Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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  • 某日の新聞の小欄より
    自宅のテーブルに置いてあった朝日新聞の小欄「折々のことば」に気になった記事がありました。短いので全文を引用します。「味で見る人の評には、要を尽くしている割合に案外聴くべき所が少ないが、感じで敲かれるとどこか痛く身に応える所がある。」というのは陶芸家濱田庄司の一文です。その解説として鷲田精一氏が書いている内容を掲載します。「『味』とは作品の形や調子や模様といった細部の風合いを、『感じ』は全体の印象をいう。『味』はある程度まで狙って出せるが、『感じ』は違うと、陶芸家は言う。『味』に蘊蓄を傾ける粋人でなく素人の感想が怖いのは、『離れて自身の角度でぶつかって』いて、作家の知らない『未成の標準』を突きつけてくるから。」とありました。これは随想集「無盡蔵」よりの抜粋で、濱田庄司の陶芸を思い浮かべると成程と思えます。数多の作品を見て批評する人は、確かに知識が豊富なため、蘊蓄を語ります。そこで作家は得るものもありますが、その世界を知らない人が個人の感覚だけで訴えてくるものには、ハッとさせられることがあります。「未成の標準」というのはそのことを言うのだろうと思います。私の個展に来られた方は、実にさまざまな感想を述べていかれます。私はつい評論家や文筆家のコトバに耳を傾けてしまいますが、現代彫刻を初めて見た方の中に、本当に面白い感想を放つ方がいらっしゃって、私はドキリとすることも暫しあります。とりわけ私が嬉しかったのは幼児の反応でした。作品に登って遊びたいと駄々をこねる子に、芸術作品に触れてはいけないと叱る母。勿論その通りですが、全身興味が漲っている子に私は極上の喜びを与えられました。「自身の角度でぶつかって」くるなんて言い得て妙な表現だなぁと思いました。
    茅ヶ崎の「小原古邨展」
    先日、茅ヶ崎市美術館で開催されている「小原古邨展」に行ってきました。日本美術史の中で埋没していた芸術家が、これからさらに発見されて脚光を浴びることがあるのでしょうか。江戸時代の絵師伊藤若冲や奄美を描いた日本画家田中一村もそうでした。田中一村はNHK日曜美術館で放映されたことが契機になって一躍有名になった画家でした。木版画家小原古邨もNHKの番組で知りました。小原古邨は明治末期に活躍した画家で、海外への輸出を念頭に置いた版下絵の制作で、海外で人気を博したようです。実業家原安三郎の浮世絵コレクションの中に、かなりまとまった小原古邨の版画が含まれていたことで、今回の展覧会が可能になったことを、私は一人の鑑賞者として嬉しく思います。図録によると「古邨の花鳥画を魅力的なものとしたのは、それが版画であったからといっても過言ではない。例えば、雨の情景を題材とした作品をみると、背景にグレーのグラデーションを加えて雨脚の強さを表現したり、雨の線を単に空摺で加えて霧雨のような柔らかい雨を表現したりと、その多様な表現は、木版画でなければできないものである。」(小池満紀子著)とありました。まさに超絶技巧がなせる優雅な空気感を感じさせる木版画で、花弁一枚に宿る情緒、波飛沫ひとつに宿る生気をじっくり鑑賞しました。茅ヶ崎市美術館は原安三郎の別荘跡に建てられた美術館で、規模としては大きくはなく、浮世絵を鑑賞するにはちょうどいい空間でしたが、テレビ放映があったためか、館内は混雑していてゆっくり鑑賞できる雰囲気ではありませんでした。それでも小原古邨ワールドに入り込んでしまうと時が経つのを忘れ、巧みな画面構成に惹かれていきました。小原古邨はこれから知名度を増していくのでしょうか。もっと注目されてもおかしくない力量を持つ画家であることは間違いなさそうです。
    週末 疲労を抱えた制作
    週末の日曜日となればウィークディの疲労が取れて、思う存分制作に入るところですが、今日は違いました。金曜日の夜から職場で研修旅行に出かけ、昨日は湯河原から帰って来た後、時間を置かずに神奈川県茅ヶ崎市や東京都町田市の美術館に出かけました。2つの展覧会とも内容が濃くて、私は我を忘れて食い入るように作品を見続けてしまいました。昨日は充実した鑑賞でヘトヘトになっていたため早めに床に就きましたが、今朝も疲労が取れず工房に行ってもなかなか作業を始められませんでした。とりあえず窯のスイッチを今日中に入れなければならず、まずは乾燥していた陶彫部品2点の仕上げと化粧掛けを行いました。ここで言う仕上げとは、ブロックサンダーを使って、陶彫の表面にある指跡を消す作業のことを言います。創作的な作業とは異なり、只管ヤスリがけを行うだけなので、多少疲れていても問題なく進めることができるのです。化粧掛けも負担は軽いので、何とか夕方に窯入れまで辿り着くことができました。制作工程ではこの後40キロの土練りを行うことになっていましたが、無理をせず土練りは後日に回しました。今日は昼ごろ窯や陶芸道具を扱う業者が訪ねて来ました。その業者は運送業の資格を持っているので個展の搬入搬出でも手伝ってもらっています。工房のロフトも業者の伝手で鉄工所を紹介してもらって作っていただきました。その業者と話をしているうちにロフトの拡充を考えるようになりました。しかもロフトに作品を上げるために天井クレーンを設置しようかとも思いました。ロフトを作る時に、ロフトを支えるために数本の鉄柱を新たに追加設置してロフトの床を補強しています。立派な鉄の階段も作ってもらいましたが、人が運搬するのが大変で、比較的軽いものしかロフトに上げていないのです。電動式の天井クレーンがあれば、箱詰めの陶彫部品もロフトに置くことができます。その計画は私が現職でいるうちに施工しようとも考えました。お金がかかるので退職前が都合がいいのです。今日は疲労を抱えていたので軽めの作業で工房を後にしました。
    週末 版画による2つの美術展
    昨夜から私の職場では職員研修として湯河原に来ていました。一晩ゆっくりお互いの仕事を振り返る機会を、私は大切にしています。夜が更けるまでお喋りが尽きない職員たちの雰囲気を、今後も継続していくのも私の役割かもしれません。私は旅館で朝食を済ませた後、他の職員より早く湯河原を出させていただきました。自宅に戻ったのが9時を回っていましたが、今日は2つの美術展に行く予定にしていて、家内とすぐに自宅を出ました。2つの美術展は神奈川県茅ヶ崎市と東京都町田市でそれぞれ開催していて、かなり離れていたので車を使いました。東名高速から圏央道へ車を走らせ、茅ヶ崎で降りました。茅ヶ崎市美術館で開催されていた「小原古邨展」は、先日NHK日曜美術館で放映されていたためか、鑑賞者でかなり混雑していて、比較的小さな美術館だったにも関わらず、行列を作って鑑賞している有様でした。私もテレビで知ったばかりだったので、美術史に埋もれていた超絶技巧を凝らしたこの木版画家の作品をひと目見たいと駆けつけた一人でした。人を掻き分けて観た作品は、期待通りの表現力を持った素晴らしいものでした。「小原古邨展」は別稿を起こしたいと思います。後日詳しい感想を書きます。次に向ったのが東京都町田市だったので、再び圏央道と東名高速を走り、横浜町田で降りました。町田市立国際版画美術館で開催されていた「ヨルク・シュマイサー 終わりなき旅」展は、絶対行こうと決めていた展覧会でした。ドイツのハンブルグ美術アカデミーでパウル・ヴンダーリッヒに学んだヨルク・シュマイサーの作品を、私は学生時代に知りました。その頃、渡欧を考えていた私は日本に関係の深かったヨルク・シュマイサーに会いたいなぁと思っていたのでした。展覧会場に私の見たことのある何点かの作品も並んでいました。初めて見る作品が多かったのですが、エッチングの面白さに溢れた世界に、暫し我を忘れてしまいました。質量共に凄さを見せつけられ、旅で得たイメージを版画に刻み込んだヨルク・シュマイサーは比類なき芸術家であろうと思います。この展覧会も詳しい感想を後日に改めます。今日は奇しくも版画技法を用いた2人の優れた芸術家の作品に触れました。私は学生時代より彫刻とともに版画に興味を持ってきました。版画は現在制作を休んでいますが、時間が出来たら再開をしたいと思っていて、その起爆剤になった2つの展覧会だったなぁと思いました。
    「つくる」という意味
    創作行為は人の持つあらゆる能力を最大限に活用するものだという考えが私にはあります。「つくる」というコトバを漢字にすると「作る」と「造る」と「創る」の3つの漢字が当てはまりますが、いずれも多少意味が異なります。一般的には「作る」という漢字を用います。私も通常、彫刻を作ると書いています。たまに「造る」を用いますが、これは構築物としての意味合いが強くなります。彫刻は立体なので「造る」という漢字を使っても一向に差し支えないと思っています。一般的には建築や庭園や造船の場合に用いているようです。それでは「創る」とはどういう場合を指すのでしょうか。これは新しいモノを作り出す創作行為に他なりません。「創る」はあまりに仰々しい意味になるので、照れくささもあって「創る」という漢字は使い辛いなぁと感じますが、私の作る彫刻は明らかに創るものだと思っています。私の場合、創る行為は最初のイメージを固める時に一番フィットする漢字かなぁと思っています。創作行為の最大の要素は原初的なイメージにあると私が感じているからかもしれません。その後は実材との関わりになりますので、作ると言う漢字がフィットします。私の彫刻は集合彫刻という形態をとっていて、最後にユニットを連結して全体を構成していきます。その行為は作るではなく、創る行為かもしれません。創るは最初と最後だけ、途中の作業は全て作る行為だろうと私は考えています。そういう意味であれば、創る行為は大変な精神的負担と面白さを兼ねていると言えます。まさに創作行為の本領がそこにあるからです。日本語は「つくる」という意味だけでもバリエーションに富んでいて、日本語を学ぶ外国人からすれば難解と受け取られる言語だろうと思います。私が外国人だったなら日本語を学ぶのは御免蒙りたいなぁと思います。