2018.11.12 Monday
先日、常連になっている横浜のミニシアターにフランス映画「オーケストラ・クラス」を観に行ってきました。フランスの音楽教育プログラムを題材にした人間ドラマと銘を打っていましたが、厳しい環境に育った移民の子どもたちが次第に音楽に目覚めていく様子を描いていて、心に宿る美に対する枯渇が見事に表出する映画だったと思いました。妻と別れ、娘とも疎遠になった中年のバイオリニストのダウドが、パリ郊外にある小学校の音楽クラスに足を踏み入れる場面から映画は始まりました。やんちゃな子どもたちは楽器を遊び道具にして騒ぎ続け、ダウドに失望させますが、それでも担任教師の支えもあって、何とか演奏のカタチになっていきました。練習中も子どもたちのトラブルは絶えず、思わず体罰をしてしまったダウドは、両親に謝罪をする場面がありました。またアフリカ系の児童に才能を見出してソリストとして任命するなどの日常を描く中で、ダウドと子どもたちは信頼し合う関係になりました。他校との合同練習では散々な結果となった子どもたちでしたが、フィルハーモニー・ド・パリのメインホールに立つという目標達成のため、自主練習を始めていきました。一緒に観ていた家内が映画の演出で指摘した箇所があります。まず、ソリストになった児童にダウドが渡すバイオリンです。娘が使っていたものだと言っていましたが、演習用のバイオリンではどんなに努力しても音響に限界があると家内は言うのです。楽器は高価なものでなければならないそうです。もうひとつは本番前に子どもたちや親たちが一緒に食事を楽しむ場面です。冗談を言い合うくらいの仲にならなければ、演奏を通して心がひとつになれないと言っていました。私は映画の中で大した場面と思わなかった箇所が、胡弓奏者である家内には納得いく演出であったことに、私は思わず頷いてしまいました。図録によると、主演のダウドも子どもたちもバイオリン演奏は素人だったようで、本番の演奏は別の演出があったのではないかと家内は言っていました。バイオリンはそんなに簡単な楽器ではないというのが家内の感想で、数か月であれほど上達することはあり得ないそうです。
2018.11.11 Sunday
土曜日はウィークディの疲れが残って、なかなか制作が捗らない日ですが、昨日は過密スケジュールの中を動いてしまったので、疲れは今日に持ち越されていました。朝から工房に篭っていたのですが、身体が思うように動かず、楽しいはずの成形や彫り込み加飾も辛いと感じました。いつもの日曜日なら作業が進むところなので、少々焦りました。それでも夕方には17個目の陶彫部品の成形や彫り込み加飾を終わらせることが出来ました。以前、創作活動は信仰だと書きましたが、次第に無心になっていくのは感情を通り越して、まさに何かに憑かれたように動いてしまうのが不思議なところです。焼成が終わって完成した新作の土台を見ていると、ウキウキした気持ちになりますが、実際の作業は面白くも退屈でもなく只管身体を動かしているだけで一日が過ぎていきます。今作っている陶彫部品の1つが、全体の中でどう効果を齎すか、それを頭の隅で考えてはいますが、それでもこの部品のみに全精力をかけてやっています。全体を考えると精神的にはきつくなるので、その時期が来るまでは部品1つだけに関わっている方が健康的なのです。今月はもう2個か3個ばかり陶彫部品を作ろうと思っています。幸い3連休があるので、それも可能と思っています。
2018.11.10 Saturday
週末になりました。今日一日を振り返ってみれば過密スケジュールをこなした一日になってしまいました。予め時間をきちんと決めていたので、慌てることはありませんでしたが、今日は休日をゆっくり過ごすことはなく、3つのスケジュールを順番にこなしていきました。まず、午前中は常連になっている横浜のミニシアターに出かけました。映画の上映が9時5分から始まり、終了が10時45分でした。前から家内が観たいと言っていたフランス映画「オーケストラ・クラス」はこの時間帯しか上映していないので、朝一で映画鑑賞をしたのでした。移民の子供たちが通うパリ郊外の小学校に音楽クラスがあり、そこに10数人の児童がいました。バイオリンに触れたこともなく、クラシック音楽も知らない問題児たちを、一人の音楽家が演奏でまとめ上げていく苦難さを映画では描いていて、最後はフィルハーモニー・ド・パリのメインホールでの演奏を見事に仕上げていく物語でした。これは言うなればサクセスストーリーです。家内は胡弓奏者ですが、幼少の頃にバイオリンを習っていました。バイオリンの難しさを人一倍わかっていたので、演出の細かい箇所にも気を留めていました。家内は映画のストーリーを予想していたにも関わらず、観終わった後になっても、話題が尽きないほど面白かったようです。詳しい感想は後日に回します。帰宅したのは午前11時半ごろでしたが、私は午後1時半から管理職の研修会が組まれていて、スーツに着替えて家を出ました。横浜駅で軽めの昼食をとり、桜木町に向いました。研修会が終わったのが午後4時半でした。すぐ帰宅して作業着になり、夜の工房に行きました。時間としては夕方6時くらいだったかなぁと思っています。明日は陶彫成形と彫り込み加飾をやるために、今日のうちに大きなタタラを6枚用意しなければならず、これが私にとっての最後のスケジュールになりました。今日は映画鑑賞、管理職研修会、陶彫制作のための準備と、朝昼晩に分けて3つのスケジュールをこなしましたが、全て終了したのは夜8時を過ぎていました。やれやれ。今日は些か疲れました。明日は工房に篭ります。
2018.11.09 Friday
昨日のNOTE(ブログ)に書いた件をもう一度取り上げます。私は数十年にわたって続けている創作活動が、自分の行動ながら何かに憑かれたように感じていて、自分なりに腑に落ちるものは何かを考えていました。近くで見ている家内が、まるで宗教見たいだねぇと呟いたのが契機になり、昨日のNOTE(ブログ)にその思いを書いたわけです。これは私独自の信仰だと考えるようにしましたが、確か前にも信仰についてNOTE(ブログ)に書いた記憶があり、アーカイブを調べてみました。2016年6月7日と8日に「信仰とは何かを考える」というタイトルで、宗教との関連による信仰について述べているのが見つかりました。フロイトの「宗教論」に触発されて書いた内容ですが、特定な宗教信者でない者が、己の内面の脆弱さを補うものとして、何かを信仰することはあるのではないかと書いたのでした。キリスト教に関しては、神に従う代わりに救済を求めて、善い行為が死後に報われるという西洋的弁証法を礎に、人間を超えた存在が希望を叶えてくれるかもしれないという他者依存の現れだろうと自己解釈をしています。今回は創作活動に絡めた信仰に関する私見なので、以前の文章とニュアンスが異なります。そもそも信仰とは神仏を信じ、その威徳に頼ることですが、私は内面の脆弱とは別に、神仏以外のパワーの源になるものに頼っていると思っているのです。社会的ニーズがない創作活動で、しかも命が絶えるまで打ち込んでいこうとする意志は、信仰心以外には考えられないと思っています。それは特定宗教のような弁証法や戒律があるわけではなく、個人的な求道に過ぎませんが、何かが最終ゴールとして存在すると信じて疑わずに邁進していくのは信仰そのものではないかと感じているのです。
2018.11.08 Thursday
私は特定の宗教を持っていません。実家の菩提寺は浄土宗ですが、私はとりわけ仏教に関心があるわけではなく、葬祭の時にだけ祖先の墓がある菩提寺に行く程度です。ついでに墓参りも疎い方ですが、最近は墓に行くと妙に清々しい気分になるのが不思議です。死の意識はそんなところから歩み寄っているのかもしれません。私は生きているうちに自らの死を概念化したいと願っていて、哲学的な自己死生観の確立が私を創作活動に掻き立てているのではないかとさえ思っているのです。ところで週末毎に生真面目に取り組んでいる創作は、何のためにやっているのか、前述した死生観は頭の中の思索に過ぎず、実際に陶土と格闘している行為は、常時無心と言った方が気持ちに合致するかなぁと思います。若い頃は芸術家としての立身出世欲があって、焦りや嫉妬もありました。長く継続しているうちに、そんなことはどうでもよくなり、純粋に創作を楽しむようになりました。そこで疑問なのは、楽しむだけで数十年も創作活動がやれるだろうか?ということです。しかも自己満足がなかなか得られず、他人にとってはどうでもいいことに尽力している自分は何者だろうか、自分は何を求めているのだろうか、私には自分のしていることがよく分からないのです。疑問に答えるべく考えたことは、特定の宗教を持たずとも信仰を持つことは可能ではないかと言うことです。私は何かを信仰している、創作を持続するパワーの源にあるもの、それを今までずっと敬虔に信仰しているのではないか、そう考えれば自分の行為が腑に落ちるようにも思えます。宗教観の乏しい自分は信仰の何たるかにも思いは及ばず、こんなことを信仰と言えたものではないのかもしれませんが、妙なことだとは知りながら、創作活動は信仰によるものという勝手な解釈をさせていただいています。神の存在を私は認知できません。それでも信仰はあるのではないかと思うこの頃です。