティヴな力を感じました。さらに私が学生時代から大好きだった表現主義を髣髴とさせる雰囲気を持っていて、こんな芸術家が埋もれていたことに改めてショックを感じました。図録から文章を拾います。「浮世絵のメスキータへの影響は、輪郭線による簡潔な表現に最もよく表れていると思われるが、多くの作品では陰影がなく、この点も浮世絵の表現と共通するものがある。言うまでもなく、日本美術では西欧美術と異なり、伝統的に影を描くということをほとんどしてこなかった。メスキータの木版画の装飾的な性格は、アール・デコからモダン・デザインへと到る、20世紀前半の装飾美術をめぐる状況と無縁ではない。メスキータの作品の装飾性とは、決して飾り立てる性質のものではなく、むしろ細部を単純化して幾何学的形態に還元する過程で生み出される装飾性であり、それは20世紀のデザインの潮流に準じたものでもある。」(冨田章著)ここで弟子であるエッシャーの語った言葉を引用いたします。「彼の作品はひと握りの人々にしか評価されず、広く理解されないところがある。メスキータは常に我が道を行き、頑固で率直だった。他の人々からの影響はあまり受けなかったが、自分では強い影響を若い人たち、とくに学生たちに与えていた。学生たちが猿真似をしたときーそれはよく起きたことなのだがーメスキータはしばしば不機嫌になった。とはいえ彼の影響を受けた学生たちの大半は、遅かれ早かれ、その影響から抜け出した。というわけで彼はひとつの流派を作らなかったし、そのことによって、メスキータの孤独で強烈なパーソナリテイはさらに魅力的なものになっていく。」